Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳、翻訳編集:畑中麻紀

 わたしはたのしくてたまらず、この時間がすぎていってしまわないかと心配する気持ちさえ起きませんでした。

「たのしんでる?」

 わたしは聞きました。

「たのしんでるさ」

 フレドリクソンは口の中でいって、とてもはずかしそうな顔をしました。(p.106)



 上記は、若かりしムーミンパパが、とある場所で、友人のフレドリクソンと会話を交わす場面である。

 あまりにも瑞々しいやりとり。

 言葉にした瞬間に損なわれてしまうような、ふたりのあいだに通う優しい何かと、ムーミンパパの見ていて心配になるほどの繊細さ、それらがさらりと表現されているとても素敵な文章だと私は思うのですが、みさなんは、どう思われましたか。

 

 前作『たのしいムーミン一家』の後半に、ムーミンパパが自伝を書いているという記述が登場する。書きながら泣きそうになっている、とも。つらい子供時代だったらしい。

 

 ムーミンパパは、ふつうの子どもとは少しちがっていて、ずばぬけた才能の持ち主だったのですが、だれからもわかってもらえませんでした。大きくなってからもやはり理解してもらえなくて、なにをするにつけても、ひどい目にあってばかりだったのです。

(『たのしいムーミン一家』p.150)

 

 『ムーミンパパの思い出』は、ムーミンパパによって書かれつつある自伝が中心となっている。

 書かれつつある、とはどういうことかというと、『ムーミンパパの思い出』では、自伝そのものだけではなくて、パパが自伝を書く過程も描かれているのだ。

 ムーミンパパは、自伝を書き進めては子供たち(ムーミントロール、スニフ、スナフキン)に朗読し、彼らの無邪気であるがゆえに時には無慈悲な反応に心が負けそうになりながらも、ムーミンママに励まされてついには自伝を完成させる。

 これらの様子が、自伝の幕間に挿入される。

 いわば自伝のメイキング映像のようであり、とても興味深い。ドキュメンタリー映画を観ているようでもある。

 

 それで、この幕間部分を読んでいて思うのは、自伝を書いている「現在」の状況が、自伝で描かれる「過去」に少なからず影響を与えているのではないか、ということだ。パパは子供たちの反応をわりと気にしながら書いているようにも見えるので。

 そして、その自伝の中の「過去」が、今度は「現在」に影響を与えている。つまり自伝を書くことでパパが変わりつつある。そのように読めないこともない気がする。

 『ムーミンパパの思い出』は、笑いと冒険の成長物語であると同時に、現在のムーミンパパが喪失感の中で立ち上がり、何かを取り戻す物語でもある、と私は思う。

 さて、それでは、ムーミンパパが失ったものとはなんだったのだろう。

 

 ムーミンパパが失ったもの。それは屋根かざりである。

 いやそんなの知ってる、この本を読んだ人ならみんな知ってるよ、パパが屋根かざりを失くしたのは。そういうのじゃなくて、失ったもの、それは青春、みたいなそういう感じのやつでしょ? 本書で言わんとしていることは。もう戻れないあの夏、みたいな、そういう情緒的な読み方が、あなたはできないんですか? 

 と、私の中の「世間」から、愛ある助言がお届けされた気もするが、気にせず話を続けますね。

 ムーミンパパが失った屋根かざり。それは、パパが昔、友人たちとの冒険で乗っていた船の屋根かざりである。ムーミンパパが自分で作ったそうだ。

 

 そのころ、わたしは初めて、大工仕事をしてみようと思いました。この特別な才能は、持って生まれたものにちがいありません。いわばこの手に才能が宿っていたのです。

 この天才的才能で、わたしが最初にこしらえた試作品は、たいへんつつましいものでした。(p.64-65)

 

 この「たいへんつつましいもの」が、「船の操舵室の屋根のかざり(p.65)」である。この屋根かざりが、大嵐に遭った際になくなってしまうのだ。パパはこのことを「いちばんざんねん(p.127)」としつつも、この大嵐のエピソードを次のように締めくくる。

