Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の彗星』下村隆一訳、翻訳編集:畑中麻紀

 岩山全体がぐらぐらゆれて、あたり一面がふるえ、彗星が恐怖のさけび声をあげました。それとも、悲鳴をあげたのは地球のほうだったのでしょうか。(p.208)

 

 ムーミン小説の第一作目(『小さなトロールと大きな洪水』はとりあえず置いておいて)の『ムーミン谷の彗星』では、冒頭から、ムーミン谷の美しくおだやかな風景が描かれている。ムーミン谷、よさげなところだなあ。自然がきらきらしていて、まばゆいなあ。そんな牧歌的な思いを抱いて読み進めた矢先に、ムーミン谷の様相は一変してしまう。

 

 すべてが、灰色なのです。空や川ばかりではありません。木々も、地面も、家も。あたり一面が灰色で、この世のものと思えないほど、気味わるいようすをしていました。(p.30)

 

 なぜこんなことになってしまったのかというと、地球が滅びてしまうからだという。宇宙は真っ暗闇の恐ろしいところで、それに比べたら地球は吹けば飛ぶようなパンくず程度のものなのだ…と、自称・哲学者のじゃこうねずみから教えを受けたムーミントロールとスニフは怯え切ってしまう。そして二人はめっきり厭世的になってしまう。一日中、階段に座ってぼーっとしてたりする二人のことを案ずるムーミンママとムーミンパパ。

 

「あの子たちに、なにかさせないといけませんわ。ふたりとも、遊ぼうともしないもの。じゃこうねずみにいわれて、この地球がほろびることしか考えられないんだわ」

 ムーミンママは、心配そうです。

「子どもたちを、しばらくよそへ行かせようと思うんだ。じゃこうねずみが、天文台のことを話していたしな」

 と、パパがいいました。(p.36)

 

 たしかに、地球が滅びることも心配だけど、子どもたちが家に閉じこもってばかりなのも、気がかりではあるよね。だから、この時のムーミンママとパパの気持ちも分からないではない。天文台は、「少し川をくだったところ(p.36)」にあるというし。

 ということでちょっと旅しておいで、と言われたムーミントロールとスニフは、当然、その要求を拒否する。

 でもママに説得されて、決意に燃えた二人は旅に出るのだった。

 

 天文台は「少し川をくだったところ」にあるはずだったのだが、そんなことはなく、二人の旅は命がけの壮絶なものになる。途中、スナフキンと出会い、なんだかんだ危ない目をくぐりぬけて天文台に辿り着き、四日後に彗星が地球に衝突することを知り、家に帰る途中でスノークスノークのおじょうさんと出会いつつ、これまた危険な目に遭いながらなんとか帰宅し、そして、彗星が衝突する瞬間を迎える…。

 

 私は初めてこの小説を読んだとき、接近する彗星の熱気で干上がって変わり果てた海の底を、みんなが竹馬で渡っていくシーンにとてつもない衝撃を受けた。なんだこれは、と思った。

 

 ひとりずつ竹馬をにぎりしめながら、赤い夕もやの中を下っていきました――。海草に足をとられたり、すべったり、湯気でおたがいの顔もよく見えません。(p.149)

 

 すごすぎる、と思った。もちろん、こういう場面にでくわしたときの私の常として、感情をうまく言い表すことができないわけだけれども、とにかく独創的で、そして圧倒的に「こわくて、美しい(p.150)」と思った。この場面と出会った瞬間から私は完全にムーミン小説の虜になり、傑作中の傑作である『ムーミン谷の十一月』まで夢中で読んだ。

 

 今回、『ムーミン谷の彗星』を読み返してみても、やはりこの竹馬のシーンにはとにかく興奮したし、クライマックスの展開には、胸を締め付けられた。劇的すぎると思った。読み終えた後は、気持ちが高ぶってなかなか寝付けないくらいだった。

 そして、ふと思ったのだ。彗星とは、なんだったのだろう? と。

 

 彗星とは、いったいなんだったのだろうか。

 

 この作品が書かれた時代背景や、彗星が地球に衝突する日付の意味ありげな感じから、彗星とは、日本に落とされたふたつの原子爆弾のことを暗喩しているのではと、つい思いがちである。私も、きっとそうなのかもしれないな、と思った。しかし、彗星=原爆と捉えたとき、私はどうしても引っかかりを覚える箇所がある。ムーミントロールの次のセリフである。

