Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』山室静訳

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「いけない。ぼくはいったいどうなるんだ? ぼくはニョロニョロじゃない、ムーミンパパなんだ。……なにをこんなところでしているんだ?」(p.224)

 

昔はもっと色んなことにくよくよしていた気がする。

それは臆病だったからでもあるし、おそらく繊細でもあったのだろう。

ひるがえって今の自分はどうかというと、なんかけっこうどうでもいいというか。

それは、ある意味では強くなったともいえるし、がさつになったとも言える。

いずれにせよ、感性が摩耗していることはたしかだと思う。良くも悪くも。

 

しかし、ムーミン童話を読んでいると、廃墟の庭先に転がっている朽ち果てた枯れ枝にうるおいが戻り、あまつさえそこから可憐な花が開くような奇跡みたいな瞬間が、私の心にたびたび訪れる。

九つの短編が収められた『ムーミン谷の仲間たち』でも、私は九作品すべてで奇跡的な感動を覚えている。

 

なぜ俺はこんなにもムーミン童話に惹かれるのか、と私は最近よく考える。

たぶんその理由のひとつに「語らずに語っている」という点が挙げられると思う。

どういうことかというと、肝心な場面に限って、登場人物たちの内面で起きているドラマが描かれていないことが多い気がするのだ。

その時、その瞬間、登場人物たちがどんなことを思い、考えたのか。それは文章では一切説明されないのだけれど、前後の流れや、作者直筆の挿絵などで、しっかりと伝わる。

それはまるで、言葉を介さないことによる鮮度100パーセントのメッセージようで、摩耗した私の心さえにも届き、優しくゆさぶられるのだ。

 

ひとつめに収められている「春のしらべ」では、スナフキンが、ある場面でくるりとむきをかえて、ぎゃくもどりをしはじめ」る。むろん、なぜここでスナフキンがその決断をしたのかは語られない。ただ行動のみが、端的に記されている。

次の段落では、スナフキンが次第に気分が良くなって、早足になって、やがては息を切らして走り出して「彼」のもとへ戻る場面がさらりと、こちらも端的に描かれる。

ほんと、あくまでさらりとなんですけど、この場面の劇的さといったらないですよ。最高だと思いました。そしてこの後の展開もさらにまた最高なのが、ムーミン童話のおそろしいところ…。

 

次の「ぞっとする話」でもまた、肝心な部分は語られない。

終盤にある「かれのおとうさんが、むすことならんで歩きました――なんにもいわないで。」というくだり。ここもまたぐっとくるんですよ。

言いたいことは山ほどあったはずなのに、何も言わずに、では、父は何を考えていたのか?

それを思うと、なんとも言えない暖かい気持ちになるのは私だけではないはずだ。

 

その次の「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」という作品もまた、「語らない」作品である。

彼女(フィリフヨンカ)の家が大嵐に襲われて、荒れ狂う暴風に家の中が大変なことになって、最終的に彼女は家を飛び出して難を逃れるんだけど、なぜ家を飛び出す決断をしたかというと「自分の青ざめた鼻が、かがみのかけらの一つにうつっているのを、ちらと見た」かららしい。

そして、「なにを考えるよりもまえに、彼女は窓のところに走っていくと、外にとびだし」たのである。

なんで? なんで鼻を見て逃げようと思ったの? と最初は思ったけど、よく考えてみると、悪い意味で夢中になって、必死になって、何かに囚われてしまっているとき、ふと我に帰る瞬間というか、冷静になる瞬間って、たぶん、砕け散った鏡の破片に写り込んだ自分の愚かな顔を見た時だったりするのだ。現代でいったらPCやスマホの画面越しに見る自分の顔だったりするのかもしれない。

だからものすごくリアルな描写だったのだと思う。

もちろん、このあとの展開も、すごいところに連れて行かれます。ほんと、ムーミン童話はおそろしい。

 

その次の「世界でいちばんさいごの竜」という作品にも、「語らない」場面が出てくる。

 

 ムーミントロールは、ずいぶん長いこと、おしだまっていました。それから草の上にすわると、こういいました。

「たぶん、きみのいうとおりかもしれない。(後略)」(p.121)

 

