トーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』山室静訳、翻訳編集:畑中麻紀
「ねえ、スナフキン。ぼくがパパにもママにも話せないひみつを持ったのは、これが初めてなんだ」
それからスナフキンがぼうしを抱えて、ふたりは川ぞいを歩きだしました。(p.60)
前作(『ムーミン谷の彗星』)があれだけ面白かったのだから、今作もきっと面白いに違いない、でも、前作の面白さを超えることは難しいだろうな、だって『彗星』はあれだけ面白かったのだもの。そんな浅はかな予断を軽やかに蹴とばしてくれる傑作が『たのしいムーミン一家』である。
冒険あり、笑いあり、友情あり、バカンスあり、ターザンごっこあり、恋愛あり、笑いあり、涙あり、ニョロニョロあり、モランあり、笑いあり、悲しみあり、大パーティあり、笑いあり、笑いあり、笑いあり…。ムーミントロールたちが魔法の帽子を見つけることに端を発するこの物語は、とにかく内容が盛りだくさん。
しかし、盛りだくさんとは言っても、制限時間内食べ放題のお店において、ラストオーダー十五分前あたりからひたすら向き合うことになる「もっと食べたいけれど、もう食べられない」という切なさを覚えたりするようなことはない。最後までおいしく完食できる。そのことを私はとても不思議に思う。だって、これだけ密度の濃い作品なのに、「いやーもうお腹いっぱい」とならないのだから。なぜなのだろう。それはやはりトーベ・ヤンソンさんの語り=文章、に理由があるのではと私は思う。
飾り気のない、端的な言葉で綴られる文章だから、いくら読んでも胸やけを起こさないのだ、とは言えないだろうか。豪華絢爛な比喩満載で満漢全席のような文章は、それはそれでいいんだけれども、読んでいて疲れるし、砂糖でべったりとコーティングされた文章なんかも最初のうちはいいかも知れないけれどすぐに飽きるだろうし、病気になる、虫歯とか糖尿病とか。
それに比べてトーベさんの文章は、そもそも味付けがされていない気がする。語りの妙味だけで勝負している、と私には思える。それがとても格好いい。ムーミン小説にはある種の格好良さがある。前作同様、『たのしいムーミン一家』でもその文章は冴えわたっている。それどころか、もっと凄いことになっている、とすら言えるかもしれない。
どういうことかというと、描写に空白が生じているのである。つまり、何かが描かれてしかるべきところに、その文章が置かれていない。それも感動的な場面に限って。
描写の空白。それは引き算の描写というよりは、足し算だと私は思っている。手を抜いているのではなくて、より丁寧に手が加えられている。空白を足している。そして空白で描写している。何を? 言葉では表現できない何かを。
例えば、物語の序盤で、ムーミントロールとスナフキンが、夜中に家を抜け出した場面。ムーミントロールが、この記事の冒頭で引用したセリフを言う。けっこう情熱的な発言だと思うのだけれども、ここにスナフキンのリアクションは描かれていない。空白である。え、なんもないの? と思う。
ここは、映画でいったら、やや興奮気味でいい顔してるムーミントロールのアップでセリフがあって、その次は切り返しでスナフキンの表情でしょう? それで、セリフは無いまでも、スナフキンの表情から、なにかしら「いいもの」を読み取りたいじゃないですか観客としたら。
でもそこは描かずに、ムーミントロールの顔アップの次のカットでは、引きの画で、歩いている二人の後ろ姿になっているような感じ。
あれ? 見落とした? となるが、そうではなく、ここに、描かれてしかるべき何かと引き換えに空白が挿入されたのだ、と思ってみたい。
そして私はこの空白に、否応なしに想像を働かせてしまうのだ、それがとても楽しい。
この場面の後、二人が洞窟を訪れ、そこで夜明けを迎え、ムーミントロールがまたもや思わせぶりな発言をする。しかしここでもスナフキンの反応は描かれない。
空白。
二つの意味ありげな空白によって、この「夜の散歩」は私の中に強烈な余韻を残す。