 

 嵐なんて、なんでもありません。そのあとの日の出を、いちだんと美しく見せるのが、嵐の意味かもしれません。操舵室の金の屋根かざりなんか、あたらしくすればいいんです。わたしはコーヒーを飲みながら、にこにこしていました。(p.129)

 

 冒険は人を成長させるものだ、というありふれた人生訓を上記のくだりに当てはめてみると、「おお、ムーミンパパ、嵐を乗り越えてたくましくなったなあ」と読むことができるだろう。

 しかし、「屋根かざりなんか、あたらしくすればいい」と言っておきながら、パパはこれ以降、新しい屋根かざりを作っていないのである。

 パパが繊細すぎるほど繊細な感性を持っていることに思いを馳せるとき、この場面はむしろ、悲しみを必死に押し隠そうとしているように見えなくもない。「にこにこしていました」と最後に書き加えたのは、マスクを装着したようにも見える。ビハインド・ザ・マスク。マスクの裏側で、パパはどんな顔をしていたのだろう。

 コーヒーカップを持つ手は、震えていなかっただろうか。本書の序盤で、自伝の執筆と家族から逃げ出そうとして息子から呼び止められた時、足が震えていたように。

 

 それはさておき、屋根かざりの喪失は、ムーミンパパに深い悲しみをもたらしたのだ、と読めなくもない。これはそんなに無理のある読み方ではないですよね。そして、この屋根かざりは時を超えてパパの手元に戻ってくるわけだけれども、私が思うのは、この屋根かざりは本当に存在したのだろうか、ということである。

 これはさすがに無理のある読み方ですよね。

 でも、そもそも、この自伝はどこまでが本当なのかという問題があるわけです。

 

 とはいっても、この自叙伝では、少しは大げさにいったり、ごちゃまぜになったりするところもあるでしょう。でもそれは、ただ本当に、経験した土地の様子をはっきりえがくためや、その時の情熱をいいあらわすためなのです。ほかは、まるっきり真実です。(p12)

 

 誠実なムーミンパパは、自伝の最初の方でこのように断っている。他にも、登場人物のプライバシーに配慮して一部の人の名前を変えている、なんてことも書いている。誠実である。○○さんを□□さんに変えてますと書いちゃうくらい(それは言っちゃ駄目なやつでは?)、誠実なパパである。

「あちこちにいくらか誇張したところはあるがね……(p.61)」と述べる言葉に、嘘はないと思う。「少しは大げさ」で、「いくらか誇張」しているが、それは、伝えたいことを、より伝わりやすくするために脚色しているということで、つまり、見せかけは多少は違うかもしれないけれどもその中身、本質的なところは同じということですよね。

 煙が立っている以上は必ず火が存在しているよ、そこは嘘じゃないよ、ということで、そういう前提を確認した上で、あらためてこの自伝をとらえなおした時、では、屋根かざりは本当に存在したのか? と私は思う。

 

 私はこの屋根かざりは、「誇張」だったのではないかという気がしないでもない。

 パパが大工仕事が得意で、好きなのは本当だと思う。しかし、それにしたって、上で引用した初めての大工仕事のくだりは、あまりにもゴージャスに彩られすぎている気がする。

 大工仕事が楽しすぎて、その喜びを大げさに語ったのではないだろうか。

 この時、パパが何かを作ったのは、本当なのだろうと思う。嵐に遭い、それを失ってしまったのも本当なのだろう。しかし、それがはたして金の屋根かざりだったのかどうかはわからない、と私は思う。なぜか。屋根かざりはたしかにパパの手元に戻ってきたが、その時のパパの反応には、なにやら含むところがあるからである。

 

