Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

松浦理英子『ヒカリ文集』

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「偽物でも本物でも、上手な笑顔には優しさが宿っているじゃないですか。それで十分ですよ。あるのかないのか証明できなくて伝わりもしない本物の愛より、偽物であっても目に見える笑顔の方が人の役に立つと思います。(後略)」(p.230)

 

ヒカリという名の女性が、かつてとある学生劇団に所属していた。

ヒカリは、その劇団内の男女計六人と恋愛関係になる。

サークルクラッシャー」という言葉が、実在人物をモデルにした作中劇の中の架空(おそらく)の人物から使われているけれども、どうもそうとは言いきれない。

なぜなら「サークル」は「クラッシュ」しなかったからである。

ヒカリの別れ際が鮮やかというか、独特すぎて、振られた側の寂しさや憤りのようなものが宙吊りになってしまっている。なんというか、クラッシュのための起爆力があらかじめ削がれているような。

なので、劇団内では、愛憎のどろどろや恋敵同士の怒号が飛び交うということも無く、ただなんというか、張り詰めるほどではないにしても妙な緊張感というか、周囲との距離感に多少は気遣う程度の影響しか及ぼさなかった、ようにも見える。

はたして、ヒカリとは何者だったのか。

彼女と恋をした六人(一人は故人)が、ヒカリについて綴った文章をまとめたのが、この『ヒカリ文集』である。

 

かつて皆が所属していた劇団の主催者だった男の死から物語が始まる。

彼は東北の路上で凍死していた。未完の舞台原稿を遺して。

その原稿が、『ヒカリ文集』の最初に収録されている。

それは、ヒカリと特別な関係を持ったかつての劇団員たち六人が集まって、話の流れでヒカリをテーマにした即興劇を一人づつ披露していく、というものである。

じっさい、こういう集いはあったらしく、そこで交わした会話も、わりとそのまま使われていたりもするらしい。つまりこの原稿は、実在する出来事・人物をモデルにしたもの、ということになる。

原稿は、皆が準備を終えて、さあこれから即興劇がはじまるぞ、というところで途切れてしまっている。

ではこの即興劇は、じっさいには行われていたのだろうか? たぶん行われていないだろうと私は思う。

他の五人は、この時の即興劇について触れていないからである。

では、この原稿を書いた劇団の主催者だった男=破月悠高は、ここからどのように物語を展開するつもりだったのろう?

 

原稿の冒頭のト書きでは、暗い舞台の中、玄関のチャイムの音が適当な間を置いて三回、「追憶の中の音のように遠く」鳴る、とある。

そして四回目のチャイムが現実感を持って響き、舞台が明るくなり、劇が始まる。

つまり、三回までは「追憶」、四回目から「現実」が始まる、ということですよね。

そういうルールがこの劇では敷かれていると冒頭で提示されているとも読める。

となると、以降の劇中で、チャイム的な音が三回鳴れば(玄関チャイム、メールの受信音、電話の着信音)、当然、四回目を期待するわけです。

四回目に何かが起きる、と。

しかし四回目は鳴らないまま、原稿は未完に終わってしまっている。

もう一度、問いたいけれど、破月悠高ははたしてここからどのように物語を展開するつもりでいたのだろう?

つまり、四回目をどのように鳴らすつもりでいたのだろうか?

そして、なぜ、この原稿は未完に終わっている=四回目を鳴らすことなく終わってしまったのだろうか?

 

破月悠高以外の五人の文章のうち、三人の文章の中で、チャイム的な音が鳴っている。登場順に並べてみよう。

鷹野裕の文章で「玄関チャイム(p.88)」が鳴り、

飛方雪実の文章では「メールの着信メロディ(p.116)」が鳴り、

真岡久代の文章では「電話の音(p.199)」が鳴っている。

破月悠高が書いた劇中で鳴る音とまったく同じ順番なのは、偶然だろうか?

そしてそれらの「音」が鳴った後、まるで示し合わせたように、鷹野・飛方・真岡の三名はそれぞれ、ヒカリと性行為に及んでいる。これも偶然だろうか?

