Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』伊藤典夫訳

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過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。(p.43)

 

1.

主人公のビリー・ピルグリムは1922年に生まれて、1986年2月13日に死ぬ。

作中で描かれる時間は、ビリーが生まれてから死ぬまでの64年間である。

ちなみにドレスデン無差別爆撃が起きたのは1945年2月13日である。

 

2.

この小説の作者である「わたし」は以前から、自分が第二次大戦中にドイツで経験したドレスデン無差別爆撃についての本を書きたいと思っていた。

「わたし」は1964年にかつての戦友・オヘアのもとを訪ねている。そこで、オヘアの妻メアリと、これから書こうとしている小説で戦争を描くことについて大事な約束をする。

それから三年後の1967年、「わたし」はオヘアと共に、ドレスデンを再訪している。

この旅は「最近経験したなかでもっとも楽しかった」ことであり、「笑いに笑っ」て、「わたしにはたいへん有意義な旅であった」という。

ちなみに1967年は、ビリーがトラルファマドール星に連れ去られた年でもある。

さらに翌1968年は、ビリーが飛行機事故に遭い、奇跡的に生還している。

そしてこの小説を書いている「わたし」も、1968年にいる。それは「二日前の夜」ロバート・ケネディが銃撃された」とという記述からわかる。具体的には1968年6月5日ということになる。

 

3.

この小説では、時間の流れが一定ではない。

というか「流れ」みたいなのはなく、断片的な出来事が順不同に語られている。

この特異な書き方は、「トラルファマドール星に伝わる電報文的分裂症的物語形式」を模したもの、ということになっている。

それは、「メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない」もので、

「始まりもなければ、中間も、終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない」のだが、

「多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができる」というものらしい。

 

4.

重要なイベントや伏線や登場人物の末路や小説の結末すらも、序盤からすでに「情報公開」されながら、順不同で物語は語られていく。

それはまさにトラルファマドール的である。つまり、「始まりもなければ、中間も、終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない」というわけだ。

読みにくそうに思われるかもしれないけど、そんなことはないです。

むしろ読みやすいし、超面白い。そくぞくする。

 作中では「時間旅行」と呼ばれているが、ビリーはとにかく時間を行ったり来たりする、自分の人生の範囲内で、自分の意志とは無関係に。

その時間の移り方が、とても鮮やかでかっこいい。

例えば戦後、ビリーがヴァレンシアと結婚して迎えた最初の夜の場面で、なんか色々と暗示的な会話をした後で、ビリーがトイレに行こうして、暗いバスルームに入って行く。そして「明りのスイッチを探るうち、粗けずりの板壁に手がふれ、一九四四年、収容所の病院に戻ったことを知った」となる。

こういう鮮やかな時空の移動の仕方に、私はぞわっとくるわけですが、こういう場面の連続でこの小説は構成されているわけです。最高です。

 

5.

緑色について。

わりと序盤で、トラルファマドール星人の体の色は緑色だということが紹介されている。

緑色に注目してこの小説を読んでみると、けっこう意味ありげに緑色が小道具として登場していることがわかる。

たとえば、前述のヴァレンシアの場面では、バルコニーから見える波止場を「みどりとオレンジの曳き船」が通りすぎ、

ビリーが殺される場面では、彼の後ろに「緑の地にヘレフォード種の牛が描かれた旗」があり、

他にもゴルフのグリーンだったり、キャンベルっていうむかつくやつの肩章が淡い緑の地だったりする。トラルファマドール星でビリーが暮らすドーム内の家具類の多くも「はっか色(うすい緑)」である。

何より、最後の場面でビリーが揺られるであろう馬車が緑色で、ここでは木々が芽を吹き出す様子が描かれている。

最も私が気になるのは、小説内で緑色が初めて登場する次の場面である(トラルファマドール星人の体の色の紹介以外で)。

 

「ビリーは時間のなかを飛び、眼をひらいた。彼はひすい色をした機械フクロウのガラスの眼をのぞきこんでいた」(p.79)

 

ひすい色、は綺麗な緑色。

機械フクロウとは、彼のオフィスにある視力計だそうだ。

1967年、トラルファマドール星人にさらわれる前年の出来事である。このオフィスの壁には、ある言葉が額に入れて飾られている。

 

 神よ願わくばわたしに

 変えることのできない物事を

 受け入れる落ち着きと

 変えることのできる物事を

 変える勇気と

 その違いを常に見分ける知恵とを

 さずけたまえ

 

というものである。

ビリーは、緑色のガラス越しに、何を見ていたのだろうが。あるいは見ていなかったのだろうか。緑色のガラスを透かしてみる風景からは、緑色を見つけるのが困難である。

 

6.

