手塚治虫『火の鳥2 未来編』
「動物はどんどん滅びさっていき……
人間たちの進歩も ばったりとまりました
地上に目に見えない死のかげがただよいはじめ…」
「わかった だがどうすればなおる?
わしになおせないだろうか?」
「あなたにでもむりでしょう
地球をなおせる人間は ひとりしかいません
その人間はもうすぐここへきます!」
(p.51 火の鳥と猿田博士の会話)
舞台は西暦3404年。
『火の鳥1 黎明編』の時代(西暦200年頃?)からすれば、気が遠くなるほど先のお話である。
ところで、とうとつですが、私はこの、『黎明編』と『未来編』が、いつ書かれたのか気になったので調べてみた。
Wikipediaによると、
『黎明編』が1967年1月-11月、
『未来編』が1967年12月-1968年9月、
にかけて連載されたのだという。
そして、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』は、1968年の4月に公開されている。撮影は1965年12月かららしいけど。
なぜ『黎明編』『未来編』と『2001年宇宙の旅』の発表時期が気になったのかというと、
ふたつはとても似ている、と思ったから。
だから、多少の前後はあるけれど、ふたつがほぼ同時期に発表されていたということに、私はけっこう驚き、軽く興奮している。
物語の舞台が古代からいきなり超未来に飛ぶ『黎明編』と『未来編』の飛躍ぶりは、
ゴリラみたいな類人猿っぽいのがウガーって放り投げた骨から宇宙船につながる『2001年宇宙の旅』を思わせる。
AI(人口知能)がちょっとおかしくなっていく感じとかも。
火の鳥は、モノリスであると同時に映画の最後に出てくる赤ちゃん的でもある。
手塚治虫さんと、キューブリック&クラークという不世出の大天才たちが、何かとてつもなく壮大な物語を作ろうと考えた時に、両者がともに、
「黎明=人類の夜明け」から始まり、
そこから一気に「未来」へ飛び、
そしてさらにその先の時間を描き物語を終える、
という構成を選択していることに、感動を覚えるというか、天才の凄み、みたいな、そうのを感じました。
1968年。熱い時代だったんですね。
『未来編』の主人公は、マサトという青年である。
このマサトが、なんだかんだあって、なんだかんだあって、なんだかんだあって、新しい人類を誕生させる。
未来が終わり、過去が始まる。
壮大なフィナーレは、同時に、大いなる幕開けでもある。
こうして『火の鳥』という物語は終わる。完。
そう、『未来編』は、『火の鳥』というとてつもなく大きな物語の、最後の部分に位置する作品らしい。たしかに、超巨編の最後っぽい終わり方だった。で、『黎明編』は最初の部分。
つまり、こんな例え話しか思いつかないのが少し悲しいけれども、パフェでいうならば、一番てっぺんに乗っかっているミントの葉を「歯磨き粉の味がするなあ」と思いながらもぐもぐした後で、中身をすっとばしていきなり、最後のコーンフレークをじゃりじゃり食べているようなものである。
じゃあ「あいだ」の部分は? 中身は? パフェの醍醐味はむしろそこでしょう!
というと、3巻以降で描かれていくのだという。
しかも「過去」と「未来」を交互に!
そして過去と未来がまじわる瞬間の「現在」がゴールらしい。
といったような構想が、手塚治虫さんの『「火の鳥」と私』という文章に書かれていた。
この文章は『未来編』の最初のページに載っている。
…とんでもない構想である。
これからいったいどうなるんだろう?
手塚治虫さんは、「過去」と「未来」を見つめながら『火の鳥』を描く。
そしてその描かれている「過去」と「未来」が、少しづつ作者ににじり寄ってくるのだ。
いやほんと、どうなるんだろう!
『黎明編』では、熱きパトスのほとばしり、みたいに火山が大噴火していた。
それに対応するように『未来編』では核爆発が描かれている。
核爆発はしずかに、無感情的に描かれている。
噴火では逃げ惑う動物たちが描かれているが、核爆発にはそれも無い。怖い。
また、『黎明編』のラストは、タケルが巨大な穴から抜け出して地上に立つ場面が描かれている。
その時の地上の景色がとても神々しい。
これからどうなるんだろう! どんな女性と出会うんだろう!
ってわくわくする終わり方なんです。
『未来編』でも似たようなシチュエーションがある。
マサトが、タマミと共に巨大な通気孔を登って、地下世界から地上に抜け出すのである。
その時の、地上の世界の絶望的な風景。
なにがあったんだ…。
きっと続刊にて描かれるのだろうと思う。気になります。