ここでの「きみ」とは、スナフキンのことを指す。

ムーミントロールは、沈黙しながら、何を考えていたのだろう。

この直前の場面で、スナフキンムーミントロールに、とある嘘をつく。

で、野暮を承知でムーミントロールの内面を推測するに、彼はおそらく、「スナフキンが嘘をついている」ということに感づいたはずである。そしてなぜ、スナフキンがそんな嘘を自分についたのかを考えて、スナフキンの気持ちを理解したうえで、スナフキンの嘘を信じているふりをすることに決めたのだ。

つまりなんというか、ものすごく熱くて少し切ない友情のやりとりみたいなものが、語らずに語られているのである。すごい。

 

その次の「しずかなのがすきなヘムレンさん」という作品も、語らない。

この作品もすごいです。語らないどころか、一行の空白だけがあるのみで、その前後でヘムレンさんの行動が一気に変化している。それがすごいかっこいいし、感動させられるんだからおそろしい。

厭世家で人嫌いのようにも思えるヘムレンさんだったけど、じつはとてもとても優しい人で貧しい子供たちからものそごく慕われていて…素敵な作品です。

 

その次の「目に見えない子」という作品。

「語らない」ではなく「見えない」登場人物が出てくる。

親からのひどいモラハラを受けた女の子が、そのせいで姿が透明になってしまう。

その彼女が、ムーミン一家と共に暮らすうちに、次第に姿を取り戻していく。

透明なうちはとても行儀が良かった彼女も、姿を取り戻すころには手の付けられない暴れん坊みたいになっているのが面白い。

そして箴言家「おしゃまさん」の一言も相変わらずかっこいい。笑顔って大事です。

 

彼女の姿は「見えない」けど何をしているのかはなんとなく「見える」。

これは、「語らない」けど「語っている」これまでの作品と、シンクロしているとも言える。

つまり最後に彼女の姿が「見えた」ということは、大事なことを「語った」ということで、これまでの「語らない」作品とは少し様相が違う。

なぜこうなったのか。

 

私はこの「目に見えない子」という作品は、次の「ニョロニョロのひみつ」という作品のプレリュード的な位置づけにあると言うことができなくもないと思う。

なぜなら「ニョロニョロのひみつ」では、ムーミンパパの内面が語られまくるからである。

そのかわり、大量のニョロニョロという語ることのない壮大な虚無が現れる。

 

「ニョロニョロのひみつ」はいわば、虚無に魅入られたムーミンパパの蒸発譚というか神隠し案件である。

この短編集でもっともスリリングな作品とも言える。

メランコリーにおそわれていたムーミンパパが、ある日、とつぜん、姿を消す。

目撃者はいない。

ムーミンパパはニョロニョロにあこがれ、彼らと同じ船に乗りどこかへ向かっていた。

ニョロニョロに親近感を覚え、自分がだんだんニョロニョロに似てきたことも自覚しながら、ムーミンパパはどこかへ向かう。

しかしある場面で、ニョロニョロは完全な虚無だということに気がつく。彼らが大事そうに持っていた「まきもの」は何も書かれていなかったように、真っ白で、おそるべき空白。

ここでムーミンパパは、胸の内を語る。語りまくる。

この短編集のなかで、ここまで情熱的に心情を吐露する場面は他にない。語らずにはいられなかったのだろう。とても大事なことをムーミンパパは言っている。

ニョロニョロこわい。

 

その次の「スニフとセドリックのこと」という作品は、「語らない」作品です。

最後、スナフキンの話を聞いたスニフはどんなことを思ったのか知りたいんだけど、語られない。

そのかわりなんと、作者が出てきてその後の顛末を語るという衝撃の展開を迎えるわけだけど。

 

最後の「もみの木」は、クリスマス前夜のムーミン一家を描いたユーモラスな作品です。楽しいし、笑える場面も多い。エピローグ感あります。

最後の方で、「はい虫」というキャラクターの次のようなセリフが出てきます。

 

「考えさえ正しけりゃ、それはあってもなくてもたいしてちがいはないんじゃないですか」(p.269)

 

語らなかったり語ったり、見えなかったり見えたりと、そんなばかりの短編集を締めくくるのにふさわしい言葉だと思う。

つまり、大事なのは、そこにある考え方が伝わるかどうか、ということなのだ。きっと。

そして感性とか感受性といったものは、じつは考え方によって支えられているものなのではないか、ということをこの本を読んで思いました。面白かったです。