この小説を、ビリーが、「変えることのできない物事を受け入れる」ための物語、として読んでみることはできないだろうか。

ビリーが受け入れなければならない物事とは。

おそらくそのなかには、戦争(ドレスデンの爆撃)と、飛行機事故と、妻の死が含まれているはずである。

トラルファマドール星人は色んな大事なことをビリーに教えている。

私が好きなのは、「死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にある」という考え方である。

ビリーも気に入っているらしく、「いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめトラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”」という文章を新聞に投書しようとしていた。

 

7.

ビリーはトラルファマドール星で暮らしたりもしている。そこでは地球上の有名女優モンタナ・ワイルドハックと夫婦である。二人の赤んぼうもいる。妄想みたいな世界であると言えないこともない。

終盤、モンタナの首にかかってある銀のロケットが出てくる。胸の谷間にたれさがったそのハート型のロケットには、ある言葉が刻まれている。「神よ願わくばわたしに…」で始まる例のあれである。モンタナの胸をも含めたイラスト付きで、そのロケットの言葉は読者の目にも突きつけられる。

ビリーが現実を受け入れた瞬間かもしれない。このあとまもなく小説は終わる。

それで、思うんだけど、トラルファマドール星人は実在していたのだろうか。

緑色=現実を受け入れたくないがために、ビリーはあの場面で、緑色のガラスを覗き込んでいた、とは言えないだろうか。緑色を見えなくするために。

 

8.

(時間を)飛ばされること、緑色の国(トラルファマドール星)、後半ビリーが履くことになる銀色の靴、エレベーターに押し潰される人がいたり、ビリーは空色の服を着ていたり、なんだか『オズの魔法使い』ぽいよなあ、と思って読み進めていた。有刺鉄線にからまってもがいているビリーはカカシ的だし、錆びた小さな蝶つがいのきしるようなうめきをあげるビリーはブリキのきこり的でもある。ビリーは犬、飼ってるし。
とか考えていたら、ビリーたちがドレスデンを訪れたところで、

 貨車の奥からだれかがいった、「オズの国だ」それがわたしである。ぼくである。

という記述があって、やっぱりちょっとオズ入ってる! とよくわからない感動を覚えた。ところでこの「わたしである」とか「そこにわたしがいた」とかいう、ビリーの物語中に作者の「わたし」が出てくるくだりは三、四か所ほどある。そしてビリー自身も「わたしはそこにいた」という場面が出てくる。それまで点在していたドレスデン爆撃・作者の「わたし」・ビリーのみっつが一気に重なるような場面で、たぶん「わたし」がどうしても言いたかった言葉なのではないだろうか、あの場所に自分はいたんだ、ということ。

 

9.

そうそれで、『オズの魔法使い』に出てくるオズの大魔王の正体は小さなじいさんなわけだけど、それは『スローターハウス5』においてはあのへんてこなSF作家・キルゴア・トラウトだと考えると、トラルファマドール星人=キルゴア・トラウトということになり、キルゴア・トラウトとその著作たちがビリー・ピルグリムを救った、ということになる。事実、ビリーは彼の本を読みまくっている。

ただの老いぼれかと思われたキルゴア・トラウトが突然、すごいことを言う場面がある。ビリーがとてつもなく取り乱した場面において、彼はいきなり「あんたは時間の窓のむこうにあるものを見たんだ」「とつぜん過去だか未来だかが見えたんだ。図星だろう?」と言うのである。この発言は、けっこう唐突で、読んでいて驚いた。なんでこのひと知ってんの? という感じである。オズの大魔王=トラルファマドール星人ですからね、そりゃいろいろ知ってるんでしょう。

 

10.

序盤で、生と死が色で表される記述がある。誕生以前は赤で、死は紫だというのである。人生の両端にある赤と紫。まるで虹みたい。

 

11.

作者の「わたし」は最後の方で、このブログ記事の最初や「6.」で引用したようなトラルファマドール的な「そういうものだ死生観」について、「もし本当にそうなんだとしてもあんまり嬉しくないよねー」みたいなことを書いている。そして、でも自分の人生を振り返った時に、楽しかった瞬間がたくさんあることに感謝、とも書いている。これはビリー同様に「わたし」もまた、この本を書くことによって、「変えることのできない物事を受け入れる落ち着き」を得ることが出来た、と読めなくもない。感動的である。

 

12.

感想がとりとめなさすぎてどうにもまとめようがなく、意味なく番号を割り振って思うままに書いてみました。『スローターハウス5』は本当に面白い小説です。面白すぎて私は、一回読み終えてからまたすぐ二回目を読み始めてしまったほどです。おすすめです。