 

「(前略)彗星って、ひとりぼっちでほんとにさびしいだろうなあ……」(p.164)

 

 このように、彗星に対して、ある種の共感というか同情の念のようなものをムーミントロールは抱いているわけだけれども、では、原子爆弾に対してもムーミントロールは同じように思えるのだろうか。

 なんてことを思いながら、トーベさんの評伝(ボエル・ヴェスティン著『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』畑中麻紀+森下圭子訳)を読んでいたら、『ムーミン谷の彗星』は1945年の7月の終わりには完成していたらしいと書かれてあり、となると、少なくとも日本に落とされた原子爆弾の暗喩ではないと思われる。

 では、彗星が地球に衝突するあの意味ありげな日付は? これについても、意外な理由が評伝には書かれている。詳しくは評伝を読んでいただくとして、ここでは、広島と長崎に落とされた原爆を意識した日付ではない、ということを述べるにとどめておこう。

 

 では、彗星とは何か。

 

 彗星とは、スニフのことではないだろうか。

 またそうやって奇をてらったこと言って注目を集めようとしてるのか、姑息な真似は慎みたまえ、という自責の声が胸の内にかすかに響いた気がしたが、聞こえなかったことにして話を続けてみようと思う。

 

 この物語は、スニフの物語であり、彗星は、たまたま地球に直撃しなかったのではなく、ムーミンママによってぎりぎりのところで衝突が回避された、と読むことができはしないだろうか。こじつけここに極まれり、と思われるかもしれないけれども。

 

 さて、ではなぜ私は彗星=スニフと思ったのか。

 まずはこの小説の冒頭に注目してみたい。最初の文章で、ムーミンパパが川へ橋を作ったと描写されている。この橋は、読者をムーミン谷へといざなう通路とみなすこともできるだろう。

 つまりこの橋とは、「むかーしむかし、あるところに…」であり、「はじまりはじまりー」でもあるわけだ。

 それにしても私が感動するのは、この橋の置き方の素っ気のなさである。この橋の場面を、もっときらびやかに演出することもできたはずなのだ、「さあさあいらっしゃい、はらはらどきどきする楽しいお話が待ってますよーおいでー」みたいな感じに。でもトーベさんはそんなことはしない。それは読者に媚びることになると考えたのかもしれないし、そういう態度はムーミン谷っぽくないと考えたのかもしれない。余計な飾り立てはせずに、あくまでさらりと、簡潔に、言葉を配置していく感じ。このような「文章」が、ムーミン小説の最大の魅力のひとつであると思う。かっこいいし、何度、読み返しても飽きない。ページの居心地がいい。

 

 ともあれ、小説の冒頭、最初の文章で、読者とムーミン谷をつなぐ橋ができた。

 

 そして看過してはならないと思うのが、同じ文章の中で、スニフが「すばらしい発見(p.5)」をしていることである。それは「今まで知らなかった、あたらしい道(p.5)」だという。そこへ私たちをいざなうわけですね、アリスのウサギのように。

 

 このあとも、スニフはいろんなものを発見する、時として「くぐり抜ける」というイメージをともないながら。しかしこれらの「くぐり抜け」は、スニフ単独でなされたものではないとも言える。ムーミントロールと一緒であり、途中からはスナフキンも加わっている。

 しかし、スニフひとりだけが「くぐり抜け」たものが、ひとつだけある。望遠鏡である

 。スニフだけが望遠鏡の中を覗き(くぐり抜け)、彗星を目にしている。この作品内に彗星が姿を表した瞬間である。スニフが彗星を発見した。これを私は、スニフが望遠鏡を覗かなければ、彗星は存在しなかった、と読み替える暴挙に出るわけです。ね。

 ね。じゃねえよ、と思わないでもないですが、さらにここから飛躍させて、スニフが悔しい思いをしたり悲しみを覚えたりしたときに、それと連動して彗星が巨大化(接近)していくと考えてみる。小さなスニフの、大いなる悲しみとしての彗星。

 

