Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ海へいく』小野寺百合子訳

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 パパは地面を見つめて立ちつくしました。しかめた鼻づらは、しわだらけでした。それからきゅうにからだをのばすと、はればれとした顔になっていいました。

「じゃあ、わしは理解する必要がないぞ! 海ってやつは、すこしたちがわるいよ」(p.280)

 

理解されないことの悲しみ、みたいなものをなぜ人は感じるのだろうか。

自分の発言や行動が誰からも分かってもらえない時、なぜ寂しさが生じるのか。

これはたぶん、理解されない=認めてもらえないから、だと思う。

つまり、人は常に誰かから認めてもらいたいものなのだろう。

 

しかし、誰かを理解する、わかってあげる、ということはそう簡単ではない。

私なんかもよく、「何がしたいのかわからない」「何を言いたいのかわからない」「話が回りくどい」「表現がいちいち大仰すぎる」と周囲の人から言われる。

つまり、理解してもらえないということだ。

私の場合は、そうやって世界と齟齬をきたす自分が愛おしくてしょうがない、というおそるべきトリックを内面に設けることで、深手を負わずにやってきたと思いこんでいるけれども、しかし、理解されないということは、歪んだ自己愛を持たない大多数の人たちにとってはつらいことなのだろうと思う。

なぜなら、認めてもらうためには理解される必要がある、ということになっているからである。

しかし本当にそうだろうか。と私は『ムーミンパパ海へいく』を読んで思った。

 

本書は、ムーミン一家が、住み慣れたムーミン谷を離れ、どこかの小島へ引っ越ししてそこで暮らし始める、というものである。

なんだか不気味なその島で、家族のリズムは徐々に狂い始めるのだが、思えば引っ越し前からすでに変調は来たしていた。特にムーミンパパ。

もともとナイーブなムーミンパパだが、どうもノイローゼっぽい感じになっていたように思える。

引っ越しはいわば転地療養としてのもくろみもあったはずである。

住む場所が変われば、色んなことがうまくいくはず…。

しかし現実は厳しく、引っ越し後、色んなことがどんどんおかしくなっていく。

 

ムーミンパパは焦りを覚える。

彼は、父親は一家のあるじで大黒柱で…的な、いにしえのステレオタイプな唾棄すべき父親像を必死で演じようとしている。同じように、ムーミンママには古色蒼然とした母親像を演じさせようと必死でもある。

息子のムーミントロールは、親には内緒で、夜な夜な年上の女性と逢瀬を重ね始め、やがては家を出て暮らし始める。

ちびのミイは、いつも元気で、常に作中で素晴らしい立ち回りをしている。

 

なにをやってもうまくいかないムーミンパパ。

 

(なにかちがうこと、なにかあたらしいことをしなくちゃな。なにかすばらしいことをやるんだ)

 だけど、いったい自分がなにをしたいのか、それがちっともわからないのです。パパはこまってしまいました。頭がこんがらかるばかりです。(p.183)

 

私はこのムーミンパパの心情を思うとつらい。他人事とは思えない。うまくいってくれ! と思う。

ムーミントロールは家を出て空地で寝泊まりし、しかもその空地に柵を作り始める。

ママはママで、たきぎ用の木を切っては、自分の周囲に重ね始め、結果、ドーム状の小部屋ができあがり、そこで安心感を覚えるようになっている。

家族の間に壁が生まれているのである。

 

何かが変わるきっかけをもたらしたのはムーミンママである。

ムーミンパパがある場面で、ママに化石のような母親像を求める。

それに対してママは、ため息をついて答える。

 

「それがたまらないのよ。たまには変化も必要ですわ。わたしたちは、おたがいに、あまりにも、あたりまえのことをあたりまえと思いすぎるのじゃない? そうでしょ、あなた」(p.253-254)

 

ムーミンママの言わんとすることが、ムーミンパパにうまく伝わったかどうかは疑わしい。

しかし、ここをきかっけに、事態は変わり始める。

 

このあと、ムーミンパパとムーミントロールが二人きりで話す場面がある。

そして、たぶんパパはなにも考えずにムーミントロールと会話をするのだけど、その会話の中で、ムーミントロールは「パパがこんな重要なことを自分に相談してくれた」と感動を覚える。

そんなムーミントロールに、パパは重ねて相談する。

 

「おまえはほんとうにそう思うのかい。海にはぜんぜんリズムもなければ理由もないんだって」

 と、ムーミンパパはききました。

「たしかにないと思うな」

 と、むすこはこたえました――自分のこたえが正しいことを心から願いながら。(p.277)

 

いい場面である。この後パパはしばらく逡巡した後、なんか吹っ切れたらしくて、この記事の冒頭で引用したセリフを叫ぶ。

パパが変わった瞬間である。

そしてそのきっかけは、ママと息子によってもたらされたのだということには注目しておきたい。

 

この後、ムーミンパパは一人で海を訪れ、海と話し始める。

「理解する必要がない」海に語りかけるパパ。

それは自分に語りかけているようでもあり、家族に語りかけているようでもある。

この作品における海とは、自分であり、家族でもあったのだ、ということがこの場面で分かる、と私は思った。

 

ムーミンパパは海に語る。これまでのことを。

自分を諭すように、自分を癒すように、そして自分を勇気づけるように。

そして、最後にこう締めくくる。

 

「(前略)わしがこんなことをいうのも、つまりは――おまえさんがすきだからさ」(p.309)

 

理解できない、その必要もない、と判断した海=自分=家族に対して、好きだと伝えるムーミンパパ。

これはつまり、理解はできないけれども「おまえさん」のことを認めるよ、という告白に他ならないのではないだろうか。

理解できる、だから認める。それはたしかに素晴らしいことかもしれない。しかし当たり前のことでもある。

それよりも、理解しえない他者を、それでも認める、ということの方が、はるかに素晴らしく尊いのではないだろうか。その難易度の高さから言っても。

ムーミンパパは苦悩の果てにそれを成したのである。

 

ここから物語はぐいぐいといい方向に進み、不穏だった島(海)ともいい関係を築けるようになる。

家族関係もいい感じになる。

「春のめざめ」を迎えた息子とも、これならうまくやっていけそうである。

彼の空地の柵の中に、ムーミンママは入ったことがあるけれども、ムーミンパパはない。これでいいのだ。

ママは、自分で壁に描いた絵の中に入りこんで消えたことがある。そのことは誰もしらない。これでいいのだ。

家族といっても、すべて分かり合う必要などないのだ、好きだという気持ちがあって、理解せずとも認め合うことができれば。

そんなことを考えた作品でした。

 

最後、ムーミンパパとムーミントロールは、二人で夜の海を訪れる。

ムーミントロールは「ないしょの用事」があると言ってその場を離れる。

一人になるムーミンパパ。

そこで海を眺めていると、ムーミンパパのしんぱいはすべてかききえてしまって、耳のはしからしっぽの先まで、生気があふれて(p.339-340)」くる。

よかった。

原題『パパと海』はこうして幕を閉じる。