「あたい、もう、またねむくなっちゃったわ。いつも、ポケットの中が、いちばんよくねむれるの」
「そうかい。たいせつなのは、じぶんのしたいことを、じぶんで知ってるってことだよ」
スナフキンは、そういって、ちびのミイをポケットの中へいれてやりました。(p.119)
舞台は6月のムーミン谷。
ムーミンママとミムラが、玄関先に腰掛けている場面から物語は始まる。
ムーミンママは船のミニチュアのようなものを作っている。ムーミントロールにプレゼントするのだ。
ムーミントロールはというと、池のほとりで水の中をのぞきこんでいた。
そこに、ムーミンママが小型の船をもってやって来る。
ムーミントロールとムーミンママは並んで座り、池に浮かべた船が、目の前よこぎっていく様子を眺めている。
静かで、穏やかな場面である。
ここでムーミンママが、池をのぞきこみ、底に何かがあることに気がつく。
それはムーミンママの金のうで輪や、スノークのおじょうさんのくるぶしかざりだった。ムーミントロールが沈めていたのだ。
ムーミンママは絶賛する。
「(前略)そうしたほうが、ずっときれいだわ」(p.18)
のんびりしていて、やさしくて、美しい世界である。
しかしこのあと、近くの島の火山が大噴火し、ムーミン谷は洪水に襲われ水没する、という衝撃の展開を迎えるのだから恐ろしい。
ちびのミイが、階段のそばのひまわりの花から顔をだして、うれしそうにさけびました。
「さあ、いよいよはじまるわよ!」
ふいに、足もとでにぶい地なりがしました。台所で、おなべがいくつも、ガチャン、ドスンとおちる音がします。(p.28)
ムーミントロールたちの家もほぼ冠水し、これからどうしようかねーと困っていると、どでかい家が流れてくる。
みんなで移り住むにはちょうどいい感じだったので、ムーミントロールたちはその大きな家に引っ越すことにした。
誰も住んでいないようだったけれど、じつはそこには、エンマという、歳を重ねることで了見が狭まり攻撃的な性格になってしまったようなおばあさんが住んでいた。
そしてこの大きな家は、家ではなく劇場で、エンマは、かつてこの劇場で舞台監督を務めていた男性の妻だったということが、のちに明らかになる。
話は前後したけど、色々あってムーミントロールとスノークのおじょうさんはみんなと離れ離れになり、なんだかんだのすえに投獄される。
ミイもみんなとはぐれるんだけどスナフキンに拾われる。
スナフキンはスナフキンで彼なりに解決しなければならない独特な問題を抱えていて、その問題の解決のはてに24人のちびっこの面倒を見ることになったりする。
そしてムーミンパパたちはどうするのかというと、芝居を始めようとするのである。この、水に浮いた劇場で。エンマの指導のもと。
エンマは、劇場がなんなのかもわからないムーミンパパたちに、絵を描いたりして丁寧に(いささか乱暴に)、愛と情熱を込めて説明する。
「劇場は、世界でいちばん、だいじなものじゃ。そこへいけば、だれでも、じぶんにどんな生きかたができるか、見ることができる。してみる勇気はのうても、どんなのぞみをもったらよいか、それからまた、ありのままのじぶんは、どうなのかを、見ることができるでのう」(p.153)
ムーミンパパたちは芝居の準備を始める。エンマに教えを乞いながら。
やっかいなへんくつばあさんかと思われたエンマだが、演出家としての腕は天才的である。すごい優しいし。ずっと劇場の掃除婦をしていたとか言ってたけど、本当だろうか。
芝居が完成に近づくにつれ、じょじょに活力を取り戻していくエンマの姿は格好よく、頼もしい。
脚本はムーミンパパが担当。
ひとりのこらず死んだほうが良い、という考えのもと書き上げた脚本は、みんなから酷評されて、ひどく心を傷つけられてしまうくだりは、おかしすぎて思わず声を上げて笑ってしまった。そのあとムーミンママとみんなが必死にフォローするのも面白い。
そんなこんなで『ラヂオの時間』的に役者の要望をねじ込んだりして混沌を極めつつも本番前日を迎えたムーミンパパたちは、しあげの練習を始める。このくだりも最高である。永遠に語り継がれるべき名シーンだと思う。
そして迎えた本番。
月のかがやく夜。
水に浮かぶ劇場。
観客たちはそれぞれの船に乗っている。
幻想的で美しい場面である。
しあげの練習よりもさらに、爆発的にめちゃくちゃな展開を迎える本番。
素晴らしいとしか言いようがない。
客席からミイが舞台に上がり、大暴れして、台本はあってないようなものとなったとき、とうとつに差しはさまれる文章にはっとさせられる。
これは、洪水に流されて、いろんなおそろしいめにあったすえ、やっとじぶんの家を、もう一度、見つける人の話だったのです。いまは、みんな、すっかりうれしくなって、コーヒーをいれようとしているところでした。
「だんだん、よい芝居になってきたわい」
と、あのヘルムが、つぶやきました。(p.211)
エンマが劇場について語った時、「どんなのぞみをもったらよいか、それからまた、ありのままのじぶんは、どうなのかを、見ることができる」と言っていたけど、ムーミンパパはおそらくその教えを忠実に守ったのだ。
つまり、ムーミンパパは、みんなに希望を与えるような芝居を書いていたのだ。
みんな家に帰れるよ、というのぞみをみんなに見せたのである。
かっこいいじゃないですか。
この後、スナフキンが24人の子どもたちをつれて舞台にやってきて、高らかになにをさけぶかというと…。
物語の終盤、ムーミンママがこんなことを言う。
「じぶんの友だちが、それぞれの人にぴったりしたことができるようになるのは、うれしいものでしょ?」(p.227)
スナフキンも、エンマも、ムーミンママも、自分を知ることのたいせつさを説いているように思える。
自分を知ること。それってどういうことだろう。
本作で私が気になったのは、水の中をのぞく、という行為についてである。
ミイ、スノークのおじょうさん、そして、フィリフヨンカの三名はそれぞれの場面で水の中を除いた時に、水面に映る自分の顔を見ている。そしてその直後に恐ろしい目に遭っている。
そして、ムーミントロール、ムーミンパパ、ムーミンママもまた、水の中をのぞく場面がある。ムーミンパパの場合は、浅瀬になったことを確認するためにのぞいているのだけど、ムーミントロールとムーミンママは、水の底に沈んでいる綺麗なものを見つけている。
ここから、自分らしさとは、表に見えるものではなくて、奥底のほうできらきらしているものなのだ、それを見つけることが大事なのだ、という意味を読み解くことはできないだろうか。できなくはない気がする。
スノークのおじょうさんは、終盤にもう一度、水面をのぞきこむ。そこで彼女は、色とりどりの美しい花々が日光を浴びてゆれている姿を見ている。
水面に映る自分の顔ではなく、その下でゆれる花を見つけたスノークのおじょうさん。
花を見てきれいだなと思う自分ってとても自分らしいな、と彼女が気づいた瞬間だと私は思いたい。そしてとても素敵な場面だと思った。
思わず吹き出してしまうほどおかしくて、かと思うと急に胸に迫る場面があったり、ここぞという時に脱力させられたりと、読むのが楽しくてしょうがない、素敵な物語でした。