トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』鈴木徹郎訳、翻訳編集:畑中麻紀
(大きくなりすぎちゃったんだ)
と、ホムサは思いました。
(あんまり大きくなりすぎて、ひとりでうまくやっていくことができないんだ)(p.216)
目次
■さようなら、ムーミン谷
■雨音に誘われて
■ムーミナイズされる屈託
■森を抜けるホムサ
■鏡、そしてガラス玉
■屋根裏の夢
■消えるムーミン谷
■ふしぎなかみなり
■ホムサ、フィリフヨンカ、ちびちび虫
■異常事態と、眠れるこうもり
■Sent I November
■ネコ
■影絵、絶叫、最後の雨
■お別れ
■ほら
■さようなら、ムーミン谷
ムーミン小説もこれで最後か、寂しくなるよなあ、と軽くしんみりしながらも、いやしかし、どんな結末が待っているのだろう、という好奇心を抑えきれずに本書を読み始めた私である。
トーベ・ヤンソンさんが手がけてきたムーミンの小説は、そのどれもが桁外れに面白い(現時点で『小さなトロールと大きな洪水』は未読ですが)。信じられないくらい面白いのだ。この作品たちと出会えて本当に良かった。
今年の一月、三十九歳になった私は、自分への誕生日プレゼントとして、ムーミンの小説たち(文庫のラブリーなBOXセット)を購入した。最初に手に取った『ムーミン谷の彗星』からもう虜になって、各作品をむさぼるように読み進めた。面白い。面白すぎる。
そうして『ムーミン谷の十一月』の一回目を読み終えたのが、たぶん四月上旬頃。中旬だったかもしれない。いや下旬だったかも。いずれにしても四月中には読み終えている。そしてそれから今日に至るまで、繰り返し『ムーミン谷の十一月』を読み続けている。もう何回読んだかわからない。少なくとも十回以上は読んでいる。
四回目ぐらいまでは「旧版」を読んでいたのだけれど、萩原まみさんのこちらのムーミンブログ(https://www.moomin.co.jp/news/blogs/75043)を読んだら矢も盾もたまらず、「新版」に切り替えて読むようになった。
途中、トーベさんの評伝(ボエル・ヴェスティン著『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』畑中麻紀+森下圭子訳。以下「評伝」と記す)を読み、それからまた『ムーミン谷の十一月』を読む。
なぜ、こんなに繰り返し読んでいるのか。それはもちろん、面白いから、に決まっているのだけれど、では、なぜこんなにも面白いのか。この面白さをなんと表現したら良いのか。読むと、元気が出る。読むと、優しくなれる。読むと、自分が好きになる。読むと、影絵を作りたくなる等々、おそらく読む人によって受ける印象はさまざまだと思う。ロールシャッハテストのような作品。きっと、みんな違った感想を抱く。共通するのは、忘れられない読書体験になるだろうということ。
この作品は、あらゆる情報が詩的に凝縮され、象徴的に語られている。と私は思う。トーベ・ヤンソンという天才が言葉で構築したこの作品世界では、あらゆるもの(小道具、行動、セリフ、天気、風景、色、そして影…などなど)が「意味ありげ」に存在している。あまりにも蠱惑的な世界なのだ。私は完全に魅了されてしまった。永遠に謎めくこの世界から抜け出せそうにない。
ところで、あらゆるものが意味ありげ、というのは私の単なる思い込みに過ぎない可能性もある。ものごとはただあるがままにそこに存在しているだけなのかもしれない。それを私が勝手に曲解しているだけなのかもしれない。
でもね、この作品の序盤で、床に寝転がったフィリフヨンカが、天井にぶら下がった吊りランプを見上げて、見慣れた吊りランプが角度を変えるとまったく違ったように見える、と気づく場面がある。
これはそのまま、この作品自体を暗示してはいないだろうか。つまり、ここでトーベさんが「この小説は、色んな読み方ができますよ」と宣言しているような気がするのである。
もっともフィリフヨンカはこのすぐあとに、吊りランプが違った見え方をしたのは「気のせいだった」みたいに切り捨てるわけだけれども、気のせいじゃないんじゃないですかね、と私は思うのだ。
■雨音に誘われて
スナフキンがムーミン谷を旅立つ場面から、この物語は幕を開ける。同時に雨も降り始める。序盤のムーミン谷は雨に彩られている。途中、やむこともあるけれど、多くの場面で雨が降っている。
ヘムレン、ホムサ、スクルッタおじさん、フィリフヨンカ、ミムラ、スナフキン。六人の個性的なキャラクターが、それぞれの事情を抱えて雨にけぶるムーミン谷を訪れる。
興味深いのは、六人全員がムーミン谷に揃った(スナフキンがやってきた)時、雨がやむことである。これ以降、雨が降るのは、終盤の最重要場面だけだ(11章の扉絵では、雨の下で傘を差しているスクルッタおじさんが描かれているが、本文に雨は登場しない。これはスクルッタおじさんの心象風景なのだろうと私は解釈している)。
みんなは、雨音に誘われるようにして、ムーミン谷へやって来た。
■ムーミナイズされる屈託
六人にはそれぞれ、ムーミン谷を訪れる理由があった。私なりに整理しようと思う。
「スナフキン」は、ムーミン谷でひらめいた「雨の曲」の出だしの五小節を思い出すために、一度は旅立った谷へ戻ってくる。
「ホムサ・トフト」は、空想でしか訪ねたことのないムーミン谷を、現実で訪問して、ムーミンママに会おうとする。p.20(新版。以下同じ)の挿絵は、おそらく空想のムーミン谷のなかの「特別に大好きな日だまり(p.21)」に立つホムサを描いているだろうと思われる。この日だまりの美しさ! ホムサにとっては、ムーミン谷はまさに夢のような場所なのだろう。
ところで、ホムサ・トフトの「トフト」は、スウェーデン語で「ボートの腰かけ板(p.17)」という意味があるらしいけれど、彼の名前は腰かけ板とは「関係ありません(p.17)」とのこと。「偶然の一致です(p.18)」とトーベさんは念を押している。しかし、そこまで力説されると勘ぐりたくなる育ちの悪い私である。何か意味があるんじゃないですか? ちなみに物語の終盤には、実際にボートの腰かけ板という言葉が登場する。
「フィリフヨンカ」は、ショックな出来事で気分が落ち込んでしまい、ネガティブなことを考えるようになってしまったため、「うす気味のわるいことなんて考えているひまがないひとたち(p.34)」=ムーミン一家に会いに行こうと思う。
ショックな出来事とは、屋根裏部屋の窓の外側を掃除しようとして、足を滑らせて屋根から落ちそうになったことである。九死に一生を得た彼女だが、この時の恐怖体験がきっかけとなり、大好きな掃除ができなくなってしまう。そして「死」という言葉が脳裏をかすめたりもする。だからムーミン谷へ行って、ムーミン一家と「一日中おしゃべりをして、ゆかいにさわいで(p.34)」しまおうと思ったわけだ。
ところで、フィリフヨンカはなぜ、足を滑らせたのだろう? それは、屋根が雨で濡れていたから、と説明はあるのだけれど、私が考えたいのは、なぜフィリフヨンカは足を滑らせなければならなかったのだろうか、ということなのです。
そして、フィリフヨンカは屋根に立つ避雷針の針金にしがみつくことで、なんとか態勢を立て直して助かったのだが、彼女はなぜ避雷針にしがみつくことで助からなければならなかったのか。「はあ? さっきから何言ってんのこの人?」と思われるかもしれない。「そんなのいちいち気にしてたら埒が明かないでしょうに」とも。でも、いちいち気になってしまう。『ムーミン谷の十一月』は、そういう魅力にあふれている作品なのだ、私にとって。
「まわりには、なにもありません。たった一本の針金と、それにしがみついているフィリフヨンカだけが、この世のすべてでした。(p.27)」
唐突に持論を述べるけれど、フィリフヨンカは、本作を執筆時(あるいは執筆後かも)のトーベ・ヤンソンさんをムーミナイズしたキャラクターではないかと私は思う。
いきなりムーミナイズなどという造語を用いてしまったが、これは、「現実のあらゆるものごとが、トーベ・ヤンソンという芸術家のフィルターを通してムーミン谷に登場するときに生じる変化」のことを表す言葉として私が勝手に作った。
ちなみにホムサは、ムーミントロールが誕生したころのトーベさんをムーミナイズしたキャラクター、だと私は思っている。「はじまり」と「おわり」が、文字通り同居しているというわけだ。
ところでフィリフヨンカは時折、言いようのない孤独感や寂寥感に襲われる。これは物語の最後まで回収されなかった「さみしさ」だと思うのだけれど、これは、「ムーミン小説とお別れをした後のトーベさん」の気持ちがフィリフヨンカに投影されているのではないか、なんて私は考えている。
それで、なぜ、フィリフヨンカ=トーベ・ヤンソン=ホムサ・トフトかというと、それは「ちびちび虫」と二人の関係にその理由を求めることができる気がする。このことについては、また後で触れようと思う。ちなみに評伝にはトーベさんが1942年に描いた自画像が載っているが、オオヤマネコの襟巻を首に巻いたその姿は、p.70の挿絵で描かれている「きつねのえりまきを首に巻いたフィリフヨンカ」とそっくり、とは言い切れないかもしれないけれど、けっこう似ている。この点からしても、トーベさんがフィリフヨンカに少なからず自己を投影している、とは言い過ぎだろうか。
続いては「ヘムレンさん」。彼はいわば「中年の危機」をムーミナイズしたキャラクターだと言えなくもないだろう。自分が自分であることが嫌で、変わりばえのない毎日が嫌で、自分がいなくなっても他の誰かが自分の代わりをすることを考えては恐怖を覚える(そういえばフィリフヨンカも、自分が嫌で別の自分になりたいと思い、自分がいなくなった時のことを考えたりしていた)。なので、かつて訪れたことのあるムーミン谷に行って、特にムーミンパパに会って、楽しい気持ちになろうと考える。
ヘムレンさんはボートを持っている(このボートには、ホムサがひそかに住んでいる)。しかしヘムレンさんはボートを運転したことがない。乗り方を習う暇がないのだという。そして彼はそのことを周囲に隠している。つまり、じつは自分がボートに乗ったことがないということを。
このコンプレックスはヘムレンさんをけっこうむしばんでいたのではないか。だから彼は必要以上に「自分はボートに乗れる、ボートが好きだ、ボートは素晴らしい」と虚勢を張るようになり、そしてその嘘がばれはしないかと、いつもひそかに怯えていた、とも言えるだろう。
しかしその怯えはホムサに一瞬で見抜かれる、においで。嗅ぎ分けられる、と言うべきか。そしてホムサは、「ヘムレンさんがその弱さゆえに虚勢を張って生きている、ということに自分は気づいている」ということをヘムレンさんに気づかれないように振る舞おうとする。ちょっとややこしいですが、つまり、下手な嘘をつく人の前で騙されたふりをし続ける、みたいな。
この種の気遣いをなんと呼ぶのかはわからないけれど、でもそれは、「優しさ」に属する距離の取り方だと私は思う。「冷たさ」や「無関心」ではないはずだ。
さあ、この二人の微妙な距離感はどうなっていくのか? 終盤、次々と押し寄せてくるクライマックスの中でも、この二人の場面はひときわ胸に沁みる。すごいですよ。
ちなみに、ムーミン谷に最初にやってきたのが、ヘムレンさんである。
「スクルッタおじさん」は、メンバーの中で最高齢だ。どうも百歳らしい。なんでもかんでも忘れてしまうのだという。そんな彼が、なぜムーミン谷を訪れたいと思ったのか。そこには彼にとって一番大事な「せせらぎ」があるからだという。
スクルッタおじさんは思う。「わしにいちばん大事なのは、あの谷間を流れているせせらぎなんだ。いや、ひょっとすると、小川だったかな。でも、川じゃないことは、まちがいない(p.63)」
彼は「遠いむかし」にムーミン谷を訪れ、「きれいにすんだ水がさらさら音をたてて流れている、せせらぎの橋に腰かけて、足をぶらんぶらんさせながら、泳ぎ回っている小さな魚たちを眺めた(p.63)」ことがあるのだという。
百歳という長い人生を振り返った時、彼にとってはそのせせらぎの思い出こそが「いちばん大事」だったのだ、と言うことなのかもしれない。だからなんというか、「終活」としての思い出探訪みたいな、そういう側面もあるような気がしないでもない。
ただ彼は高齢のこともありとてつもなく忘れっぽくて、ムーミン谷のその記憶が実体験なのか本で読んだだけなのか思い出せないという。しかし「そんなことは、どっちでもいいんだ。(p.63)」
そう、どっちでもいいのだ。私もそう思う。大事なのは、「せせらぎの思い出」が確かに自分の中にあるということだ。
スクルッタおじさんもまた、いろいろと気になる言動が満載である。例えば彼は、旅立ちの荷物のなかに眼鏡を八つしまい込む。そして、「(これからはこの目で、まるっきりあたらしいものを見るんだ)(p.66)」と思う。どういうことだろう。そんなこと言われたら気になるじゃないですか。
八つの眼鏡は、これまで発表されてきた八冊のムーミン小説のことを表してはいないだろうか。数が一緒というだけですが。八冊の「思い出」を携えつつ、新しい九冊目に臨む、みたいな。でも、終盤のパーティー直前に、眼鏡を失くすんですよね。意味ありげですね。
それと、眼鏡をかけずに「この目」で「まるっきりあたらしいもの」を見るぞと意気込んでいたスクルッタおじさんが、実際に見たのは何だったか? それは、まったくもって古いもの=ご先祖さま、ではなかったか?