 自伝を執筆中のムーミンパパは、浜辺にて、子供たちといっしょに「たまねぎみたいなかっこう(p.133)」をした何かを見つける。そしてこのたまねぎが、昔、嵐で失った屋根かざりであることにパパは気づく。ここの文章も凄くかっこいい。最小限の、端的な言葉で、この感動的な場面が描かれている。

 そう、ここはとても感動的な場面なんです。失くしたはずの思い出の品との劇的な「再会」を果たすわけですから。この「再会」は、ラストで再び繰り返されたともいえる。

 それはさておき、屋根かざりを見つけて、ムーミンパパはなんと言ったか。

 

「さあ、あたらしい章に取りかかるぞ。この再発見については、ひとりで考えてみよう。(後略)」

 それからムーミンパパは、片方の腕に金のたまねぎかざりを、もう一方に思い出の記のノートを持って、みさきの先へ向かって歩いていきました。(p.134)

 

 再発見についてひとりで考える、って、何を考えることがあるのだろう? これ、私の勝手な妄想ですが、この時パパは、「え、うっそ!? この金の屋根かざりって、俺が空想でこしらえたやつじゃん! なんであるの?」と思ったのでは。

 そして、「ってことは、俺がこのノートに書いている自伝の空想部分は、あったことになるってことか」と考えたのではと思ってみたい。

 両手にそれぞれノートと金のたまねぎを持つパパの姿は、自伝と空想がイコールになった瞬間を表しているとも見える。

 浜辺で屋根かざりを見つけているというのも興味深い。

 

 しかし、読者のみなさん、それよりももっとわたしたちをひきつけるのは浜辺であるということを、わすれないでくださいね。(p.103)

 

 ムーミンという種族は、浜辺が大好きなのだという。

 

 わたしたちはたいてい、てきとうに変化があって、気まぐれで、思いがけなく奇抜なものが、いちばん好きなのです。つまり、少しだけ陸で、いくらか水のある海岸とか、ちょっと暗くて、ほんのり明るい夕方とか、なんとなく寒くて、うっすらあたたかい春とかがね。(p.104)

 

 境目のはっきりしていないもの、曖昧な「あいだ」、そういうものに惹かれるものらしい。この「あいだ」に、過去と現在、現実と空想の境目も含めてみる。

 そうすると、浜辺という「あいだ」の空間に、現実には存在しなかったはずの屋根かざりが出現したとしても、なんら不思議ではない。たぶん。

 そしてこの時、過去が確定した=屋根かざりは存在していたことになったのである。シュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーのたまねぎ。

 パパはこの発見にものすごく力を得ている。

 

「わたしだって、若いころは、ムーミントロールぐらいの元気はあったさ。今だって、まだおとろえちゃいないぞ」(p.134)

 

 楽しそうにこんなことを呟いている。ちなみに、空想の具現化というモチーフは、『ムーミン谷の十一月』でのホムサとちびちび虫にもあてはまりますね。

 

 それはともかく、多少、誇張した過去によって、現在の自分が元気づけられる。水を得た魚状態になったパパの筆はここからさらに奮いまくる。おそらくは驚異的な空想力による多少の誇張を加えつつ書き進められた自伝は、最後、可憐な出会いで幕を閉じ、そして、本書自体も、自伝を書き終えたパパのエピローグで終わりを迎える。

 このエピローグ、本当に本当に素晴らしい。泣きましたよ。あの三回のノックの後の展開で。

 

 そう、三回のノック。この音が鳴る直前、トーベ・ヤンソンさんはこんなことを書いている。

 

 ちょうどそのとき、本当にふしぎなことに、この物語にはぜったい必要な瞬間なのですが、だれかがドアをノックしました。短く、強く、三回のノック。(p.256)

 

 三回のノック。こんなこと書かれたら、気になっちゃいますよね。

 

 わたしは買いものぶくろから取り出されると、決まりごとのように、三回くしゃみをしました。なにがしかの意味があるのかもしれません……。(p.16)

 

 くしゃみを三回。三回に、何かしらの意味があるかもだって? どんな意味だろう?

