Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』下村隆一訳、翻訳編集:畑中麻紀

 ミーサは赤いベルベットのドレスを着て、舞台の上をしずしずと進みました。しばらくの間、両手を目の上にあててじっと立ったまま、プリマドンナになるとどんな気持ちがするものか、味わいました。それは、すばらしいものでした。(p.165-166)



 彼女の名前はミーサ。いつも悲しんでいる。悲しみを悲しむために生きている、そんな自分がとても悲しい。そしてそんな自分のことを誰も分かってくれない。そのことがなおさら悲しい。このように、悲しみのどん底で悪循環にはまっている人、私にはそう見える。

 そんなミーサの暮らすムーミン谷が、大洪水で水没してしまった。もちろん彼女は悲しみまくる。

 

「だれかが、わたしのことを考えて、わたしのためになにかしてくれたっていいでしょ? それなのに、この洪水ときたら!(p.41)

 

 さて、そんな嘆きのミーサのそばに、「まじめくさった小さな生きもの(p.39)」がやってくる。ホムサである。小さいのに、けっこう聡明で、妙に理屈っぽい、そしてとっても優しい、ミーサに対して。でもミーサはこの優しさにまったく気づいていないんですからね。

 

「ホムサは、わかっちゃいないの! なにもかもが、わたしにつらくあたるのよ、なにもかもが!(後略)」(p.40)

 

 ここでミーサは「わたしにつらくあたる」具体例を並べる。しかしそれは、「ちょっと考えすぎではないですかね」と言いたくなるような、ともすれば「思い込み」と捉えられかねない、危うい「被害」である。

 

 ホムサは、ミーサの悲しみの具体例のひとつについて、「それは誰かがあなたのことを馬鹿にしたのではなくて、これこれこういう状況で自然と起きたできごとなのでは?」との見解を述べる。きっと、ホムサの言う通りでしょうよ。けれどもミーサは、そんなホムサにもきつくあたってしまう。

 

「ぼくは、説明しただけですから」

「これは、気持ちの問題よ。説明できるようなものじゃないわ!」

「そうでしょうね」

 ホムサは、しょげかえりました。(p.41)

 

 悪循環。しかし、この出口のない地獄のような葛藤から彼女を救うのは、やはりホムサなのである。ホムサ、そして舞台。

 

 その晩おそく、ミーサは水ぎわをひとり、ぶらぶら歩きました。月がのぼり、夜空をさみしく散歩しています。

(お月さまって、わたしみたいね)

 ミーサは胸をしめつけられる思いで、考えにふけりました。

(ほんとにひとりぼっちで、こんなにまるくて……)

 すると自分がいよいよみじめで、かわいそうに思われ、ミーサは、ほろりと涙をこぼさずにはいられませんでした。(p.67)

 

 ここでミーサは月と自分を重ね合わせている。ところでこの、月が「夜空をさみしく散歩する」というイメージって、とても素敵だと思いませんか。

 それはさておき、「ほんとにひとりぼっち」自分を嘆くミーサですが、しかし、彼女は本当はひとりぼっちではなかった。心配そうに彼女を見守る存在がいたのだ。もちろんホムサである。ミーサが涙をこぼした直後、次の文章が続く。

 

「どうして、泣いてるの?」

 と、ホムサがそばによってきて、たずねました。

「わからないわ。とっても、きれいだからよ」

 ホムサは、なっとくしません。

「だって、人はかなしいときに泣くものだろ」

「ええ――お月さまが……」

 ミーサは弱々しくいって、はなをすすりました。

「お月さまと、夜と、なんともいえないかなしさが……」

「うん、うん」

 と、ホムサはいいました。(p.67-68)

 

 素晴らしい場面である。ムーミン小説全作の中でも、屈指の名場面の数々で溢れている傑作が『ムーミン谷の夏まつり』であるわけだけれど、そんな本作のなかでも白眉のひとつとなるのがこの場面だと私は思っている。

 普段は理屈っぽく語りがちなホムサが、ここではミーサの懸命な吐露にたいして「うん、うん」と頷くだけっていうのがいいじゃないですか。優しいよ。

 丸い月の下、水際に佇む二人。

 自分のことを分かってもらいたくて、泣きながら、たどたどしくも必死に言葉を紡ごうとするミーサ。彼女を静かに肯定するホムサ。

 素敵すぎるとは思いませんか。最高! と私は声を張り上げたい。そして、この劇的な場面を、こんなにも端的な言葉で描いてみせる、トーベ・ヤンソンの魔法のような文章…。

 

 ホムサの優しさに、ミーサは気がついたかな。この場面でミーサはこれまでの「誰も分かってくれない」という悲しみから脱却しようともがいているように見える。それはまるで「誰か(ホムサ)に分かってほしい」と手を差し伸べているようだ。ホムサは静かにその手を掴む。ほんと、かっこいいですよね。

 

 とつぜんミーサは置きざりにされたという気持ちにかられ、やぶれかぶれにジャンプして、木の枝にしがみついたのです。ホムサはなにもいわないで、ミーサを助けてあげました。(p.43)

 