また、なんでも忘れるスクルッタおじさんはなぜ、かえでの葉を拾い上げて「かえでだな。こいつの名前は、けっしてわすれないぞ(p.64)」と呟いたのか? かえでの木は後半以降に登場する。このかえでの木と関連しているのだろうか?
わからないことだらけのスクルッタおじさんである。しかし、やがて彼が自分自身と向き合った果てに、ある種の「いましめ」を解き(というか打ち砕き)、そのことでいよいよエンディングの準備が整った、という私の見立てはそんなに間違ってはいないはずだ。
最後に「ミムラねえさん」。彼女がムーミン谷を訪れる理由は「ムーミン一家の養女になった、妹のミイに会うため」。
他のメンバー(スナフキンをのぞく)の切実さと比べると、なんだかふわふわしている。異色といってよいだろう。そもそもミムラねえさんは登場した瞬間から満ち足りている。
(ミムラに生まれて、ほんとうによかったわ。頭のてっぺんから足のさきまで、とてもいい気持ちだもの)(p.76)
と考えながら、軽やかに森を突っ切りあっという間にムーミン谷に到着する。雨も降らないし霧も立ち込めない。
他のメンバー(スナフキンをのぞく)が抱えている、生きていく上での屈託や逡巡、負い目といったものがまったく感じられないミムラねえさんは、であるからこそ、特別な役割が与えられている、と私は考えている。
どんな役割かというと、それは「挑発すること」である。挑発の女王としてのミムラねえさん。挑発とは言っても、怒らせるとかではなく、何ていうんだろう、けしかけるというか、そそのかすというか、背中を押すというか…そんな感じ。
といってもミムラねえさんがそういう使命感をもってやっているわけではなく、天真爛漫というか、天衣無縫というか、徒手空拳というか、ただ思うままに軽やかに振舞った結果、皆を刺激してまわることになっているように見える。だから意図せずにスクルッタおじさんを悲しませてしまった時、ミムラねえさんは大きく驚いてしまったのだと思う。
ところで、「ミムラ」という名前について、評伝のp.300に興味深い記述を見つけることができる。ここに書かれていることを踏まえると、彼女の存在や振る舞いは、もはやどこまでだって深読みができてしまう。
さて、以上、これら個性大爆発な六人が、それぞれの思惑を抱えてムーミン谷に集う。
しかしムーミン一家はいない。彼らは最後まで出てこない。
ムーミンたちのいないムーミンやしきで、六人の奇妙な共同生活が始まる。
一癖も二癖もあり、それが最高に面白いムーミン小説だが、『ムーミン谷の十一月』はまさにその掉尾を飾るにふさわしい、一筋縄ではいかないにもほどがある完結編であり、画家であり小説家でもあるトーベさんが生み出した永遠に新しい芸術作品である、と私は思う。
■森を抜けるホムサ
さて、最初にムーミン谷へやってきたのはヘムレンさんだった。次にホムサ、スクルッタおじさん、フィリフヨンカ、ミムラねえさん、と続き、最後にスナフキン。
ホムサは霧の立ち込める森を抜けてやってくる、期待に胸を膨らませ。この、ホムサが森を抜ける場面は、物語の最後に繰り返される。
評伝によると、トーベさんの『それからどうなるの?』というムーミン絵本(現時点で私は未読。早く読みたい! ほか二冊の絵本も)は、ムーミントロールがママを求めてさまよう話らしい。
そしてこの絵本は「深く、果てしない森の中で」という賛美歌が元になっているのだという。この賛美歌はトーベさんの母がよく歌っていたものらしい。
評伝では賛美歌の歌詞が引用されている。驚くべき内容である。『ムーミン谷の十一月』の結末と酷似しているのだ。
母の思い出と分かちがたいであろうこの賛美歌のイメージが、なぜ、作品の結末に必要だったのか。ホムサが作品中で何度も「ママに会いたい」と繰り返していることを合わせて考えてみると、胸に迫るものがある。
■鏡としてのガラス玉
『ムーミン谷の十一月』において、鏡は重要な小道具である、と私は考えている。鏡が最初に登場するのは3章。絶体絶命の危機から生還した、擦り傷だらけのフィリフヨンカは、鏡にうつる自分の顔を見て、こうつぶやく。
(目というものは、ものを見るためにあるのよねえ。じゃあ、その目で見たものはどうなっていくのかしら…)(p.33)
フィリフヨンカのこのつぶやきは、意味深長だよね。と11章のヘムレンさんっぽく言ってみたが、はじめて読んだとき、実際のところ私はどう感じたかというと、意味深長というよりは意味不明だった。
このつぶやきは、「吊りランプ」のくだりにかかっているのかなとも思えるけれど、なーんかしっくりこないなあ、と長らく疑問符がついたままだった。しかし、あらためて読み直してみると、つぶやきの直前に「目も、いつもの自分のでなくて、まるでほかのひとの目みたいでした(p.33)」とある。となると、「その目」とは「ほかのひとみたいな目」ということだろうか。
つまり、「ほかのひとの目で見たとき、ものごとは、どのようにうつるのだろうか」ということかな?
たしかに彼女は、この後ちょっと一歩引いた感じで部屋の中を眺めて、一人暮らしなのにやたらたくさんの食器があることに気がついたりして、「こんなにたくさんあつめて、死んだらどうするんだよ…」みたいなことを思い、そして「いやまだ死んでないし!」と慌てて否定している。
他人の目で自分の暮らしを見たとき、自分と世界の隙間に存在している暗闇に気がついてしまったようにも思える。そしてフィリフヨンカにとって鏡は、否応なしにその暗闇を自覚せざるを得ない道具だったのではないだろうか。
11章で彼女は再び鏡の前に座る。ここでも彼女は「暗闇」を見てしまったようにも思える。「(なにもかも、うまくいかないのね。どれもこれもよ。(後略)(p.112)」と嘆くフィリフヨンカが、挿絵とともに描かれている。彼女は途方に暮れる。
(おそうじもお料理もできないなんて、どうやって生きていけばいいのよ? ほかにやりがいのあるものなんて、なにもないのに)(p.112)
この時のフィリフヨンカは、そうじのことを考えただけで「めまいとはきけにおそわれて(p.112)」しまうようになっている。
ところで、評伝によると、ムーミンが大ヒットしていた一九五〇年代後半に書かれたトーベさんのノートには、「ムーミントロールに吐き気さえ感じてしまう(p.349)」と書かれていたという。
また、評伝には、一九五五年四月にトーベさんが書いた次のような文章が載っている。
「(前略)意欲だけが、願いや喜びこそが自分であり、義務でやらされたものは何ひとつとして、自分にも周囲にも喜びをもたらさない(p.15)」
この言葉は、十五年後、『ムーミン谷の十一月』でフィリフヨンカの次のセリフに変奏されたと私は考えている。
「しないではいられないということと、しなければならないということは、ちがうわよね。しなければということと、せずにはいられないということが同じだとは思わない……(p.206)」
フィリフヨンカにとっての「そうじ」や「料理」は、トーベさんにとっての「ムーミン」や「絵画(あるいは芸術)」がムーミナイズされたものではないだろうか。そして「ちびちび虫」は「ムーミンビジネス」のことでは? と私は思うんだけれども。
13章では、色々あって料理はできるようになったフィリフヨンカの顔が「真鍮のゴング」にうつる。「得意満面のおだやかな自分の顔(p.141)」を彼女はゴング越しに見ている。
鏡が自分の見たいものをうつすとは限らない。ゆがんだ鏡(ゴング)のほうがむしろ、自分のあるべき姿をうつしだしてくれることだってあるのだ、と私は思った。
ヘムレンさんの場合はどうだろうか。
作中で彼が鏡を見ているのは一度だけ、それも挿絵で描かれているのみ(たぶん)。ヘムレンさんが初登場する5章の扉絵がそれである。
おそらくヘムレンさんにとっての鏡も、フィリフヨンカと同じように、何かネガティブな気持ちを呼び起こすものだと言えないこともない気がする。鏡の挿絵が掲げられている5章の書き出しは、ヘムレンさんの自己否定から始まる。
いてもいなくてもいいような自分がいやだ、なにもない日々がいやだ、ちがう自分になりたい…。乗れないボートと一緒にうつった写真を見て、ますます悲しくなるヘムレンさん。
こうして見てみると、フィリフヨンカもヘムレンさんも、鏡や写真を通して見る「自分」から逃げるようにムーミン谷へ向かっている。そしてまあ、色々あって、色々あるわけですが…。
さあそして、スクルッタおじさんの登場である。彼にとって鏡はどうだったか? 彼の鏡は「洋服だんす」の中にある。この洋服だんすの「扉の内側についている、ただの鏡(p.127)」の前で、スクルッタおじさんは、鏡の中にうつる自分を、ムーミンたちのご先祖さまだと思い込み、敬意を持って話しかける。なんともスリリングな場面である。
フィリフヨンカ、ヘムレンさんを悩ませた鏡は、スクルッタおじさんにとってはある種の「窓口」として作用していると言える。彼は何度かこの窓口を訪れては、ご先祖様(というか自分)と面会し、一方通行の会話をしている。これはどういうことだろう? この目でまるっきりあたらしいものを見るはずだったスクルッタおじさんは、あろうことか鏡にうつる自分自身を三百歳のご先祖様だと勘違いしてしまうことの意味は。
過去と対話するということ? 歴史とは過去と現在の対話である、みたいな言葉があったと思うけど、そういうことかな? そしてこの場合の「歴史」とは、「これまで発表されてきたムーミン小説たち」のことだろうか。
そう考えてみると、スクルッタおじさんが鏡に対して最後に取った行動が意味するところは切なくも荘厳である。あそこで描かれていたのは悲痛な「さようなら」だったと思えるからだ。
最後に、ホムサ。彼自身が鏡を見るシーンは無い(おそらく。読み落としていなければ)。p.208で、皆が鏡の前に集う場面があるのだけれど、ここはまあちょっと特殊な場面なので、ホムサが鏡の中の自分と対峙しているとは言い難い。
なかばホムサの分身とも言えそうな「ちびちび虫」が、水にうつった自分の姿を見て、歯があることに気づく場面がある。ここはホムサが間接的に鏡を見ていると言えなくもない。そしてこのあと、ホムサが歯をむきだしにして怒る場面がある。これは「ちびちび虫の歯の発見」と無縁ではないはずだ。
そう考えると鏡は(だいぶ間接的であるにせよ)ホムサに変化をもたらしたと言える。それも本人が戸惑うほどの大きな変化である。自分(ホムサ)が生み出したキャラクター(ちびちび虫)によって、自分が変えられていく。
ムーミンが人気を得ることでトーベさんにもたらされた「悩み」が、ムーミナイズされてここに表れているのかもしれない
鏡のことに話を戻そう。ホムサが鏡の前に立つことはない。その代わりのように、彼は何度もガラス玉の前に立ち、じっと覗き込む。
この「青色ガラスのかざり玉(p.21)」は、魔法のガラス玉である。
「ムーミン谷の中心にあり、住人のすがたがいつもここにうつっていました。ムーミン家のだれかが谷に残っていたら、この深い青色のガラス玉の中をのぞけば、きっと見えるはず(p.55)」
なのだそうだ。なんともマジカルな存在であるが、このガラス玉に着目しているのはなぜかホムサだけである。彼だけがガラス玉の存在を知っていて、気にかけているようにも思える。
ガラス玉にムーミントロールたちがうつることはない。そこには「海みたいに深く、くらくらするほど大きく波がうねってい(p.59)」る眺めがあった。
空想ではなく現実で初めてムーミン谷を訪れたホムサが、ガラス玉の前に立ったとき、この「うねる波」にじっと目を凝らしていると、かすかな光の明滅を見つける。
「灯台のあかり(p.59)」のようなそれは、おそらくムーミン一家が移住した島の灯台のものなのだろう。注目したいのはこの時のホムサの独白である。
(やつら、ぼくをだまそうとしているな)(p.59)
この言葉が私には謎だった。「やつら」とは誰? だまそうとしている、ってどういうこと?
