トゥーティッキは、肩をすくめました。
「どんなことでも、自分で見つけださなきゃいけないものよ。そうして自分ひとりで、それを乗りこえるんだわ」
お日さまは、いよいよ燃えるように輝きはじめました。(p.170)
ムーミンたちは冬眠をする。十一月から四月まで。そういう種族なのである。したがって、彼らにとって冬とは、空白の季節だった。これまでは。
新年を迎えて間もない、ある晩のこと。冬眠中のムーミントロールの顔に、 月明かりが静かに差し込む。その時、彼の目が開いた。彼は冬眠から目覚めてしまったのである。先祖代々、誰も経験したことがないという目覚めを経験したムーミントロール。家族の皆は平常通り冬眠している。起こそうとしても、起きない。とてつもなく深い眠りである。そりゃ、冬眠ですからね。
「ママ、起きてよ!」
ムーミントロールはさけぶと、走りもどって、ママのふとんを引っぱりました。
「世界中が、どこかへ行っちゃったよ」
しかし、ムーミンママは目を覚ましません。(p.12)
こうしてムーミントロールは、ムーミン一族史上で誰も経験したことのない冬を、ひとりで生きていくことになる。心細かったでしょうよ。南へ旅立ったスナフキンからの手紙を、何度も読み返す。「あたたかい春になったら、その最初の日に、ぼくはまたやってくるよ。(p.13)」手紙にはそう書いてある。声に出しても読む。元気が出てくる。春になったらまた会える! しかしムーミントロールは春まで待てない。彼は家を出ようと思う。南へ行くのだ。スナフキンに、会うため。
玄関のドアや窓は凍り付いていて開かない。これでは外に出られない。スナフキンに会えない。屋根裏の天窓をようやくこじ開けて、ムーミントロールは家の外へ。
彼が初めて目にする冬の世界が、そこには広がっている。
つめたい空気の波につつみこまれました。
ムーミントロールは思わず息がつまり、足をすべらせて、屋根の上を転がりだしました。
もうだめです。おそろしい、見たこともないふしぎな世界に投げだされ、耳まで雪の中にうずまったのです。(p.16)
慣れ親しんだムーミン谷は、そこにはない。すべてが雪に覆われている。物音ひとつしない、明るい闇。冬を知らないムーミントロールは恐怖を覚えるが、同時に、「なんだか面白く感じて(p.16-17)」もいる。
そして冬の世界に降り立った時から、ムーミントロールの体に変化が生じていた。
ベルベットの肌が、だんだんけばだってきました。(p.17)
本人は気づいていないそうだけれど。
やがては暖かいコートのようになるらしいこの「けばだち」だが、犬などに見られる換毛とは趣が異なる。生え替わり、ではないですからね。替わるのではなく、変わる。知らないうちに、少しづつ。第二次性徴の発現。思春期の、ひそやかな、幕開け。
大人になるとは、いったい、どういうことなのだろうか。
『ムーミン谷の冬』の冒頭に、とある小道具が登場する。
「火をつけるときに使う虫めがねとカメラのフィルム(p.9)」。
ウェブで調べたところ、昔のフィルムは燃えやすかったらしい。この家では着火剤のような使い方をしていたのだろう。
カメラのフィルムは、終盤で再び登場する。
ムーミントロールが「すべてをわすれて、ぐっすりと眠りについた(p.184)」とき。それを見届けたムーミンママは、ベランダでフィルムを燃やす。そしてフィルムが燃え尽きるまでの束の間に、トゥーティッキとちびのミイの二人と、穏やかに会話を交わすのだ。挿絵では、月明りの象徴のようだったトゥーティッキが、太陽を背負っている。美しくて、静謐な空間。Bill Evansの「Peace Piece」のような。
この時のママは、何かに火をつけるためにフィルムを燃やしているわけではない。ただ、フィルムを燃やすために、燃やしている。この場面でママは同じセリフを繰り返す。最初と最後で。
「春になったら、もっと早く起きるようにしないとね」
と、ママがつぶやきました。(p.184-185)
ママは、もう一回いいました。
「来年の春は、わたしがだれよりも早く起きるようにしないとね。(後略)」(p.185-186)
二回目のセリフは、フィルムが燃え尽きた後に発される。
同じセリフが二度、繰り返されるとき、そのあいだにある描写には、何かが潜んでいる。これは私が『ムーミン谷の十一月』を読んでいる時にでっち上げた仮説である。
きっとここにも、なにかあるんでしょうよ。
私はママがここで「ネガの世界=冬」を消そうとしたのだと思っている。ムーミントロールが寝ている間にね。ネガフィルムのような挿絵も多かった。では何故、ママはそうしたのかと考えるのも、楽しいですよね。
ともあれ、ママはこの場面では、ムーミントロールにつらい思いをさせてしまったことをとても悔やんでいる。これが、トーベ・ヤンソンの凄いところだと私は思う。
たとえば、こういう場面で、そこらじゅうに溢れてるありがちな展開としては、ママが「私の知らないところで、あの子(しかもきまって男子)も成長していたのねーふふふ」みたいなことを言って、子供も子供で「うむ。僕はパパのような立派な男(休日はいつもパチンコ屋)になるのだぞ」とうんざりするようなことを言って、そうして輝く朝日に向かってかけてゆく息子のたのもしい後ろ姿を、ママは家の中で優しく見守るのであった。完。
といったような、こういう「勘弁してくれ」な物語が氾濫している場面において、しかし、トーベ・ヤンソンが描くのは、我が子の成長ではなく、母の悲しみなのである。ちょっと凄すぎますよね。
北半球の国々に多く伝わるという鎮魂祭めいた儀式を境に、この小説の雰囲気は大きく変わる。
太陽が戻ってくる儀式に思われたそれによって、ムーミン谷にやって来たのは、大音量でホルンを吹きならしながらスキーをすべる超・体育会系のヘレンさん…。この挿絵もすごい。「おいおい、とんでもないやつがやってきちまったぞ!」感がすごい。額に入れて飾りたい。
でもこのヘムレンさんがね。
前半の、時が止まったかのような死の世界に対して、このヘムレンさんは、あんまり認めたくないけれどやっぱりどこか太陽みたいなところがある。暗闇の世界の秩序みたいなものを、空気を読まずにホルンでつんざき、引っかきまわしまくる。
そんなヘムレンさんが、ああ、あんなにも胸を締め付けられるドラマを演じることになるなんて、誰が想像できたでしょうか! ヘムレンさん!
最後。ムーミントロールは、一人で静かに、この冬の出来事を回想しようとする。
夢の中で生きているような子供時代を終えたとき、人は、回想という行為を手に入れるのかもしれない。