Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

渡辺浩弐『2030年のゲーム・キッズ』

 私はいろいろなことを忘れていく。

 けれども、問題はない。

 思い出すことはできるのだから。

 そんなふうに、私は機械に変換されていった。(p.197-198)



 現在、不惑の私が、高校生だった頃、つまり前回のミレニアム前後のことだが、「当時の大人たち」は盛んに、「ゲームばかりしていると、現実とゲームの区別がつかなくなる」と警鐘を鳴らしていた。たまごっちが大ブームを巻き起こしたこともあり、ゲーム感覚で命をリセットする人間が育ってしまう、なんてことも言われていた。

 そんなこと、あるわけないではありませんか、きっと冗談で言っているのでしょう、と穏やかに聞き流していた私だが、しかし、現在、いい歳になっている「当時の大人たち」がSNSで醜態をさらしたり、陰謀論に染まりまくっているのを目にすると、現実と虚構の区別がつかなくなるのは、あなたたちだったのですね、と、なんとも物悲しい気持ちになる。きっと「当時の大人たち」は、怯えていたのだろう。

 

 では、翻って、現在、大人になっている私はどうだろうか。AIとかそういう最新のものに対して、怯えているかというと、怯えていない。これはべつに虚勢を張っているわけではない。より正確に言えば、怯えようがない。なぜなら「AIとかそういう最新のもの」ぐらいの表現しか思いつかないくらい、物を知らないからである。

 けれども、昔、子どもだった頃の感覚として、やたらと真顔で警鐘を鳴らしまくる人たちの言葉は正直、胡散臭いし、そういう大人にはなりたくないなあと現在、思う。

 

『2030年のゲーム・キッズ』に収録されている短編は、すでに実用化されている最新技術が登場する。未来の技術ではなくて、現在の技術で起こりえる話なのだ(表題作「2030年のゲーム・キッズ」はおそらく近未来の話)。サイエンス・フィクションではなくて、シミュレーション・フィクション。

 

 簡潔に情報を伝えるように研ぎ澄まされている乾いた文章に、冷酷さではなくむしろ暖かさや優しさを感じるのは私だけではないはずだ。この感覚は、こないだのミレニアム前後、ゲーム・キッズまっただ中で渡辺浩弐さんの小説をひたすら繰り返し読みまくっていた頃と変わらない。渡辺浩弐さんの作品は、「当時の大人たち」と違って、警鐘を鳴らしていなかった。かといって、「こーんな薔薇色の未来が待ってるよ~!」なんて囃し立てたりもしなかった。どこか、静けさを湛えていた。それは良心的ということだと思う。そこに私は暖かみを感じる、とにかくバッドエンドの作品が多かったけれど。そして渡辺浩弐さんが描いていたものは、技術ではなく、技術によって見えてくる、何かだったと思う。

『2030年のゲーム・キッズ』でも、それは変わらない。描かれているのは、最新技術ではなくて、その技術が駆使されることで、垣間見える、あるいは突き付けられてくる、何か、だと思う。その何かが何なのかっていうのは、読む人によって色々と違ってくるのだろうけれど、私は、「自分」や「記憶」とは一体何なのか、それらはどこに属して、どこまでを「自分」の「記憶」と呼べるのかなあ、と考えた。そして、その問題提起というは『ブラック・アウト』の頃から一貫していると思った。

 なぜなら最後に収められている「2030年のゲーム・キッズ」は、そのエンディングにおいて『ブラック・アウト』と見事に共鳴しているからだ。白と黒で。いま手元に『ブラック・アウト』が無いので、私の記憶が確かならば、だけれども。