文脈からいうと、「やつら」とはムーミン一家ということだろうか? ファナティックなムーミンママファンとも言えるホムサが一家のことを「やつら」なんて言うかな? それに「だます」っていうのは何だろう? 不在であること=だまされた、ってことかな? 謎である。
じつは中盤にも、ホムサの謎独白が登場する。次のようなものである。
「ぼくのかみなりで、ムーミンママをこらしめてやったんだ(p.138)」
ムーミンママをこらしめる? なんで? やっぱりあの、不在であることにホムサは怒っているんですかね。
もしかしたら、ホムサはムーミン谷に来てからずっと腹を立てていたのかもしれない。
その、怒りにうずまく内面をガラス玉がうつしていた、という読み方は、こじつけが過ぎるかもしれないけれど、でも、ガラス玉の風景は、少なからずホムサの内面とリンクしている気がするのだ。ガラス玉=ホムサの心象風景説、である。
で、「ガラス玉」がそもそもムーミン谷のようすをうつすものなのだとしたら、演繹的に考えて、ムーミン谷がホムサの心象風景になっている、ということになる。
ここでフィリフヨンカのセリフをもう一度、引用しよう。
(目というものは、ものを見るためにあるのよねえ。じゃあ、その目で見たものはどうなっていくのかしら…)(p.33)
さて、鏡の代わりにホムサが見つめるガラス玉の中の風景=ホムサの内面=ムーミン谷は、これからどうなっていくのだろうか。
■屋根裏の夢
評伝によると、トーベさんは若かりし頃(一九三〇年代序盤)、叔父さんの家の屋根裏で暮らしていたらしい。そしてその頃に、ムーミントロールというキャラクターが生み出されている。
トーベさん自身がムーミントロールについて、「誕生は一九三〇年代のこと(p.195-196)」とインタビューに答えている。また、評伝のp.197には、一九三二年の日記に書かれたイラストが載っている。それは、屋根裏部屋にいる人の背後から、首筋に息を吹きかけるトロールというお化けのイラストである。
この頃のトーベさんは、屋根裏で暮らしながら、屋根裏に現れるムーミントロール(あるいはお化け)について思いを巡らせたりしていたんだろうな、と私は思う。
これって、なんだかホムサと似ていないだろうか。
ホムサは屋根裏で夢を見る。
ムーミンやしきの屋根裏がホムサの住みかだ。そこで、どこかから見つけてきた「ちびちび虫」に関する本を読み、夢想する。ちびちび虫とは、正式には放散虫類とかいう虫のことらしい。ホムサが読んでいるのはその虫の学術書のようなものと思われる。ムーミン一家とはまったく関係がない本だ。しかしホムサはこう考える。
「ホムサは、その本を読んでいけば、ムーミン一家が今どこにいるのか、なぜ行ってしまったのか、わかるような気がしていたのです。(p.74)」
これを、根拠のないただの思い込みと無下にしてはいけない。ホムサの思い込みは重要である。彼の「思い」はどこかこの作品世界に影響を与えているふしがあるからである。
彼はちびちび虫に思いを寄せる。
しだいに共感を深めていく。
やがてちびちび虫は実体化し、巨大化していく。
フィリフヨンカと屋根裏についても書いておこう。
この小説の序盤で、彼女は屋根裏部屋から外に出て、死にかけたのだった。そして、避雷針の針金にしがみついて体勢を立て直しなんとか助かっている。
で、私は思うのだけれども、この小説における「かみなり」は、トーベさんにとっての「芸術」あるいは「芸術的なもの」みたいな、そういったものを表しているような気がする。それを踏まえて、次のように作品を解釈してみることは可能だと思うのだ。
それはどういうものかというと、「屋根裏(下宿時代)」から「外に出た(世界的にヒットした)」ことで「死にかけ(大きな悩みを抱え)」てしまった「フィリフヨンカ(本作執筆前後のトーベさん説)」が「助かる」ためには、「避雷針=かみなり(芸術)が落ちる場所」にしがみつかなければならなかった、という解釈。ちょっとこじつけ気味だけどね。
しかし、評伝を読むと分かるが、トーベさんの芸術(=かみなり)に対する思いは相当に強い。雨がやんだムーミン谷は、やがて雷鳴がとどろくようになる。「かみなり」を生むのは、ほかでもないホムサ(ムーミン創造時のトーベさん説)だ。
かみなりが鳴り出すと、この小説は唯一無二の混沌とした輝きを放ちはじめる。
しかしその前に、トーベさんはムーミン谷を消している。消す必要があったのだろう。
■消えるムーミン谷
12章はこの物語のターニングポイントだと思う。
ホムサがかみなりを生み出し、ムーミン谷が消える。
12章序盤、ヘムレンさんがうすい板に「赤茶色の染料で『ムーミン谷』と書いている(p.119)」。
ミムラねえさんから「それ、だれのために書いているのよ?(p.119)」と問われると、ヘムレンさんは「ぼくたちのためさ(p.120)」と答える。
すかさずミムラねえさんから「なんで?(p.120)」と突っ込まれ、答えに窮したヘムレンさんは「安心するためじゃないかな(p.120)」と言う。「名まえには、なんていうか、特別なものがあるだろう。わかるかい、ぼくのいうこと(p.120)」。
ミムラねえさんは「わかんないわ(p.120)」とばっさり切り捨てる。
そしてその「ムーミン谷」と書かれた板は、看板大嫌いのスナフキンに見つかってしまう。半狂乱になったスナフキンに怒られたヘムレンさんは、看板を川に流す。そして。
「たちまち、板に書いた字は、ぼやっとしてきて読めなくなりました(p.122)」
「ムーミン谷」の文字が消えたのである。この場面はなんとも興味深い。
ムーミン谷に憧れてやってきた「ぼくたち」のための「ムーミン谷」が消える。
これはどう読むべきだろう。
ここから先は「ムーミン谷」の物語ではない、という宣言かもしれない。
これは私の勝手な憶測だが、12章から最終章にかけて、ムーミン誕生から終結、そして復活までが描かれているような気がする。だから、そのための手始めとしてムーミン谷は消されたのだ、と思う。だって、ムーミントロールが生み出される以前には、ムーミン谷は存在していなかったわけですから。
■ふしぎなかみなり
ちびちび虫の本を読み込むホムサは、おそらく彼自身の孤独な身の上を重ね合わせながら、ちびちび虫に対して次第に共感を覚え始める。そして「今、いったいどこにいるのだろう。どこかで、会えるかな。もしぼくが、そのすがたをはっきり見えるくらいにお話をすれば、目の前に出てきてくれるかもしれないぞ(p.100)」と思うようになる。
そして12章で、ちびちび虫には電気が必要だと考えたホムサは、「お話」を作り始める。それは、ちびちび虫を「ある谷間」に行かせるという話である。その谷間には、電気の嵐を作れるホムサがひとりで住んでいるという。
「白や紫の稲光が、連なる谷を明るく照らし出します。はじめは遠くのほうで光っていましたが、だんだんと近づいてきました……。(p.119)」
虚実皮膜論、という言葉が頭をよぎる。どんな意味だっけ? goo辞書には「芸は実と虚の境の微妙なところにあること。事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする論。江戸時代、近松門左衛門が唱えたとされる芸術論」とある。
なんでいきなりこんな考え方を持ち出したのかというと、12章以降、この作品は、極めて虚実皮膜になると思うからである。作者と作品の境界、過去と現在の境界、そしてホムサの夢と現実の境界がふわふわに溶け合って、ぐるぐると渦巻いて、物語はエンディングに向かって「微妙な境界」を突き進んでいく、と私は考えている。
そして、だからこそ、近松門左衛門の言葉を借りれば「芸術の真実」がこの作品に描かれている、と私は思うのだ。
きっかけとなるのは、ホムサのふしぎなかみなり。
虚実の境目を曖昧にするかみなりが、ムーミン谷に響き始める。
で、唐突だけれど洋服だんすについて語ります。
この洋服だんすには鍵がかかっていたはずである。8章でフィリフヨンカがムーミンやしきにやってきた際に、鍵がかかって開かないことを確認している、やたら取りみだしながら。なぜフィリフヨンカは取りみだす必要があったのだろう?