このような空白がもたらす効果について考えるとき、私は、物語の終盤に登場するスピーカーとオルゴールのことを連想してしまう。
スピーカーって、中はわりと空洞で、なんかふわふわする綿とかが入っていたりするけれど(私のものだけかもしれないが)、これは良い音が鳴るように設計された空間と綿、なわけですよね。
で、『たのしいムーミン一家』をひとつのスピーカーになぞらえてみたとき、この描写の空白っていうのは、キャラクターたちの感情や表情や、美しい風景やとある現象が、「良い音」で読者に響くためにきわめて有効に働いている、と私は思う。いわば、音響エンジニアとしてのトーベ・ヤンソンである。(ちなみに本作の一番巨大な空白は、序章と1章の間にある「冬」だと思う。)
そしてオルゴールをムーミン谷になぞらえてみる。オルゴールの円筒(というらしい)がムーミン谷。そこに植えられているピンが、個性的なキャラクターたち。そして円筒が回転することでピンが櫛歯(コーム)を弾き奏でられる音色を物語、として見たとき。
するとムーミンパパが、オルゴールを庭へ持ち出して、大きなスピーカーにつなぎました。(p.212)
この作品の世界的な大ヒットについて考えたとき、オルゴールの音色は、大きなスピーカーによって、ムーミン谷どころか世界中の読者の胸に鳴り響いた、と言えなくもないだろう。ええ、だいぶ恣意的な解釈だという自覚は、持っています。
ところで音響エンジニアとしてのトーベさんの技術のショーケースとなっているのが『ムーミン谷の仲間たち』で、音響技術を極限にまでつきつめたものが『ムーミン谷の十一月』なのではないかと、今のところ私は思っている。
さて、思い込みをさらに強くすると、『たのしいムーミン一家』における描写の空白は、トフスランとビフスランによって奪われた跡だと読めなくもない。それらは二人の旅行かばんのなかに隠されたのである。
トフスランとビフスランは、悪気はないようだけれどもけっこう手癖が良くなくて、気に入ったものは勝手に持って行っちゃうようなところがある。
で、二人の持つ旅行かばんの中には「世界一美しいもの(p.181)」が入っているという。それは巨大なルビーのことなんだけれど、しかし、私が注目したいのは、ムーミン谷のみんながそのルビーを見たときに、「だれもが心の中にしまってある、いちばんくっきりと美しくすばらしい思い出が、このルビーの炎の中にうつっているような気がし(p.216)」ていることである。
ルビーの中に思い出が入っている。
私は、トフスランとビフスランが、「あーここ美しい場面だなー、持ってっちゃおう」なんて思いながら、二人してそそくさと「描写」を旅行かばんの中にしまう様子を思い浮かべたりしてみた。思い込みも度が過ぎる気がしないでもないけれども。
それはともかく、つまり、『たのしいムーミン一家』における空白とは、美しい思い出の跡地でもあり、そしてその思い出はルビーの中で永遠に燃え続けている。
そして、ムーミントロールが姿を変えても、ママは自分の息子だと見抜いたように、本物だろうが偽物(スノードーム、木の女王、スノークのおじょうさんが焼けた前髪の変わりに頭に付けた海ユリ)だろうが関係なくて、もっと目に見えないところ、言葉で表していないところ、でも確実に存在する本質的な何かが大事なんだよ、というメロディが、この『たのしいムーミン一家』から響いてくるということです。
あとやはり、「旧版」も良いのですが、「新版」で読まれることもお勧めします。例えばですね、この記事でも引用した、
「ねえ、スナフキン。ぼくがパパにもママにも話せないひみつを持ったのは、これが初めてなんだ」
というセリフ。これが旧版だと、
「ねえ、スナフキン。ぼくらがパパにもママにも話せないひみつをもったのは、これがはじめてだねえ」
となります。同じようで微妙に違いますよね。
「ぼく」と「ぼくら」の違い。
このたった一文字の「ら」があることで、「初めてなんだ」が「はじめてだねえ」となり、やがてバタフライエフェクトなみに作品全体に大きな影響を及ぼしている、と私は思います。結果、見えてくる景色や意味が全然違ってくる気がする。なので「新版」もお勧めです。