Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

熊谷達也『邂逅の森』

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 あの時、本当にクライドリが効いたのかどうかは、今もって疑問だ。だが、理屈には合わないようなことが、山の中ではしょっちゅう起こるのも事実だった。

(p.39)

 

 主人公の松橋富治は、マタギである。物語の舞台は大正三年。富治は二十代半ば。ここから、何十年にも渡る富治の半生が描かれる。

 私はこの小説を読むまで、マタギについての知識は「クマを仕留める仕事」程度の浅はかなものしか持ち合わせていなかった。読み終えた今は、マタギ最強、と軽率に叫んでしまいたくなるくらい、厳しい自然と、獣の命を奪うことの意味、そして山の神に向き合い続けている凄すぎる職業=生き方だと思うようになった。

 それくらいマタギという職業の姿が丁寧に描かれていると思った。そして数多く出てくる猟のシーンはすべて手に汗を握るほど迫力がある。マタギたちがこの上なくかっこいいのである。

 

 この小説には文枝というヒロインが登場する。この文枝のキャラクターは強烈である。古いモノクロ映画の中で、一人だけカラーしかも4K画質で登場する美女、のように描かれているのだ。作中ではそれまできつい東北訛りばかりが飛び交っていたのに、文枝は綺麗な標準語を話したりして、すごい異次元感のある、妄想度の高い悪魔的な魅力の持ち主として、富治の前に現れる。

 

 そして文枝は富治を異次元=山の外に連れ出そうとしているように私には思えた。それはなんていうんだろう、山の神の否定、というか。山の神様は女性で、しかもあんまり美人じゃない、と作中で言われているけど、この、超美人の文枝vs.山の神、みたいな図式が成り立つのではと思うのである。

 山の神様を挑発するかのように、「マタギにとっては決して穢してはならない神聖な猟場」ぎりぎりの森の中で、富治と文枝は、こういうのって逆に興奮するよね、みたいなことを思いながら性行為を重ねている。山の神、怒るよーと思うんだけど何もない。これは小説のラスト近くで富治に「神様って、いるの?」と思わせることに繋がる。

 

 しかしなんだかんだあって、文枝は山の神に負けた、とも言えると思う。小説の序盤で、クライドリの儀式、というものが描かれる。それは、狩小屋の中で、陰茎をそそり立たせてなんか色々やって、山の神様を喜ばせる、という儀式である。そうすると猟が成功するのだという。富治はこのクライドリの儀式をやらされている。

 

 そしてわりと終盤近く、富治は二十年以上ぶりぐらいに文枝と再会するのだが、ここでいわば富治はクライドリの儀式をしそこなうのである。ここでクライドリができていれば、おそらく富治は完全に異次元に連れて行かれたのであろうけれども、結果的には富治は、山の神を選んだ、ということではないだろうか。

 ちなみにこの時すでに富治はイクという女性と結婚している。イクは美人ではない、というのも何度か語られている。山の神的である。そんなイクが不憫でならない。

 イクと文枝が直接対峙する場面がある。山の神がクマに宿るように、この場面ではイクに山の神が宿っていたと考えることはできないだろうか。ここで、富治をマタギ仕事からやめさせない、という手打ちが暗黙のうちに両者の間でなされる。つまり、山からは離れることはできない=異次元には行けない=山の神の勝ち、みたいな。

 

 そして、最後、壮絶な姿になった瀕死の富治が山の中で出会ったもの、邂逅したものはというと…。それはイクでありクマであり、私はやっぱり、山に神はいる、と思った。