 

「三回であててごらん」

 ヨクサルが、にたにたしながらいいました。(p.220)

 

「そうじゃ、そうじゃ、そうじゃよ。(後略)」

 王さまは、いらいらして答えました。(p.227)

 

 この、同じ言葉を三回くりかえすってのも、意味があるのだろうか。

 

「しいっ、しいっ、しぃっ。ところで、もうそろそろ、わたしがあらわれるんじゃない?」

 こういってムーミンママは、顔を赤らめました。(p.242)

 

 おばけはきまって三回うめくし、ね。やっぱり、なにがしかの意味があるんでしょうよ…。

 ママの赤い顔と言えば、自伝パートはママとの出会いで幕を閉じるわけですが、この時、ママの顔が赤くなる。

 

 するとその子は、いいようもない目つきでわたしを見上げて、まっ赤になったではありませんか。(p.251)

 

 この赤が、海のオーケストラ号の赤と、王さまのところで乗ったまっ赤なボートと同じ意味を持っていることは言うまでもない。パパの冒険=刺激を与えてくれる存在が、ママになったというわけだ。素晴らしい出会い。

 

 最後に、本書に頻出する「回転するもの」について、飛躍しまくりで考えてみたい。

 ふたつの歯車が組み合わさって海のオーケストラ号は前進するわけだけど、この二つの歯車は、そのまま、ムーミンパパとフレドリクソンを象徴しているとみていいですよね。ね。

 そして水車とメリーゴーラウンド。これもある種の歯車と見たときに、この二つもまた、何かを前進させているとみることができますよね。たぶんね。それを、かっこつけて、運命、ということにして。

 運命の歯車。

 なんだかありふれた表現になってしまったけれども。

 さあ、この運命の歯車、止まってしまいます。

 

 滝の水は止まり、あかりは消えて、メリーゴーラウンドは大きな茶色の布をかぶせられて眠っていました。(p.180)

 

 前進をやめた運命はどうなるのかというと、フレドリクソンとの間に妙な距離ができて、パパは自分の憂鬱と向き合うことになり、おばけを生み出す。

 そしてそのおばけとも上手いこと付き合っていけるようになった時、フレドリクソンたちとの最後の大冒険がはじまる。

 

 でも、水車もメリーゴーラウンドもたぶん止まったまま、というかもう登場しない。停滞した日々。うわーもううんざりだー、となったところでママと出会う。

 

 パパの手元には、王さまからその空想力を褒められてプレゼントされた「手回しオルガン用のきれいなかざりがついたハンドル(p.159)」があるはずである。

 そのハンドルこそ、パパが自分の力で運命の歯車を回転させるために必要なアイテムではなかったのだろうか? このハンドル、どこにいったの?

 スニフからハンドルはどこと尋ねられたとき、どうしてパパは、言葉を濁したのか? 「ひみつのプレゼント(p.167)」とはやっぱりハンドルのことなのだろうか? では、だとしたら、なぜ「ひみつ」なのか?

 

 パパはこの作品内のどこかで「ひみつのハンドル」を使用したのではないか。そして、作品内に散りばめられた歯車たちが動き出し、夜の緞帳が開かれて、あらゆる意味での「夜明け前」を作品の最後にもたらすことになったのではないだろうか。

 

 自伝内で何度も強調されていた夜明けと、何度も華麗に書き直されていったムーミンパパの悲しい出自。

 それらを書きながらパパは、おそらく自分自身を癒しており、そして、自伝を完成させた時、「本当にふしぎなこと」が起こり、夜明け前の冒険が始まる。

 かっこいい。トーベ・ヤンソン、かっこいい。こんなに胸に迫るエンディング、ないですよ。と思うのだけれど、まだこの後に『ムーミン谷の夏まつり』が控えているというね…。おそろしい。トーベ・ヤンソン、おそろしい。