Pithecanthropus Erectus

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パヴェーゼ『美しい夏』河島英昭訳

 まるでソファーにすわっているみたいに、アメーリアは鏡によりかかっていた。正面の鏡の中で、彼女はまっすぐにこちらを向いていたが、そこにはジーニア自身の姿も見え、少し背が低かった。ふたりは母と娘のようだった。(p.50)

 

しかしそうは見えたとしても、二人は母と娘ほど歳が離れているわけではない。

主人公のジーニアは16歳、アメーリアは20歳。歳の差はわずか4歳である。

にもかかわらず「母と娘」に見えてしまったのにはアメーリアの醸し出す「老成してる感じ」と、ジーニアのあどけなさ、のギャップが相当に激しかったのだろうと私は思う。

 

あの夏はよかったなー、楽しかったなー、という回想から物語は始まる。

タイトルは「美しい夏」だし、こんな感じで、ジーニアとアメーリアの美しい友情とか恋愛とかが描かれていくのだろうな、という予想は外れた。

「その夏」はけっこう早い段階で終わり、寒々しい秋から冬にかけて物語は展開していく。

逡巡して葛藤しまくるジーニアと、達観した大人然としてふるまうアメーリア。

巻末に収録されている訳者の川島英昭さんによる素晴らしすぎる解説によると、この作品は元々は『カーテン』というタイトルが付けられていたという。

カーテンとは、ジーニアを振り回すグィードという画家のアトリエの一角にある小部屋を仕切っているカーテンのことを指しているものと思われる。

カーテンの向こうには、風紀紊乱な空間があり、そこを目にしたジーニアは「うわー」みたいに思っていたりもしたのだけれども。

 

で、その「カーテン」というタイトルが「美しい夏」に変わったのだとしたら、つまり、「美しい夏」を「カーテン」として見てみることもできなくはない気がする。

どういうことかというと、p.42に「こうしてその夏は終わった、」とあるから、ここから先の物語がカーテンの向こう側の「うわー」な世界、ということである。

舞台は第二次大戦下のイタリア(らしい。作中で明示されてはいないはずだけど)。

まぶしい青春、甘酸っぱい恋愛、そんなものとは無縁な物語が展開していく。

アメーリアの周辺にはたえず不穏な気配が漂っている。

まさに「うわー」な世界。

ジーニアがそんなアメーリアに対して抱く複雑すぎる感情(憧れ・同情・軽蔑・友情・嫉妬・恋愛など)は、時としてふたりを遠ざけたりもするけれども、物語の最後でふたりは「結束」したように思えて、その終わり方の鮮やかさもあって、なんとも言えない余韻が残る。めでたしめでたしとは思えないけれど。

ふたりはどこへ向かったのだろう?

解説によるとふたりが向かった先は、次作『孤独な女たちのあいだで』に現れてくるという…。気になる。