ゴーゴリ『狂人日記 他二篇』横田瑞穂訳
『あたしね、くん、くん、あたしね、くん、くん、くん! 病気が、ひどくわるかったのよ!』なんだい、こいつめ犬のくせして! いや、白状するが、おれは、犬ころが人間みたいに口をきくのを聞いて、ひどく驚いたのだが、あとでよくよく考えてみると、べつに驚くほどのことじゃないとも思った。じっさい、こんなことは世間にはざらにあることなんだ。(「狂人日記」p.177)
この本にはみっつの作品が収められている。
「ネフスキイ大通り」と「肖像画」、そして「狂人日記」である。
現実と夢(妄想)の間に境界線のようなものがあるとして、その線の上を危うい足取りで歩くのだけれども、やがて足を滑らせて転ぶ。
みたいな話が「ネフスキイ大通り」。
現実と夢、昼と夜、それらの境界線がだんだんあやしくなってくるのだ。そりゃあ、バランスをくずして転ぶよ。
作者は冒頭で、ネフスキイ大通りのことをこれでもかというくらい褒めまくる。
しかしこれが、痛烈な皮肉にしか聞こえないのだ。文章もまた二面性をはらんでいる。
じじつ、この作品の終わりちかくではネフスキイ大通りのことを「すべてが欺瞞に満ちている」だの「いつだって人をだます」だの書いている。
もちろんこれはネフスキイ大通りのことを指しているのではなくて、なんというか、社会、のことを指しているのだろうなと私は思った。今のわれらもまったく変わっていないですね。足を滑らせないようにしないと。
「肖像画」は、とある肖像画にまつわる因業譚で、これは、夢(妄想)側が境界線を越えて現実を蝕み始める、みたいな話である。
どことなく三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』みたいで面白い! ホラー感ある。
ラストも鮮やかでかっこいい。
最後に収録されているのが「狂人日記」である。
この小説は、「おれ」が書いている日記、という形式で書かれている。
今日はずいぶんふしぎなことがあったんだよ、犬が人間の言葉をしゃべっててさー。
みたいなところから日記は始まるんだけど、もうこの時点でだいぶ危険で、すぐに医者に診てもらうべきだった。
しかし「おれ」は自分の頭をいぶかしむどころか、そういうことってよくあるよねーと受け流し、犬の会話に耳を傾け続ける。
すると犬同士が手紙のやりとりまでしていることを知る。
さすがに「おれ」も驚く。 犬が手紙かいてんの!? と。
気が確かなら、「そんなことあるわけないじゃん、やっぱり幻聴か、犬がしゃべるとかないよねー」となりそうなものだけれど、「おれ」の場合は違う。
だったらその手紙を手に入れねば! となるのである。
それでその犬の飼い主の家に押しかけて、
「なんのご用でしょうか?」と聞かれたのに対して「あなたのところで飼っているあの犬にちょっと話があるんですが」とか訳の分からないことを言って部屋に入り、犬の寝床を漁って紙切れの束を見つけ、それを持ち帰る。
この紙切れの束がいわゆる「犬の書いた手紙」らしい。
本当に? ただの紙くずじゃないのかな?
それはともかく「おれ」は「犬の手紙」を次々と読んで行く。
その一方で、どうやら「おれ」はかなりつらい境遇にあることが読者にもわかってくる。
けっこういい年したおじさんで、職場では課長にどなられっぱなしで、そしてどうもお偉いさんの器量よしな娘に恋していて、ストーキング的なことをしてるっぽい。
このあたりでだんだん笑えなくなってくる。
それまでは、「犬の声が聞こえたという男の話」だったのが、「色々おいこまれて、犬の声まで聞こえるようになってしまったおじさんの話」に変わってくるのだ。
青空の下で騒ぐ愚か者の愚痴、だと思って聞いていたら、いつの間にか日が落ちていて周囲は真っ暗、聞こえてくるのは救助を求める切実な叫びだった。そんな感じ。
妄想(夢)の中に生きる「おれ」は、つねに現実と戦っていたと言えないだろうか。
現実は手強くて非情で、妄想の殻をぶち壊すことに容赦ない。
窮地に追い込まれた「おれ」が、ぎりぎりのところで手にした「スペインの王さま」という盾は、「おれ」を守ってくれる無敵の盾のように思われた。
でも現実は本当に残酷だから。
物語の最後に「おれ」が見た幻覚は、「おっ母(か)さん」だった。
遠くに青く見えているのはわが家じゃないか? 窓べにすわっているのはおふくろじゃないか? おっ母さん、このあわれな息子を救っておくれ! この痛い頭に、せめて一滴、涙を注いでおくれ! あんたの息子がどんなにひどい目にあわされているか、まあ見ておくれよ! このあわれな孤児(みなしご)を胸に抱きとっておくれよ! 広い世の中に身のおきどころがないんだ!(p.219)
いちおうは現実側にいるわたしたち読者は、この「おれ」ことアクセンティ・イワーニヴィチがぶっ壊れていくさまをただ眺めていることしかできないわけだけれども、それがものすごくかなしい。
彼を救うには、こちらから妄想(夢)の中に飛び込んでいくしかなさそうである。
「ネフスキイ大通り」や「肖像画」の登場人物たちのように。