それはさておき、この時たしかに鍵はかかっていた。しかし12章で鍵が開く。
前述した「ムーミン谷看板事件」によって「ムーミン谷」が消えた後、スナフキンがムーミントロールからの手紙を探しはじめる。フィリフヨンカは、そういう大事なものは洋服だんすの中にあるはずだ、とスナフキンに教える。「でもあそこには、かぎがかかっているわ(p.125)」とも。
しかしスナフキンは「かぎなんて、かけないよ(p.125)」と答え、洋服だんすの前に行き、もう一度「かぎなんて、かけっこないよ(p.125)」と繰り返してから扉を開く。扉は当たり前のように開く。鍵は開いていた。
しかし、スナフキンの言うように、本当に鍵はかかっていなかったのだろうか?
私は、それまで鍵はかかっていたと考える。スナフキンが扉を開ける直前に「鍵があけられた」のだ。
誰によって? たぶん、ホムサ。
フィリフヨンカは、返事をしませんでした。ずっと遠くで、かすかにかみなりが鳴りました。
「かぎなんか、かけっこないよ」
スナフキンはくりかえしました。そして洋服だんすのところへ行って、扉を開いてみたのですが、たんすの中はからっぽでした。(p.125-126)
上記の引用は、洋服だんすの扉が開いた瞬間の描写だけれども、私はここで鳴っている「かみなり」に注目したい。
このかみなりは、ホムサが「お話」の中の「ある谷間」の遠くの方で鳴らしていたかみなりだと思われる。
つまり、ここで描かれているのは、ホムサの夢の中のかみなりが、現実の谷間に落ちた瞬間なのだ。この時、虚実の境目が溶け落ちた、と私は考える。だから鍵が開いたのだ。
開け放たれた洋服だんすは、さながら、夢と現実をつなぐ不気味なゲートのようにも思える。そこから飛び出してきたのは…。
■ホムサ、フィリフヨンカ、ちびちび虫
洋服だんすの中はからっぽだった。
しかしそこから漂ってくるにおいに、フィリフヨンカは恐怖を覚える。
それは「ぞっとするような得体の知れないにおい」で「くさったもののあまったるく、息のつまりそうなにおい(p.126)」だったという。腐敗臭。
フィリフヨンカは、洋服だんすの中から、なんか嫌な感じのやばい小さな虫たちがうようよと這い出てしまった、と思う。彼女は悲鳴をあげて、ホムサに助けを求める。
屋根裏から飛び出してきたホムサは、「電気のとても強いにおい(p.127)」を感じている。フィリフヨンカが感じた腐敗臭とはずいぶん違う。
洋服だんすに近づくと、電気のにおいはさらに強くなる。そしてホムサはつぶやく。
「ぼくが出してやったんだ」
ホムサは、声をひそめていいました。
「あいつは、ほんとにいるんだ。ぼくが今、あいつをだしてやったんだ」(p.127)
「あいつ」とは「ちびちび虫」のことである。このセリフから、ホムサはちびちびが、この洋服だんすの中かから出てきた、と考えていることがわかる。
フィリフヨンカは不気味な虫が出てきたと思い、ホムサはちびちび虫が出てきた(出してやった)と思う。
ここで私が気になるのは、二人の感じたにおいの違いだ。腐敗臭を感じたフィリフヨンカと、電気のにおいを感じたホムサ。
本作で、かみなりが芸術的なものをあらわしている(と私が思い込んでいる)のだとしたら、電気は、それを支える創作意欲とか、初期衝動とかひらめきとか、そういうイスンピレーション的なものを表している、と考えるのはあまりにも恣意的にすぎるだろうか。
その生き物は、ホムサの生み出したかみなり(芸術的恩寵)によって、どんどん大きくなっていく。フィリフヨンカはその存在に怯える。
ちびちび虫とはムーミンビジネスのことではないか。
そして、巨大化していくムーミンビジネスに悩まされ、吐き気さえ覚えるほどだった頃のトーベさんが、フィリフヨンカにムーミナイズされていると私は思う。
つまり、においの感じ方の違いは、「ムーミン」という作品(キャラクター)の、トーベさんにとっての「意味」の違いだと思う。
創作意欲と初期衝動にスパークしているホムサ(初期トーベ)が感じる電気の匂いと、ムーミンビジネスに苛まれてしまったトーベさん(フィリフヨンカ)が感じる腐敗臭。
トーベさんは、ムーミン小説を完結させるためには、ムーミン谷に平穏をもたらすためには、そして、ムーミン一家が再び戻ってくるためには、巨大化しすぎたムーミンビジネス=ちびちび虫と決着をつける必要があった、と私は思い込んでいる。
そのために、ムーミントロールを生み出した過去の自分(ホムサ)と、ムーミントロールに怯える現在(あるいは近過去)の自分(フィリフヨンカ)を作品内に配し、二人にそれぞれの「決着」をつけさせたのだと思う。
その上で、私たちに「夢」を与えてくれたわけだ。
■異常事態と、眠れるこうもり
ホムサのかみなりによってムーミン谷は変容する。
絶対に魚は取れないはずだった「せせらぎ」で、スクルッタおじさんは魚が取れるようになる。驚くべきことである。これは谷が決定的に変わってしまったことを端的に表しているとも言える。
かみなりは鳴りまくる、すさまじく。しかし雨は降らないのだった。スナフキンはそのことに奇妙さを覚える。異常なことが起きている。
そしてここ(12章)から、スナフキンとミムラねえさんが、みんなを「焚きつける」ようになる。
スナフキンはフィリフヨンカに、二人きりのテントの中で、台所をお勧めする。絶対に安心な場所として。ここ、いい場面です。描写もすごい。フィリフヨンカの不安定さと危うさ、そしてスナフキンの彼女に対しての優しさが、ほんの短い文章で表されている。で、それが、かっこいいんだよなー。
またかみなりが鳴りました。こんどはすぐ近くです。スナフキンはフィリフヨンカの顔を見て、にやりとしました。
「まあ、とにかく、かみなりはやってくるだろうね」(p.132)
ね。かっこいい! 思わず私もにやりとしてしまう。
「新版」を読んで、「旧版」との訳の違い(解像度というか鮮やかさ)に驚いた点はたくさんあるけれど(それはいわば4Kデジタルリマスター&ディレクターズカット版のようなものです)、上記の引用個所もその中のひとつ。「新版」の訳だからこそ、ここのセリフはばしっと決まっていると思う。このセリフを私なりに解釈すると、「芸術(かみなり)はあなたを放っておかないよ」となる。熱い。
で、この後、台所にたどり着いたフィリフヨンカの元をスナフキンが訪れる。ここでスナフキンは彼女を焚きつけているように私には思える。
どういうことか。スナフキンは台所に来る前にスクルッタおじさんと会っている。そして魚を取って大喜びのスクルッタおじさんに、「おじさんの魚の料理なら、フィリフヨンカが、もってこいだよ(p.134)」と言っている。
その後、おそらく間を置かずにスナフキンはフィリフヨンカのいる台所に行っているはずである。そしてフィリフヨンカに、次のようなことを言う(要約)。
「ヘムレンのやつが、魚料理をできるのはヘムレンさまだけだって言っているんだけど、ほんとうかな?」
これに対してフィリフヨンカは、「そんなの、うそっぱちに決まってるわよ。お魚を料理できるのは、フィリフヨンカしかいないわよ。ヘムレンさんだってそのことは、よく知っているはずよ!(p.135)」と、なんというか闘志を燃やし、結果的に料理ができるようになる。
それで私が思うのは、果たして本当にヘムレンさんはスナフキンに対して、「魚料理をできるのはヘムレンさまだけだ」なんて言ったのだろうか、ということである。スナフキンとヘムレンさんが会話する暇なんてあったっけ?
この場面のあとで、ヘムレンさんがホムサを庭に呼ぶ描写が出てくる。おそらくかみなりが鳴りまくっているとき、ヘムレンさんもムーミンやしきのどこかにいたはずだ。スナフキンと出会って話していた可能性はある。
しかし、これはスナフキンがフィリフヨンカを焚きつけるためについた嘘のような気がする。フィリフヨンカが作った魚料理を皆で食べる場面で、かなり興味深い一節が登場する。
「(前略)魚料理はフィリフヨンカにかぎるって、ぼくはいつもいってただろう」
ヘムレンさんが、とがめるようにいいました。
「ははは」
フィリフヨンカは声をたてると、もう一度、はははとくりかえして、スナフキンの顔を見ました。(p.143)
この場面をどう読むべきだろうか。
ヘムレンさんが自分の間違った見解(魚料理はヘムレンさましかできない、というもの)をごまかすために「いやぼくは前から言ってましたよね? フィリフヨンカは魚の料理が上手だって」と歴史修正主義者的な姑息な発言を行った、と読めないこともない。
しかし、ヘムレンさんはたしかに、虚勢を張りがちなおじさんではあるが、卑怯な人ではない。けっして。彼にそんなことはできない、不器用すぎる人なのだから。
なので、ここでは彼の発言を素直に受け止めてみたい。彼は本当に、「魚料理はフィリフヨンカにかぎる」と「いつもいっていた」のではないだろうか。
となると、「魚料理をできるのはヘムレンさまだけだ」という発言は、スナフキンの創作だということになる。なんのために? フィリフヨンカを元気づけるために。
そしてそのことをフィリフヨンカ自身が察した瞬間が、上記の引用場面だと私は思う。ははは、と笑った後に、もう一度、はははと笑い、スナフキンを見る。いい。本当にいい…。
食事の間、フィリフヨンカはじつにいきいきと振舞っている。
そして食べ終わった後。
「ごちそうさまでした」
と、ホムサはおじぎをしました。スナフキンもいいました。
「とてもおいしいプディングだったね」
「まあ、そう思ってくれるの?」
フィリフヨンカは、かすかにほほえみましたが、頭の中はちがうことに気をとられていました。(p.145)
というやりとりがある。
ちゃんとごちそうさまが言えるホムサはおりこうさんだな、と感心しつつ私が気になるのは、フィリフヨンカが考えている「ちがうこと」とは何か、ということである。
この会話の直前に、フィリフヨンカは絶対に掃除をしないと宣言している。やはり大好きな掃除が(まだ)できないことに、色々と思うところはあるだろうから、この「掃除ができない」ことに気を取られていたのだろうか?
