Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

梅崎春生『桜島・日の果て』

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 それは、青いものが一本もない、代赭色の巨大な土塊の堆積であった。赤く焼けた熔岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった。もはやこれは山というものではなかった。双眼鏡のレンズのせいか、岩肌の陰影がどぎつく浮き、非情の強さで私の眼を圧迫した。憑かれたように私はそれに見入っていた。

(p.25)

 

 上記の引用箇所は、主人公の村上が、桜島の全貌を双眼鏡越しに大きく目にした時の描写である。いくらなんでもやさぐれすぎなのでは…と私は思ったが、無理もない話なのだ。なぜなら桜島での軍隊生活は、とてつもなく過酷だったからである。

 

 桜島に来る前、村上は坊津(ぼうのつ)というところにいた。そこで基地通信という仕事をしていたらしい。仕事もわりと暇で、けっこうのんびりとした日々を送っていたそうである。しかし、村上は何とも言えない嫌な気配を感じ始めていた。その嫌な感じは日毎に増してくる。でも仕事は相変わらず暇なので、魚釣りに行ったり山で果物を取ったり郵便局の女性事務員と仲良くなったりと「歯ぎしりするような気持で、私は連日遊び呆け」ていたそうだ。

 

そこへ「村上、至急、桜島へ行け」みたいな電報が来る。

そして村上は桜島へ向かうのだった。

そこで凄い嫌な上司、ああもう軍隊にこういう上司がいたら絶対に嫌だなーみたいな上司と出会ったり、見張台で見張りをしているちょっと変わった男と出会ったりする。

 

村上が見張台に行く場面は三回ある。そのうちの最初と二回目は、見張りの男と長めに会話をしている。ちなみに村上は初めて見張り台を訪れた時に、見張りの男から双眼鏡を借りて、桜島を間近に見ている。

 

初対面時、見張りの男は村上に、次のようなことを語る。

「私は海軍に入って初めて、情緒というものを持たない人間を見つけて、ほんとに驚い」て、彼らは「人間ではないですね。何か、人間が内部に持っていなくてはならないもの、それが海軍生活をしているうちにすっかり退化してしま」い「意思もない情緒もない動物みたいになっている」という。そして、

「人間の、一番大切なものを失うことによって、そんな生活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈な人生ってありますか。人間を失って、生活を得る。そうまでしなくては生きて行けないのですか。だから御覧なさい、兵曹長たちを。手のつけられない俗物になってしまっているか、またはこちこちにひからびた人間になっているか、どちらかです」と語る。

村上は「そうだね」とだけ答えて、嫌なクソ上司のことを思い浮かべている。

 

ここでの村上と見張りの男は、まるで自分たちは「情緒=人間の一番大切なもの」を失っていないかのような口ぶりである。しかし、本当にそうだろうか。

 

二回目、村上が見張台を訪れた時も、男と長々と話をしている。

見張りの男は元気がない。疲れているのだという。顔が土色に見える。

途中、二人はまったく噛みあわない会話をする。私はその噛みあわないっぷりに、見張りの男の正気を疑ったほどである。しかし村上が蝉の話題を振った途端、見張りの男は我に返った(ように私には思えた)。村上に「何か漠然とした不安」を抱かせつつ、見張りの男は、先日、双眼鏡越しに見かけた奇妙な光景について語り始める。

 

そして見張りの男は、その光景を見た自分の気持ちを、「よく判らない」と言う。

「私は、何だか歯ぎしりしながら見ていたような気がする」けれども、どんな気持ちだったのか「よく判らない」。

この時点ですでに見張りの男は自覚していたのではないだろうか、自分もまたすでに情緒を失ってしまっていることに。

絶対に何か痛烈なものを感じなければならないような光景を見ておきながら、感じたものはといえば、なにかぼんやりとよく判らないものでしかなかった、という絶望感。それを見張りの男は感じていたのではないか。それをひた隠しにして気丈に振る舞おうとするけど無理が生じて土蜘蛛の話を始めたりしてしまうのでは。

 

村上も最初から情緒を奪われている。それは坊津にいる時からである。だいたい、歯ぎしりしながら遊び呆ける時点で正常ではない。ずっと情緒不安定で、急にイラッとくる場面が多すぎる。

きっと戦争とはそういうものなのだろう。たぶん戦争はとにかく情緒をもぎ取っていくものなのだ、誰であろうと、片っ端から。兵隊であってもなくても、問答無用に死というベールで皆を覆って。

 

玉音放送の後、つまり戦争が終わったということを知った後、なんだかんだののちに、村上は桜島を目にする。「落日に染まった桜島岳」の山肌は「赤と青との濃淡に染められ」ていて「天上の美しさであった」という。最初に見た時とはぜんぜん違って見えている。そしてそれまでわりとシニカルに構えていたはずの村上が、ひたすら涙を流し嗚咽号泣する。村上もまた、死に怯え、情緒を失っていた、あるいはずっと情緒を抑圧してきたのではないだろうか。それが、終戦桜島によって、よみがえってきた。という風に私は読んだ。

 

それで思うのだけど、「緊急事態」下に暮らしているいま現在の私たちもまた、気づかぬうちに情緒を失ってはいないだろうか。自分の中の何かを抑圧もしくは目をそらしているような、少なくとも私は自分自身にそんな何かの気配を感じる時がたまにある。だけど、それが何なのかは「よく判らない」…。