 

注目したいのは、破月悠高はヒカリと性行為には至っていないとい点だ。ぎりぎりの直前までには及んだものの、「ありていに言えば性行為はしてない(p.56)」のである。

つまり、彼とヒカリとの間にチャイム的な音は鳴っていない。

彼は鳴らしたかったのではないだろうか? 四回目の音を。

だから死んだのだ、ということはできないだろうか。

 

ここからはもう完全に私の妄想である。

『ヒカリ文集』には、マノン・レスコーを死なせない、というテーマが隠されてはいないだろうか。

アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』は、世の評価はどうか知らないけれど、私にとっては、虚言癖のあるサイコパス男・グリュウが語る盛りすぎな武勇伝、という印象が強い。マノンは完全な犠牲者である。気の毒でならない。彼女が死ぬ必要はなかった。

マノンは何度もグリュウから離れるのだけれど、その度にグリュウが「捕まえ」にくる。そして最期はアメリカの荒野で横死である。グリュウは普通に生き延びているけれど。

だから、マノン・レスコーを死なせてはならない『ヒカリ文集』では、ヒカリは「捕まえ」られてはならない=作中に召喚されてはならない、というルールがあった、と私は妄想している。

破月悠高が、四回目のチャイムで、ヒカリの来訪(作中への召喚)を予定していたとしたら。

作品のルールを、作中人物が破ろうとしたら、死ぬのはしょうがない。とは言えないだろうか。

なので、真岡久代の文章内で暗示されている(気がする)が、おそらく破月悠高は凍死する直前に、ヒカリとなんらかの接触を持ったような気がする。妄想ですが。

 

最後、鷹野裕と飛方雪実の二人の場面を読みながら、私が感じたのは、ヒカリがこの場面に現れてくれないことの寂しさもあるけれど、それよりも、「ここにヒカリを登場させてはいけない」という二人の強い意思である。

四回目は鳴らさないぞ、という悲壮な気迫。

それはやはりヒカリ=マノン・レスコーに生きていてほしいから。

二人の乗る車が高速道路に乗った時、その時が、死なないヒカリ=新しいマノン・レスコーが誕生した瞬間である。と私は思った。

 

とにかくヒカリが魅力的で、面白い小説だった。

見る時間帯(差す光)によって、怪物に見えたり、異教の祭壇に見えたり、魔法の装置に見えたりするという(まるでヒカリそのものみたいな)稽古場に置かれている古い機械を、ヒカリが「ほんとうに素敵(p.178)」という場面。嘘くさい、ロボットだのと言われているヒカリがそのような心情を吐露する重要な場面で、破月悠高には間接照明の下で「ヒカリの姿はうっすらと発光しているように見えた(道場)」という点にも注目したい。

ヒカリは、光ったり光らなかったりするのである。

破月の前では上記の場面、

鷹野裕の前では肌が輝き(p.73)、

飛方雪実の前では脳貧血で真っ白になり(p.113)、

真岡久代の前では仄白く見えたりする(p.196)。

これはどういうことだろう。

 

あと、小滝朝奈と秋谷優也について。

この二人の文章内では、「音」が鳴ることなく、ヒカリと性行為に及んでいる(はずである)。

他の三人と、この二人の違いはどこにあるのか。

小滝朝奈と秋谷優也の文章は、一見するとゆるーい感じに書かれているんだけれど、じつは恐るべき洞察力でもってヒカリ・鷹野・飛方を見ている。

ヒカリの完璧に作られた笑顔に比べて、彼女と一緒に笑う雪実の笑顔は無防備すぎて不吉だ、みたいなことを書く小滝朝奈は、他にも、人工の光の下で無邪気そうに笑うヒカリの笑顔はひときわ精巧な作り物のように見えた、とかも書いていたりして、凄いと思う。

また、秋谷優也も、すっとぼけたキャラクターを感じさせる文章でありながら、全く違うヒカリ像を提示しているようにも見えるし、また、(ロボットの)彼女のスイッチを押して「全身に血がめぐり始め(p.236)」るきっかけを作ったのも優也である。これは彼の指圧によって血行が良くなった、という話ではない。重要な場面とも言える。

なんというか、やはり、この二人は、他の三人とは違うのである。

何が違うのかはまだよく言い表せないけれど。

 

あとは、この六人は本当に実在したのか説、ですね。

破月悠高の台本は、「実在しない人物さえ登場する作品(p.9)」とある。

順当に考えると、この「実在しない人物」とは、込み入った相関関係を整理整頓するために生み出されたような便利なキャラ・酒井順平くんだとは思うのだけど、しかし。

六人の原稿は、会話のカギカッコ内における句点の扱い方(朝奈)や語り口などが違って、バリエーションに富んでいるわけだけど、もし、この六人の中に実在しない人物が含まれていたとしたら(しかも、もしかしたら複数人)と考えると…。

これも順当であれば、破月悠高の台本内における即興劇の発表順に、六人の原稿が収録されて良いようなものだけど、そうならなかったのは、もしかしたら、「なにかある」からではないのか。

そしてそれは、ヒカリの中にある「なにか」と繋がっているのではないか。

 

考えれば考えるほど、この小説の魅力にはまっていき頭がくらくらしてくる。

これって、作中人物たちがヒカリに抱いた気持ちそのものなのかもしれない。