たしかにそうかもしれないけれど、でもここでの「ちがうこと」っていうのは、「スナフキンに対して芽生えた好きという気持ち」じゃないかなと私は思う。恋愛感情である。この日の夜、フィリフヨンカは台所の裏口の外に立ち、スナフキンがテントのなかで吹いているハーモニカのしらべを「息もつかずに聞」いている(p.147)。そして演奏が終わると、大きなため息をついて台所に戻っている。このため息とは、「あーあ演奏おわっちゃったよー残念」というがっかりため息というよりはむしろ、物思いにふける感じの、恋愛的なため息ではないだろうか。このフィリフヨンカの恋は、意外な結末を…って、妄想の収集がつかなくなってきたので、かみなりの話に戻します。
ムーミン谷に鳴り響く、このただならぬかみなりは、ミムラねえさんにも変化をもたらしている。
彼女はどうなったかというと、「すっかり電気をおびてしまいました。(p.137)」。こちらもただならぬ感じである。
電気をおびたミムラねえさんは、全身がびりびりになり髪の毛から火花が飛び散っている。なんとなく、神話的。そして全身に力がみなぎり「(今だったら、どんなことだってできるわ。ま、なにもしないけど。)(p.137)」と考えている。まるで「火の玉(p.137)」と化したミムラねえさんは、これから何をするのかというと、焚きつけるのである、ホムサとフィリフヨンカを。
それはどこか、イヴに知恵の実を食べさせるヘビのようでもある。そういえばミムラねえさんは眠るとき、体を丸めている。それは、ヘビがとぐろをまく姿に見えなくもない、いや、やっぱり見えない。
それはともかく、この魅力的な火の玉ねえさんは、二人の元を訪れては、二人が意識の奥底に閉じ込めているような「火だね」に火をつけていくのである。それによって、フィリフヨンカは「ムーミンママらしくふるまうのではなく、自分らしくふるまうこと」が徐々にできるようになり、ホムサは「怒ること」ができるようになったのだと私は考えている。
で、そのようになった二人をミムラねえさんはさりげなく褒めている。フィリフヨンカには「あなた、また、いつものあなたにもどったみたいよ(p.182)」と、そしてホムサには「でもさ、とにかく、腹を立てることはできたわね(p.190)」と。このさりげなさが、かっこいい。
12章の最後は、ホムサで締めくくられる。ここまでへらへらと冗長に語ってきた私だが、この場面には圧倒されて言葉が出てこない。何と言えば良いのだろう。ここには『ムーミン谷の十一月』の核心が埋め込まれている気がする。とてつもなく重要なことが語られている、という予感が私にはある。でもそれをうまく説明することができない。まるで魔法にかけられたよう。うーん。ホムサの「かみなりでムーミンママをこらしめてやった」発言が出てくるのもここ。
(この谷が、いくつもの夢がいっぱい入るくらい、からっぽだったらよかったのに)
と、ホムサは思いました。念には念を入れたほんとにいい夢を作るためには、広さと静けさが必要なんです。(p.139)
広さと静けさがなければ、いい夢を作ることができない。つまり、自分の考えが飛躍しているのはわかっているけれども、ムーミン一家が戻ってくる(リボーンする)ためには、谷はからっぽ、まっさらな状態でなければならない、ということではないだろうか。「ムーミン谷」の文字が消されたというのは、その「いい夢を作るために谷をいったんまっさらにする作業」の一環だったのではないだろうか。
さて、ムーミン谷で発生しているかみなりは、自分が生み出したものだとホムサは気づいている。
しかし同時に、自分とは関係のない電気が空気中に存在していることを感じている。そのことがp.138にさりげなく書かれている。
いや、ちょっと待って、それってどういうこと? ホムサの他にも、かみなり化はしていないものの電気を生み出していた存在がこの谷にいるということ? だとしたらそれはフィリフヨンカ以外には考えられないのでは? と、底なし沼にでも沈んでいくような気分であわあわしているところで、天井で静かに眠るこうもりが唐突に再登場する。
天井のこうもりは、まだ眠っていました。かみなりなんて、どこ吹く風というように。(p.139)
ちなみに、こうもりは8章で一度、かわいい挿絵つきで登場していた。
ホムサは、ウグイ網の下に本をかくしました。そして、じっと横になったまま考えました。ぼろぼろになった天窓の下には小さなこうもりが一ぴき、さかさまにぶらさがって眠っていました。(p.75)
優雅に眠れるこのこうもりは、シーンをいっそう謎めかせる存在となる。
8章でこうもりが出てきたときは、「ああ、こうもりですか、眠ってるのね」ぐらいにしか思わなかったけれども、12章での、しかもこのくだりでの登場には「いや、ちょっと待って」と言わざるを得ない。谷を襲う異常なかみなりが、どこ吹く風? そんなことがあり得るのだろうか? このこうもりは、何を意味しているのだろう?
私はこうもりの生態を調べてみた。それで、こうもりの種類によっても違いはあるみたいだけれど、気になる記述があった。こうもりは虫を主食とするらしいのだ。
木を見て森を見ず、過度な思い込みと無理なこじつけでこの読書感想文を書いている私でも、さすがにこれから語る「こうもり論」はけっこう荒唐無稽だと思う。ほんと。
でもまあ書きますが、虫を主食とするこうもりが、かみなりにまったく反応しないということは、それはすなわち、ホムサが具現化したちびちび虫&フィリフヨンカが怯える小さな虫たち、にも反応していないということではないだろうか。
そしてこうもりは8章の時点=かみなり以前=に存在していた、つまり「現実」に存在していたということになる。現実のこうもりが主食の虫に反応していない―このことから私は、虫は「現実的には」存在していない、という説を導き出すの。
いや、そもそも、こうもりを持ち出さなくても、「ちびちび虫」はホムサとフィリフヨンカにとってしか存在していなかったと思われる。他のキャラクター(ヘムレンさん、スクルッタおじさん、スナフキン、ミムラねえさん)は、ちびちび虫の存在にまったく「気づいていない」のだから。
こうもりはそのことを裏打ちする存在として、12章に置かれたのではないだろうか。その静かな眠りは、かみなりさえも「存在しない」ことを示しているというわけだ。
なんて、強引にまとめてみましたが、でも、このこうもりには、何かしらの重要な役割が与えられていることは間違いないと思う。なぜなら、「新版」のカバーを取って背表紙を見てみると…そこには、眠れるこうもりが、さも意味ありげに存在しているのだ。そんなところにいられたら、これはもう絶対に「なにかある」としか思えないじゃないですか。この章おしまい。
■Sent I November
13章では、フィリフヨンカの魚料理をみんなで食べる場面がでてくる。スナフキンのおかげ(たぶん)もあって、彼女は再び料理ができるようになったのだ。この食事会はわりといい感じで終わったように思える。これ以降、秋はどんどん深まってゆく。そして物語も、いよいよ深まる。
スクルッタおじさんは鏡の中のご先祖さまと邂逅を果たす。この時、虚実のみならず、過去と現在の境い目すらも消えたと言えるだろう。だからこそこのあとの、ホムサとフィリフヨンカによる屋根裏での意味深なやりとりが実現したと言えなくもない気がする。
13章の最後、ホムサは屋根裏で、ちびちび虫=その生きもの、についてお話をする。
その生きものは、(中略)じっと待っていました。もうぜったいにがっかりされないくらい、うんと大きく強くなるまで、そしてひとのことなど気にしなくてもすむようになるまで、待っていたのです。(p.148)
本作でホムサの過去が語られることはない。ただ、色々と大変な思いをしたのだろうなとは思う。その生きもの(ちびちび虫)はどんどん大きくなっていく。p.161にこんな記述が出てくる。
とうとうホムサは、この生きものをこれ以上大きくするのはやめました。頭の中の絵を取りはらいましたが、かみなりは海の上でゴロゴロと鳴りつづけています。生きものはもう、ひとりでに大きくなっていくようです。
巨大化に歯止めが効かなくなっている。ちびちび虫、制御不能である。 この直前のホムサのお話で、その生きもの(ちびちび虫)は水面に映る自分の顔を見て、歯があることに気がついている。もうこれで十分だ、こんなにすごい歯があるのだから、とホムサは考えたのだけれども、巨大化は止まらないのであった。全世界に広がるムーミンビジネスのように。
そんなある日の夜、フィリフヨンカがホムサのいる屋根裏を訪れる。
ここは、めまいがするほど重要な場面のように私には思える。なぜなら、「屋根裏(ムーミントロールが誕生した場所)」で、「フィリフヨンカ(現在のトーベさん)」と「ホムサ(過去のトーベさん)」が会話をするのだから。
フィリフヨンカはホムサに、名前(トフト)を尋ねた後で、なにか優しい言葉をかけようとする。逡巡した後、フィリフヨンカは言う。
「寒くない? だいじょうぶなの?」
「だいじょうぶだよ、ありがとう」
ホムサ・トフトはいいました。
フィリフヨンカは両手を投げ出すように開くと、ホムサの顔をのぞきこみながら、すがりつくような声でいいました。
「ほんとに、だいじょうぶなの?」(p.164)
二回目の「だいじょうぶなの?」は、「ムーミントロール(ちびちび虫)を誕生させて、ほんとにいいの?」と私には聞こえる。
このフィリフヨンカにホムサはたじろぎ、答えをはぐらかす。
フィリフヨンカは去り際に、少しもじもじするのだけど、ここはたぶん、ホムサを抱きしめたかったんじゃないかなと思う。でもしなかった。ムーミンママらしくふるまおうとしている状態で(つまりムーミンママのお面をつけて)、ホムサを抱擁したとしても、それは誰も救うことにならないとトーベさんは考えたのではないだろうか。誰もが自分らしくあらなければならないとトーベさんは考えていたと思うから。
この場面の直後、ホムサは本(ちびちび虫の)をまったく読めなくなってしまう。
そして、簡単に行けたはずのガラス玉がある場所に、道に迷ってなかなか辿り着けずにいる。ようやく見つけたガラス玉の中では、暗く濃い霧がうずまいている…。
ホムサは明らかに動揺していた。おそらくフィリフヨンカの言葉で。
それから、あの生きものの元を訪れ、「ちびちび虫くん、元気かい(p.166)」と声をかけて、うなり声をあげられ、恐怖を覚えてそこから駆け出す。ホムサが初めて、ちびちび虫に恐怖を抱いた瞬間である。
ホムサが向かった先は、スナフキンのテントだった。ホムサが「ぼくはあの家族(ムーミン一家)にだまされた」と発言したりするこの場面で、スナフキンのあの有名なセリフが出てくるんですね。
「あんまりおおげさに考えないようにしろよ。なんでも、大きくしすぎちゃ、だめだぜ(p.167)」
だまされたとかそういう考え方はやめなよ、と言っているように聞こえるし、ちびちび虫(ムーミントロール≒ムーミンビジネス)はほどほどの大きさにしときなよ、と言っているようにも聞こえる。
このセリフ、含蓄ありまくりで、自分が思春期の頃にこの言葉と出会っていたらもう少しほがらかなティーンエイジを送れていたかもしれないな、などと思ったりしてしまった。
この翌日の日曜日、二度目の食事会が行われる。「ピクニック」と称されるそれは、ベランダの外での食事である。フィリフヨンカの発案らしく、彼女によればこの日は「やりたいようにやらなきゃならない日」なのだそうだ。でこぼこの地面の上に置かれた、傾いた食卓が、フィリフヨンカの不器用さを表しているようでなんともいとおしい。
おそらくだが、この場で、お人好しなヘムレンさんは、「こういう食事の席では、大人のぼくが、なにか社交的な話題をふって盛り上げるべきなんだろうな」的なことを考えていたのではないだろうか。そんな気がする。それで、「自分は有能な年長者であり、色々なことに理解がある。ホムサも自分のことを尊敬しているから素直に指示に従ってくれるんだよね」的な雰囲気を出しつつ、自ら話を切り出したようなふしが無くもない。
そうやってヘムレンさんが社交的なふるまいをしている時、まったく意想外なことが起きる。ホムサが激怒したのだ。その叫びは、どこかヘムレンさんを諫めるもののようにも聞こえるし、自分自身に向けているようにも聞こえる。いずれにしてもスナフキンの「大きくしすぎちゃだめ」という言葉が、ホムサのなかに根付いていたことがわかる悲鳴であった。
凍り付く食卓。
さらにこの状況でミムラねえさんが燃料投下、フィリフヨンカに火をつける。
この時のフィリフヨンカの、ぎりぎりに追い詰められた感じは読んでいてつらいが、しかし、このフィリフヨンカの絞り出すような嘆きが、スクルッタおじさんの記憶を呼び覚ます。
おじさんはこの家で手紙(おそらくムーミン一家の誰かからの置手紙と思われる)を見つけていたという。しかしスクルッタおじさんは、手紙をどこに隠したのか忘れた、と言い捨てて、ご先祖様と面会しに行き、そしてその場で体調を崩してしまう。
すごい展開である。この異常に密度の濃い展開がエンディングまで続く。すごすぎると思いませんか?