 たわごとの極致みたいな発想だけれども、でも、私なりに筋は通っているんです。この作品を通してスニフはずっと、ほぼまともに相手にされていないし、ぼやいているし、悲しんでいるし、悔しい思いをしている。でも、読者は、というか私は、「スニフってそういうキャラだよね」と思い、きちんとスニフに向き合ってこなかった。それはムーミントロールが彗星をあまり怖がらなくなったことについて「ただ、彗星になれてしまっただけ(p.164)」と言うことと似ている。スニフがぞんざいに扱われていることについて、私は慣れてしまっていた。しかしスニフはずっと苦しかったのだ。彗星の巨大化がそのことを証明している。というわけです。ね。…詭弁にすらなってないかもしれないけれども。

 

 ムーミン谷に戻ってきてからのスニフは、さらに酷な扱いを受ける。子ネコのミルクは腐っているし、ケーキには「かわいいスニフへ」と書かれていないし(しかもそのケーキを運ばされている)、誰も話をまともに聞いてくれないし…。

 p.188の挿絵で、スニフがミルクをこぼしたようすが描かれている。これをどう見るかは、人それぞれだろうけど、私には、スニフが自分に注目してもらいたくてわざとこぼしたように見えた。しかし、誰も見向きもしない。悲しすぎる。

 

 最終的には、関係のない笑い声が、自分を馬鹿にして笑っていると勘違いしてしまうくらい、スニフは追い詰められる。そうして、シェルターとしてみんなで隠れていたどうくつを飛び出す。森の奥深くへ行き、「なにもかも、どうにでもなれ。(p.202)」と思う。そして、怖くてふるえだす。彗星が衝突するまで、あとほんの少し。

 

 そして、ムーミントロールがスニフを探しに行くわけですが、ここからの描写は圧巻ですよ。ほんとすごい。どうしてこんな簡潔な言葉づかいで、心を揺さぶることができるのだろう。私には聞こえなかったが、ムーミントロールには聞きとることができた、スニフの「たすけて」を。

 

 さて、ムーミントロールとスニフはどうくつに戻ってきた。しかし彗星はいままさに衝突しようとしている。あーこれもう駄目でしょー、と思ったその時。

 ママが大慌てでスニフにエメラルドをプレゼントするのである。

 前半で出てきたガーネット、そして彗星の「赤」ではなく、「緑」の宝石というところがね、大事ですよね。

 

「(前略)わあ、すごい。ぼく、なんてしあわせなんだ」

しかし、ちょうどその瞬間、あの彗星が地球めがけて落ちてきたのです。まっ赤に燃える火のかたまりが――。(p.207)

 

 そうして、この記事の冒頭で引用した文章へと続く。

 この場面を、スニフの孤独と悲しみに、ムーミン谷が呼応した瞬間だと読んでみたい。それは共鳴であり、優しさに裏打ちされた壮絶な抱擁である。

 

 さて、こうして読んでみると、ママがスニフにエメラルドをプレゼントしたから、地球は助かった、と読めますよね? ぎりぎりのところで彗星の孤独は癒されたというわけです。ね。

 このあとのエンディングもね、凄いですから。読んでみてくださいね。

 

 ところで、本作におけるスニフと彗星の図式(小さな存在がその小ささ故に悔しい思いをして、それに連動するように、最初は目に見えなかった異形の存在がしだいに巨大化していく)は、『ムーミン谷の十一月』におけるホムサとちびちび虫の関係でふたたび登場している、と言えなくもないと思う。スニフの場合は、ムーミントロールムーミンママが助けてくれたわけだけれど、ホムサの時は二人は不在だから、自分でなんとかするしかなかったのであって、ホムサ、がんばったね、えらいね…と思う私である。

 

 あと、『ムーミン谷の十一月』に関連付けて言うと、彗星が通り過ぎて、真っ暗などうくつにあかりがともった時、子ネコが毛づくろいしてるというのは、『十一月』のあの場面でミムラねえさんが語ったあのセリフとリンクしているように思えて、ということは…。ここから先は、いずれ改めて書く予定の『ムーミン谷の十一月』の感想文にて考えてみようと思います。(2023年7月25日22時45分追記:このことについて書くのを忘れていました…。私の微妙な記憶違いもあった。思わせぶりなことを書いてすいません。)