 思えば最初の頃にこんな場面もあった。ホムサ、ほんといい人だな。さて、そんなミーサは、物語が進むにつれていつしか、月に仮託していた「ひとりぼっちのかなしみ」に別れを告げている。小説の終盤、「リハーサル」における興味深い記述がそのことを物語っていると私は思う。

 

「ホムサが、お月さんをつり上げんことにゃ、わしゃ、ほえられんわい」

 と、エンマが答えました。

 ホムサは、背景の中から頭をつき出して、こういいました。

「ミーサが、お月さまを作る約束をしていたのに、作らなかったんです」(p.165)

 

 作るのを忘れた、わけではなくて、作らなかった。これは、「お月さまはいらない」というミーサの意思の表れである、と読めなくもないと思う。つまり、「悲しみにさみしく沈むひとりぼっちの私は必要ない」ということである、たぶん。この時、悲しみの悪循環は断ち切られた。そして彼女は舞台の上に進み出る。悲しみの天才・ミーサは、悲しみを演じることでそれは素晴らしい喜びを生み出すことを知る。悲しみを知り尽くした彼女の演技は観客を夢中にさせる。その彼女をひときわ輝かせているのは、月明りではなく、小さな舞台監督・ホムサの操作する照明なのである。

 もしかして、ミムラねえさんの時にホムサがいつも照明を間違えていたのは、わざとだったのかもしれない、ふふふ。

 

 鏡について。この物語で、最初に鏡を発見するのはミーサである。ミーサの他に鏡を見ているのはフィリフヨンカだけ。ミーサは髪の毛を身に着けて、別人のような自分の姿を発見し、一方、フィリフヨンカは、自分自身の逃れられない悲しみを再確認しているように思える。

 

 フィリフヨンカであるということは、人が思うほど、楽なことじゃないんですよね。(p.122)

 

 自分が自分であることから逃れられない辛さ。ミーサには「演技」によって「そのたびにちがう自分になる(p.210)」ことができた。それは彼女に大いなる喜びを与えたわけだが、では、フィリフヨンカの場合は、どうしたら救われるのだろうか。

 ムーミントロールスノークのおじょうさん。この二人との偶然の出会いが、フィリフヨンカを変えた。二人が彼女を解放した、とも言える。

 解き放たれて、タガが外れて別人のようにはっちゃけまくるフィリフヨンカはとてつもなくキュートである。p.131の、フィリフヨンカの横顔が描かれた挿絵は額に入れて飾りたいくらいだし、p.134の、警察に捕まってしょっぴかれるフィリフヨンカの情けなさすぎる顔も素晴らしい。

 

 で、鏡を見るのはこの二人だけで他はみんな、水面を見ている。みんな、やたらと水面を見るわけです。最初から最後までね。ムーミン谷が水没する話なのだから、そりゃあ、水面を見る機会も増えるでしょうよ。とは思うんだけれども、でも、見すぎ。ここには何かある、と思うのは、私だけでしょうか。

 水面を見たときに、表面に映った自分の顔を見る人と、その奥底にあるものを見る人がいるわけです。そして面白いのは、自分の顔を見た人は、その直後に、大変な目に遭っている。偶然でしょうか。偶然かもしれない。でも、何かありそうな気がしないでもない。

 ムーミンママが水面を覗いて、あたり前のように水の奥にきらめく「なにか光ってるもの」を見つける時、私は、『たのしいムーミン一家』で、魔法の帽子によって姿を変えてしまったムーミントロールを、迷うことなく我が子だと断言したママの姿を思い浮かべる。表面ではないところをママは見ている。

 そうそう、『たのしいムーミン一家』の終盤でムーミントロールはママに対して「ぼく、そんなに表情に出ていたかな」みたいなことを言うけれど、ムーミンママは、そういう表層的なところじゃなくてもっと奥深いところで、ムーミントロールのことを見ていますよね。だからきっと、スナフキンとの「ひみつ」も、ママは知っていたと思う。

 

 『ムーミン谷の夏まつり』に話を戻します。

 

 表面と、奥底。演技と、その奥にあるもの。本作ではみんな何かを演じている。ムーミントロールスノークのおじょうさんは、「わたし、あなたにさらわれたってことにしておくわ(p.95)」だし、スナフキンは「親」という役割を演じている、フィリフヨンカも…牢屋の中で、大げさに演じているとも言える。

 ふたつを分かつ水面。なにか無理やりにでもここに意味を見出してまとめようとしたのですが、うまくいきません。

 そんな水面という境界を打ち消すかのように、みんながじゃぶじゃぶと駆け出すクライマックスの圧倒的な美しさ! 挿絵も素敵。しかしここで物語は終わりではなく、ひと波乱を経て、静かな静かなエンディングを迎える。もうね、凄いですよ。最高ですよ。ぜひ、読んでみてくださいね。

 

 一つだけ水たまりがまだ残っていて、空の色をうつしていましたが、これはちびのミイの手ごろなプールになることでしょう。(p.215)

 

 これはトーベ・ヤンソン流の、さりげない青空の描き方なのではないかと私は思っている。表面に映る青空。青空のハッピーエンドなのです。