で、みんなはてんやわんやでスクルッタおじさんの薬を探し始める。仕切りたがるヘムレンさんを華麗にいなすフィリフヨンカが面白い。このどたばたの最中に、ミムラねえさんは、床に伏せるスクルッタおじさんの元を訪れる。
ミムラねえさんはこの時、なんのためにスクルッタおじさんの元へやってきたのだろうか。ミムラねえさんって、ほんと、意味深長だよね。
もともと、ミムラねえさんの言動には、かなり謎めいていて意味ありげなものが多い。
たとえば9章での初登場時、ムーミンやしきに入るとまっさきに屋根裏へあがって「とてもひえこんで(p.82)」いることを確認している。屋根裏にことさら重要な意味を勝手に与えている私としては、看過できない行動である。
また、この9章でミムラねえさんは、言い合いを続けるフィリフヨンカとヘムレンを窓越しに眺めては「なんだかほんとうのものではないような気がします(p.83)」と考えた上で「でも、ホムサだけはべつでした(p.83)」とも感じている。ホムサの内面とムーミン谷(あるいは作品世界そのもの)が繋がっていると考えている私にとってはあまりにも誘惑的なフレーズである…。
9章ではさらに、ミムラねえさんの意味ありげな行動が登場する。p.84で、スナフキンがムーミンやしきに近づいてきた時、ミムラねえさんは「窓を開ける」。そしてスナフキンがそれ以上近づかずに、踵を返して去ってしまうと、ミムラねえさんは「窓を閉める」のだ。そして、ミステリアスな述懐が続く。
なんでもたのしくすごすことぐらい、すてきなことなんてほかにないし、それってとてもかんたんなことなのです。ミムラねえさんは、だれかと出会ってすぐあとで、そのひとのことをわすれたからといって、ちっとも気にしません。(後略)(p.86)
これはどういうことだろう。文脈からいうとフィリフヨンカたちのことを言っているようにも聞こえるけれど、でも、いまひとつしっくりこない。
私が思うに、これはスナフキンのことをことを言っているのではないだろうか? スナフキンのある種の「拒絶」に対してのコメントというわけである。この二人は、作中で一度も会話を交わしていない。にも関わらず、最後のパーティーではダンスとハーモニカでコラボレーションしていたりする。
え、いつ練習してたの? って思うけど、でも、秘めた関係をおおやけに堂々と宣言する、みたいな感じがして良い。この時のミムラねえさんは太陽が踊っているようだったらしい。
それはさておき、スクルッタおじさんの元を訪れたミムラねえさんである。おそらく彼女はスクルッタおじさんの本音を聞きたかったのだろうなと思う。
韜晦と諧謔の塊のような彼から本心を引き出すのは容易なことではないはずだが、ミムラねえさんはさらりとやっちゃうのが、エレガントです。そして彼女は、「にやりと笑」う。(p.179)
ちなみにこのあとミムラねえさんはフィリフヨンカの元へ行き、そこでもこの「にやり笑い」を見せる。
ともあれ、スクルッタおじさんの元でミムラねえさんがにやりと笑った直後、薬がみつかり、そして、ムーミンママからの置き手紙も見つかる。
ところで『ムーミン谷の十一月』の原題は『Sent I November』である。
どういう意味だろうと思ってウェブ辞書で翻訳してみると、「11月に送付済み」みたいな結果が出るので、私はてっきり、「これはママの手紙のことを言っているのだな」と思っていた。
「それにしても、ママがこの手紙を書いたのはおそらく11月よりもずっと前のことだろうから、11月に送付済みってのはちょっと腑に落ちないけれども」などとも思ったりもしていた。
そんな時、評伝を読んでいたら、原題は「11月の終わりに」と紹介されていて、どういうことかと混乱してしまった私である。そして恐れ多くも、評伝の翻訳を手掛けられた畑中麻紀さんにSNSで質問してみたところ、快く丁寧に教えてくださいました。
「Sent I November」はスウェーデン語であり、「sent」は英語の「late」にあたるのだそうです。そうだったのか! これはウェブ辞書の翻訳が間違っていたわけではなくて、私が設定を「英語から日本語へ」の状態で翻訳していたから「11月に送付済み」という全く違った結果になっていたわけである。畑中さんありがとうございます。
11月の終わりに。
おそらく最初の食事会(13章)から17章ぐらいまでが、11月下旬のできごとであると思われる。
18章では「わが家の夕べ」という名のパーティーが行われる。このパーティーの時点ですでに12月に入っていることがヘムレンさんの詩でわかる。
で、気になるのが17章である。文字通りパーティー前夜のこの章は、果たして11月なのか、12月なのか。私は、この夜こそがSent I November=11月の終わりに、の日だったのではないかと思い込みたい。この章に横溢している「予感」をこそ、原題が指し示していたのだという読み方ができなくもない気がするのだ。
■ネコ
さて17章に話は移る。
ある日の夜、ミムラねえさんはフィリフヨンカの元を訪れる。そしてフィリフヨンカに、パーティーが明日、台所で行われることを告げる。フィリフヨンカは活気づき、こんなことを言う。
「いいことを聞いたわ! 知らないものどうしが漂流して陸に打ち上げられたり、大雨や大風で閉じこめられたりしたときには、みんなそういうパーティーをするのよ――そして、パーティーの最中に、ふっとろうそくを消すの。そして、もう一度火をつけたときには、ひとりいなくなっていて……」(p.183)
「ときどきあなた、びっくりすることをいうわね。うん、わるくないわ。そして、それから、ひとりずつ消えていって、最後はネコだけ残されて、みんなのお墓の上でぺろぺろ毛づくろいするのよね」
フィリフヨンカは、ぶるっと身ぶるいしていいました。
「もう、お湯がわいたんじゃないの? ネコなんて、ここにはいないわ」
「そんなのかんたん、作っちゃうのよ」
ミムラねえさんが、にやりと笑いました。
「空想してみればいいのよ。そしたら、あなたにはもう、ネコがいるってわけ」(p.183-184)
そしてミムラねえさんは部屋を出ていく。去り際に、「台所のかざりつけは、一番の芸術家のフィリフヨンカにお願いしたいってヘムレンさんが言ってたよ(意訳)」という言葉を残していく。芸術家。フィリフヨンカはその言葉に胸をときめかせ興奮している。やはりトーベさん的である。
このミムラねえさんのセリフは、前にスナフキンが「魚料理はヘムレンさまに限るって言ってたよ」という手口を彷彿とさせる。これはおそらくミムラねえさんが「焚きつけた」んじゃないかな? と思わずにはいられない。
それで、ネコとはなにか。
まず私が気になるのは、最初に引用した箇所で、フィリフヨンカはいったい何を言いかけたのだろうかということだ。ろうそくを再びつけたとき、ひとりいなくなっていて、そして、どうなったのか。じっさい物語はこの後、同じような展開を迎えている。つまり、ろうそくをつけたとき、ひとりいなくなっているのである。
ここは、フィリフヨンカが言いかけた言葉をミムラねえさんが繋いだと読んでみても良いだろう。物語は、ミムラねえさんが言ったようにも展開していくので。「そして、それから、ひとりずつ消えていく」のである。
フィリフヨンカとミムラねえさんが話した通りに進む物語。
しかし、では、ネコはどうだろうか?
フィリフヨンカはなぜか身ぶるいしながら、「ネコはここにはいない」と言っている。この「身ぶるい」はどう取るべきだろうか。恐怖というよりはむしろ興奮、武者震い的なやつだったのではないかと私は読んでみたい。つまり、「もしここにネコがいたら、とてつもなく素晴らしいことが起きそうな予感」に打ち震えているというわけだ。
そしてミムラねえさんがにやりと笑い、「空想すればいい、かんたんなこと」と言う。そして続ける。「あなたにはもう、ネコがいる」
注目したいのは、ネコがいるのは部屋にではなくて「あなたに」いると言っている点だ。パーティー後、フィリフヨンカは台所にひとり残っている。ここに実体を持ったネコは登場してこない。しかし、ネコ的ななにかはたしかに存在していたと私は考える。これについては後ほど。
フィリフヨンカは台所の飾りつけをはじめ、パーティーの余興用の影絵を作り始める。
そのころホムサは、川へ水を汲みに行っていた。彼は、ヘムレンさんを怒鳴ったことに戸惑っていた。そしておそらく自分がまだ子供であることについての憤りも芽生えていた。思春期っぽい。そして次のように思う。
(親切ではあるけれど、ひとのことをほんとうは気にかけていない友だちなんて、ほしくないや。それに、自分がいやな思いをしたくないから親切にするひともいらない。こわがるひともごめんだ。ちっともこわがらないで、ひとのことを心から気にかけてくれる――そうだ、ぼくはママがほしいんだ)(p.188)
孤独なホムサの切実な願い。ここでホムサが拒絶した三種の人間は、それぞれスナフキン、ヘムレンさん、フィリフヨンカのことを言っていると思われる。皆を拒み、その一方で膨らみ続けるママへのあこがれ。
そんなホムサに、ミムラねえさんは言う。
「(前略)それから、いっときますけどね。ムーミンパパもムーミンママも、ムーミントロールだって、おたがいの顔を見るのもいやになることが、ちょいちょいあるんですからね。(後略)」(p.192)
この言葉にホムサは怒る。
「ムーミンママは、そんなひとじゃありませんよだ。ママはいつも、変わりやしないんだ」(p.192)
そうしてミムラねえさんの元から去る。少し安定し始めたフィリフヨンカとは対照的に、ホムサの悩みは次第に大きくなっていく。あの生きものだって、どこにいるのか知れたものではない。
何かが始まろうとしている。
おそらくこのあたりで日付をまたいでいる。つまり11月が終わり、12月になった、と私は考える。
場面はパーティ当日の夕方、台所。飾りつけを終えたフィリフヨンカは満足そうだ。ちなみに最後に飾った花の色は青。青といえば、9章でミムラねえさんが眠ったふとん(ママが六年かけて羽毛を集めたという)の色も青である。
さてそこにスクルッタおじさんがやってくる。彼は言う。
「(前略)びっくりするなよ。わしはまた、めがねをぜんぶ、なくしちまったんだ!」(p.195)
8個のめがねを失くしてしまったという。しかしそれでいいのだと私は思う。なぜなら彼は「(これからはこの目で、まるっきりあたらしいものを見る)(p.66)」必要があるからだ。めがねはいらないのだ。
予感に満ちた17章は、スクルッタおじさんの全眼鏡紛失宣言で幕を閉じる。いよいよ次章から「まるっきりあたらしい」物語が始まるということではないだろうか。
■影絵、絶叫、最後の雨
おそらくは自分から買って出たのだろうけれど、パーティーの進行役はヘムレンさんである。
彼の詩の朗読からパーティーは始まる。人生、自由、幸福といったものを、ボートの船出に重ね合わせて表現しているその詩の中で私が気になるのは「舵の重み」を強調している点だ。
ヘムレンさんはこの時点でまだ舵の重みを知らないはずである。なのでこの詩にはいささか虚勢が混ざっているといえるだろう。ヘムレンさん的な憎めない強がりではあるし、彼自身も純粋に感極まってこの詩を朗読しているようだけれど、しかし、まあ、強がっているよね、ということは覚えておきたい。
ともあれこうしてパーティーは幕を開ける。
乾杯の直前に訪れた静寂の瞬間、家の外からどしんどしんという音が聞こえてくる。おそらくはあの生きものの足音だろう。家の周りをうろついているようである。明らかに異様なこの物音に、しかし気がついているのはフィリフヨンカとホムサのみである。
パーティーは余興へと進んでいく。
ホムサは本を朗読する。ちびちび虫に関するあの本である。攻撃性に関するくだりにスクルッタおじさんが反応している。攻撃性とはどういう意味かとスクルッタおじさんが聞くと、フィリフヨンカが「おこったときのことですわ(p.203)」と答えている。その攻撃性=おこったときのことについて、ホムサが朗読した箇所では「有効性がなく、かつ不可解な(p.202)」ものと書かれている。
続いてミムラねえさんの情熱的で美しいダンスfeat.スナフキン。パーティー会場は大いに盛り上がる。家のまわりを這い回るあの生きものも興奮しているようでどしんどしんと大きな足音を響かせていたようだが、誰にも聞こえていないのは不思議である。
そしてスクルッタおじさんが、みんなをご先祖さまの元へ案内する。つまり洋服だんすの前へ。
そこにあるのはただの鏡で、みんな(というか主にヘムレンさん)はけっこう戸惑うのだけれど、フィリフヨンカが機転をきかせて上手い言い方をして、スクルッタおじさんを傷つけることなくなんとか場は収まる。なんともユーモラスな場面であるが、しかし、ここで鏡の前に全メンバーが集まったことの意味は大きいだろう。
鏡の中にご先祖さまはいなかった、しかしみんなは「いる」ことにした。
もしかしたらミムラねえさんのネコはここにかかっているのかもしれない。
そしてこの時、フィリフヨンカとホムサが例のにおいに気がついていることも忘れてはならない。洋服だんすは、ちびちび虫の出現場所だった。しかし、もちろん、このにおいに気がついているのは二人のみである。
一同は台所に戻る。フィリフヨンカの余興が始まる。影絵『帰ってきた一家』である。
思うに、みんなにとってムーミン一家とは影のような存在ではなかっただろうか。6章でヘムレンさんが、ムーミン一家についてこんなことを言っている。
「つまりさ、なにかさ、いつだって、ちゃんといるにはいるんだけど、ってみたいなものさ、わかるかなあ、ぼくのいうこと……ほら、木みたいなものさ。ね……? でなければ、なにか……(p.58)」
なにか……影のような存在だった、とヘムレンさんは言いたいのではなかったか。また、スナフキンは11章で次のように考えている。
あのひとたちだって、うるさいことはうるさいんです。おしゃべりだってしたがります。どこへ行っても、でくわします。でもいっしょにいても、ひとりっきりになれるんです。(p.117)
これもまるでムーミン一家は影のようなものだと言っているように思える。どこへ行ってもでくわすけれど、一緒いてもひとりなんて、まるでなぞなぞのようでもある、答えが影の。
さて、それでフィリフヨンカの影絵である。『帰ってきた一家』と題されたそれは、ボートに乗ったムーミン一家が家に帰るまでを描いたものらしい。「白い画面の海の上を、影絵のボートがすべっていくんです……(p.194)」のだという。
それでですね、この一文から連想される描写が、14章に出てくるのである。
あの生きものについて書かれた箇所。
「黒い影のように、森のふちをすうっと音もなくすべっていきます……。(p.152)」
ムーミン一家とちびちび虫。影がすべるふたつのイメージが重なる。両者はきわめて近い存在なのではないか。もっと付け足すと、同じ14章でホムサが「影のようにすうっとベッドにすべりこんで(p.157)」いたりする。ホムサ・ムーミン一家・ちびちび虫、影のトライアングルである。
ちなみにこのフィリフヨンカの影絵ショーでもスナフキンが客演している。
影絵終了後、フィリフヨンカがランプの灯を消す。台所がまっくらになる。ここからがすごい。
マッチがみつからず、暗闇が続く。フィリフヨンカが何度も「マッチが見つからない」と悲鳴をあげる。みんなパニックになり色々ひっくりかえる音が暗闇に響く。あの生きものがすぐ近くまで来ていることにホムサが気がつく。かみなりが、鳴る。
「あいつらが、おもてにいるわ!」
と、フィリフヨンカは、悲鳴をあげました。
「家にはいってくるわ!」 (p.213)
暗闇の中、ホムサは静かに家の外に出る。
ようやく台所にあかりが戻る。マッチを見つけたのはスナフキンだった。
さあ、ここで17章でのフィリフヨンカとミムラねえさんのやりとりを思い出してみたい。「そして、パーティーの最中に、ふっとろうそくを消すの。そして、もう一度火をつけたときには、ひとりいなくなっていて……」とフィリフヨンカは言っていた。そしてその通り、今回のパーティーでは、もう一度火がついたとき、ひとり(ホムサ)がいなくなっている。
そしてミムラねえさんはこう言っていた。「そして、それから、ひとりずつ消えていって、最後はネコだけ残されて、みんなのお墓の上でぺろぺろ毛づくろいするのよね」と。今回のパーティーでもじっさい、あかりが戻った後は、みんな「あっという間にすがたを消してしまいました(p.214-215)」という。
二人の発言通りに事が進んでいる(こじつけ気味だが)。
となると、最後には「ネコ」が残されているはずだが、台所にひとり残っていたフィリフヨンカが目にしたものは…。
ここで場面はホムサに変わる。ホムサはちびちび虫と対峙している。その生き物は、怯えているようにも見える。ホムサは思う。
(大きくなりすぎちゃったんだ)
と、ホムサは思いました。
(あんまり大きくなりすぎて、ひとりでうまくやっていくことができないんだ)(p.216)
評伝を読んで知ったことだが、トーベさんはムーミンの新聞連載にかなり苦しめられたらしい。途中からは弟のラルス(ラッセ)さんとの共同作業になり、一九六〇年からは完全にラルスさんに引き継がれている。「あんまり大きくなりすぎて、ひとりでうまくやっていくことができないんだ」というホムサの声が重なる。
一九五九年にトーベさんが最後に手掛けたムーミン連載では、ムーミントロールは精神科医に極度のコンプレックスの塊と診断されている。そして処方された精神安定剤を飲んだムーミントロールは、あっという間に体が縮んで姿が見えなくなってしまったのだという。(評伝p.350)
ちびちび虫も似たような最後を迎えているのだ。ガラス玉の前で、ホムサはちびちび虫に語りかける。雨はしとしとと降り、遠くでかみなりが鳴っている。
「だめだよ」
と、ホムサはいいました。
「ぼくたち、かみつくなんて無理だよ。あいつらに歯向かうなんてことは、いつまでたってもできっこないんだ。ぼくのいうことを、信じてくれよ」(p.217)
いや、噛みつく? 歯向かう? ぼくたち=ホムサ&ちびちび虫は、あいつらに「歯」を使うことはできない、ということだろう。その歯にはおそらく「有効性がない」のだ。でも、あいつらって? ムーミン一家? ヘムレンさんたち? 謎めいたセリフだが、評伝にこんなくだりがある。
「(前略)こんな商業目的の世界で有名になったからって何だと言うの。そんなもの、噛みついてやりたくなる」
しかしトーベが仕事を放り出せるはずもない。つまらないムーミングッズを作る業者や、連載にクレームをつける者たちや、契約やら書類やらにうるさいロンドンの紳士たち。みんなまとめて噛みついてやりたいというのが本心だったが、もちろんトーベがそんなことをするわけもなく、そしてまた、切れ目なく押し寄せる仕事を礼儀正しくこなしていくのだった。(p.375)
これを読むと、もしかしたらホムサが言う「あいつら」の射程範囲は、じつは相当広かったのかもしれないと思えてくる。そしてそれはトーベさんの悩みがいかに大きかったかということを物語っている。おそらく、だからこそ、トーベさんはムーミン小説を終わらせる=完結させなければならなかったのではないかなと私は思う。
ホムサは叫ぶ。
「小ちゃくなって、かくれるんだ! このままじゃ、おまえはやっていけないんだよ」(p.217)
その絶叫に呼応するようにガラス玉がうねりだし、なんというか、巨大化したちびちび虫の「巨大化した部分」を吸い込んでしまう。ちびちび虫は元の大きさ(姿)に戻ったのだ。その後の行方は杳として知れない。
なんだか、トーベさんが最後に手掛けた新聞連載のムーミントロールの末路と似ていないだろうか? 『ムーミン谷の十一月』の献辞には「弟・ラッセに捧ぐ」とある。これは以降の新聞連載をラルスさんが引き継いだことと合わせて考えるとけっこう胸が熱くなる献辞である。
さて、そして場面は台所に戻る。雨が降っている。フィリフヨンカは、スナフキンが置き忘れたハーモニカに気がつく。外からは雨の音だけが聞こえてくる。フィリフヨンカはハーモニカを手に取り、口にあてる。いつしか夢中でハーモニカを吹いている。何時間も、我を忘れて。
近よりがたいほど夢中になって吹きつづけているうちに、心の中はすっかり落ちついていました。ひとがいようがいまいが、もう気になりませんでした。(p.219)
私の大好きな場面のひとつである。名シーンだ…。この時、フィリフヨンカは回復したのだと思う。大きな痛手から。翌朝には掃除ができるようになっているのだから。雨もやんでいる。もう作中で雨が降ることはない。
18章はこうして終わる。ところで、「ネコ」はどこにいたのだろうか。私は、フィリフヨンカがハーモニカで奏でていた音楽こそが「ネコ」だったのではないかと思う。
たいせつなのは感じることなのです。音を探すのではなくてね。(p.219)
ネコがいると空想したとき、あなたにはもうネコがいる。そんなミムラねえさんの言葉が脳内に響く私です。
■お別れ
フィリフヨンカは朝から大掃除を決行する。なんというか圧倒的なお掃除力である。ごみも虫たちも皆、洗い流され掃き清められていく。フィリフヨンカ、完全復活である。みんなも掃除を手伝いだす(exceptスクルッタおじさん)。掃除が終わったのは夕方だった。
みんなはそろって、ベランダの前の階段に腰かけました。夜になると、とても寒くなりました。でもみんな、ここでの生活に区切りをつけて、お別れなんだと思うと名残おしくて、動くことができませんでした。(p.225)
ここも味わい深い場面である。挿絵もしんみりくる。
お別れの時が近づいている。
寂しい雰囲気の中で交わされる、軽妙な会話は、かえって寂しさを際立たせるようでもある。同じ日常の繰り返しに辟易していたはずのヘムレンさんに、ミムラねえさんは「で、どうしてちがっていなくてはいけないの?(p.227)」と聞く。この目が覚めるような問いかけに私はちょっと感動しました。
そう、なんか、人って。このままじゃ自分はだめだ、変わらなきゃいけない、って思いがちじゃないですか、自分と向き合う時間を多く持っていたりする時なんか特に。
でもそれって何がいけないのだろう。理由を考えてみるとよくわからない。だったら悩む必要なんてないでしょう、とミムラねえさんは言っているように思える。じっさい彼女は「ずっと同じ自分でいたい!」的なことをこの時に言っている。
この翌日、雪が降る。フィリフヨンカとミムラねえさんが谷を去っていく。フィリフヨンカとスナフキンが最後に交わした会話、これも素敵です。恋愛的な意味でも。直前のヘムレンさんの挨拶を、うわの空で本当にそっけなく答えているフィリフヨンカも面白かった。
そしてスクルッタおじさんは鏡を叩き割る。
これで過去と現在、虚と実をつなぐ回路は消えてしまった。ムーミン谷はまっさらになった。準備は整った。
何の準備か。それはムーミン一家が帰ってくる準備であり、作品が終わりを迎える準備である。そして、「念には念を入れたほんとにいい夢」をふたたび作るための準備でもあると私は考える。
スクルッタおじさんは冬眠に入る。話は前後するが、スクルッタおじさんの冬眠に関して、ホムサは次のようなことを考え、とある行動を起こす。
でもホムサは、こう思ったのです。目が覚めたときにたいせつなのは、眠っている間も、だれかが自分のことを考えてくれていたのがわかることなんじゃないかって。(p.237)
百歳になるスクルッタおじさんの冬眠に、そこはかとない死の匂いを感じるのは私だけだろうか。死の暗喩としてスクルッタおじさんの冬眠があると考えたとき、ホムサがやったことは、優しさに溢れる追悼だったのだと読むことができると思う。
夜、ホムサはガラス玉を訪れる。
ガラス玉の中は、からっぽでした。ただのきれいな青色のガラス玉でした。でも、黒い夜空には、ダイヤモンドのようにきらきらと、数えきれないほどの星が輝いています。氷のようにつめたくまたたく、冬の星でした。(p.236)
ガラス玉の中はからっぽだったという。「いくつもの夢がいっぱい入るくらい、からっぽ」になったということではないだろうか。
ここの挿絵は、2章(p.20)の挿絵と対になっていると考えることができなくもないだろう。2章で描かれていたのは、空想の中で訪れたガラス玉で、花が咲き乱れて木漏れ日が差し込む、まさに夢のような世界。
対して19章(p.236)の挿絵は、冷え冷えとした何もない空間とガラス玉、そしてそらに輝く無数の星。夢と現実。両方の美しさがここで描かれている。
空想世界の住人だったホムサに、現実にもこんなに美しい世界があるのだよ、と教えているような場面にも見える。
しかし私が気にかかるのは、評伝で紹介されていた、トーベさんが『ムーミン谷の十一月』の原稿に書き込んでいたというメモである。
「現実より夢が大切だということを語っていかねば。(p.506)」と書かれていたという。
この書き込みは、私には意外だった。『ムーミン谷の十一月』は、空想(夢)から自由になる現実、を描いている側面があると思っていたからだ。
巨大化したちびちび虫は消えて、鏡も割られた。ガラス玉の中(ホムサの空想)も綺麗に消えた。そうやってまっさらな現実をムーミン谷に取り戻すための作品、だと思っていたのである。p.236の挿絵と引用した箇所は、まさにそのこと=後に残るのは夢よりも現実、が表されていると思っていたのである。
けれどトーベさんは、夢のほうが大切だと語らなければならない、と考えていたのだという。どういうことだろう。そんなことを考えながら何度か作品を読み返しているうちに、私はこの作品の最後の最後にこそ、夢の大切さが語られているのだと思った。
だらだらと書き続けてきたこの読書感想文も終わりが近い。
その前にヘムレンさんについて語りたい。
20章はヘムレンさんの章である。この章もまた、全文引用したいほどの素晴らしい章である。
端的に感想を書こう。
ヘムレンさんは、「同じことの繰り返しがそう悪くない」ことを知る。ホムサのさりげない優しさが彼を助けている。
そしてヘムレンさんはスナフキンとボートに乗り、けっこうな荒波に乗り出す。ヘムレンさん、人生初の船出である。
ここであの「腰かけ板=トフト」という言葉が出てくる。挿絵ではスナフキンが腰かけ板に座っている。
ヘムレンさんは恐怖と船酔いで死にそうになるが、必死で舵を動かす。夢中で。いつしか上手に舵を取れるようになっている。スナフキンのハーモニカを吹くフィリフヨンカの姿が重なる。ヘムレンさんも「ネコ」を見つけたということだろう、だいぶ荒療治だったけれどね。
そして海から戻ってきたヘムレンさんとホムサの会話。ここも超名場面である。
ヘムレンさんは、ホムサの前で、自分の「弱さ」を告白する。ホムサはその「弱さ」を受け入れる。そうして二人の間のぎくしゃくした感じは消える。その後の二人の生き生きしたやり取りは、感動的である。泣けてくるよ。何回読んだって、暖かい気持ちになる。
そしてヘムレンさんも、ムーミン谷を去っていく。
■ほら
21章。最終章である。
1章でそうしたように、21章で再びスナフキンはテントをたたみ、炭火を消し、谷を去っていく。想像以上に美しく、飾り気のない「雨の曲」が近づいてきたのだという。
最後に残ったホムサにとって、「ムーミン谷はもうすっかり、まぼろしの中の景色になってい(p.255)」たという。
「ムーミンやしきも、庭も、川も、影絵を見ているようです。ホムサは、どこまでがほんとうで、どこからが自分の空想だかわからなくなってきました(p.255)」
はたして実際はどうだったのだろう。
つまり、どこまでが本当で、どこからが空想だったのか。
ちびちび虫も消えて、かみなりも鳴らないいま、おそらくホムサの目には、圧倒的な現実が映っていたはずである。寒々たる、誰もいないムーミン谷が。この、からっぽでまっさらで、広くて静かなムーミン谷は、ある意味ではホムサが望んだ空間とも言えなくもないはずだったが、まだひとつ、大きな存在が残っていた。ホムサの頭の中で肥大化してしまったムーミンママの幻想である。
ホムサはムーミンママのことを「顔のないすべすべした、まるい大きな風船みたいにしか思い浮かべられなく(p.255)」なっていた。ホムサは恐怖を覚え、森の中に駆け込む。
その森とは、ミムラねえさんが言っていた「ムーミン一家の人たちが腹を立てたときに決まってさまよう家の裏の森(意訳)」である。当時は「ママが怒ったりするわけない」と激怒したホムサだったが、いざ自分が森の中を歩いてみると、「頭の中があのガラス玉と同じようにからっぽになり(p.258)」、それまで抱いていた、ママへの過度な憧憬が消える。ここで本当に「からっぽの谷」が出来上がったのだろう。
そして、ママだって、怒ることもあるし、色々と複雑な気持ちに悩まされることだってあるよね、むしろそれこそがママらしい姿だよね、と自然と思えるようになるのだ。
そして思う。
ホムサはふと、ママはなぜかなしくなったのだろう、どうしたらなぐさめてあげられるのだろうと思いました。(p.258)
ママへの憧れをずっと抱いてきたホムサが、空想ではなくて現実にしっかりと立脚した瞬間、あるいはそれは思春期を抜け出た瞬間なのかもしれないと私は思う。前作『ムーミンパパ海へ行く』で思春期を迎えたとも言えるムーミントローと対応していると読めなくもない。
ホムサは森を抜け、荒涼とした山のてっぺんに立ち、海を眺め、ムーミン一家の帰還を待つ。この記事の最初のほうで書いたが、この森を抜ける場面は、評伝で紹介されている賛美歌「深く、果てしない森の中で」を明らかに意識している。
この賛美歌には雷鳴も登場する。なんとも『ムーミン谷の十一月』的なのである。
この時のホムサはどんな心境だったのだろう。賛美歌に出てくる「ひとりぼっちの子ども」は泣きながら森をさまよっている。ではホムサはどうだったのか。
ここからはもう完全に私の妄想だが、ホムサもまた泣きたかったはずである。でも我慢して、海を眺めていたのではないだろうか。ムーミンたちが帰ってくると信じて。心の中ではもう帰ってこないのかもと思いながら。
そして夕日が完全に海の向こうに沈む瞬間、つまり「つめたくくすんだ冬の黄色い光が、この世界をとてつもなくさびしい色にそめ(p.259)」た瞬間、ホムサは「帰ってこなかった」と涙をこぼしたのだ、と私は妄想する。この文章で描かれている「落日」は、「落涙」の暗喩だと思う。
しかし次の瞬間である。
「ほら、(p.259)」で始まる短い文章に私は注目したい。というかこの「ほら」という言葉そのものに。
この「ほら」は、読者よりもホムサに語りかけている言葉のようには思えないだろうか。もっと言うと、ママを失った悲しみ(現実)に打ちひしがれて、ずっと頑張ってきたけれどもとうとう泣いてしまったホムサに、いてもたってもいられずに、トーベさんがホムサの隣に座って、肩に手をまわして優しくゆすって元気づけて、そのうえで海の向こうを指さして、ほら、あそこ見て、なにか見えない? と言っているような「ほら」に、私には思えるのだ。
指さした先には、「おだやかで、あたたかくて、たのもしい(p.259)」光が見える。
この光こそが、トーベさんが最後に残した「夢」なのだろうと私は思う。
現実よりも夢が大切。この物語の最後の最後に語られる夢は、とても力強く、優しさに溢れている。
夢とは、おだやかで、あたたかくて、たのもしいものなのだ。
そして夢がなければ、現実はとてもさびしいものになってしまう。現実よりも夢が大切。
もういい大人になった私だが、だからこそついつい「現実を見ないと」的なことを思ったり口走ったりしてしまいがちだが、でも、現実よりも夢が大切なのだ。それはもう絶対に。夢のない現実なんて枯れた大地のようなものではないか。
トーベ・ヤンソンという偉大な作家が残したこの傑作について語るのは難しい。私がとったやりかたは「だらだらとひたすら語りたいことを語る」というあられもないものだった。
ちょっと思い込みが先走りすぎて何を言っているのかわからない部分も多々あると思うけれど、もしここまで読んでくださった方がいたとしたら、ありがとうございます。書かずにはいられないことを書きました。『ムーミン谷の十一月』が大好きなんだという私の気持ちが少しでも伝わっていたのなら嬉しいです。