Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

横道誠『発達障害の子の勉強・学校・心のケア』

 新型コロナウイルスが蔓延するよりも数年前の年明け、高校時代の友人らとコーヒー店で話をしている時に、生きづらさ、の話題になった。

 我々も、今はこうやっていい歳したおじさんとしてなんとかぶざまに存在しているけれども、なんか色々と、本当に色々と、困難だったよねー特に思春期。みたいな会話をしていたと思う。

 そんな流れで、私が、「でもさ、そうでもない人はそうでもないらしいんだよ。というか大多数の人が、そうでもないらしいんだよ、どうも」と言うと、友人の一人が驚いて叫んだ。

「死にたいって思わないで大人になった人なんているの!?」

 彼の常識外れにでかい声で、新年で賑わうほぼ満席のコメダ珈琲店が、一瞬だけ静まり返った。

 

 どういう時に生きづらさを感じるかと言えば、それは、ままならないときである。

「儘ならぬ=思い通りにならない」という意味らしい。そんなのばっかりだったら、そりゃあ多感な時期だもの、死にたくもなる。

 では多くの人はままなってるのかというと、ままなっているらしい。高校の頃のクラスメイトの顔を思い出してみても、ああたしかにみんな、ままなってるような顔、してる。そうやってままなる十代を送り、ままなる大人になり、ままなる老後を迎え、ままなる最後を迎える。ままなる人生、いいよなあ、と私は思う。

 それは自由な人生ということだ。

 いやいや自由じゃないですよ、苦労の連続ですよ、頭抱える日々ですよ、胃が痛いですよ、あんたみたいなぼーっとした馬鹿と違ってこっちは色々大変なんですよ、と、ままなる人たちは言うかも知れないが、ままならない私はその人たちに、甘えるな、と言って差し上げたい。

 私だって好きでぼーっとしているわけではないのだ。ぼーっとしているよりほかに術がないからぼーっとしているのである。でもこれからの私はちょっと違ってくるでしょうね。なぜならこの本を読んだから。今に見てらっしゃい!

 

 ままならなさのまっただ中で犬死にせずに、生きやすさ=自由を勝ち取るための、優しくて熱い兵法の書が、『発達障害の子の勉強・学校・心のケア』である、と私は思う。兵法書? ああ、ハウツー本ね、と早とちりしてはいけない。

 

(前略)ひとくちに「発達障害」と言っても、その実態はほんとうにバラバラで、当事者の子どもごとに別々の困りごとがあって、だから解決方法としても別々の正解があるからです。そうした本を読みながら、「こうすれば良いよ」というアドバイスに、「私の場合はちがう。これは私が子どもの頃に意味をなさなかった解決方法だ」と思うことは非常に多かったのです。(p.3-4「はじめに」より)

 

 本書は、「こういう時はこうしましょう」というハウツー本ではない。そもそも、ままならなさとは、そういう紋切り型にあてはまるようなものではない。エイドス的ではないのだ。それよりもむしろ求められるのは、「じぶんの苦労の仕組みを仲間と協力して研究し、生きづらさを減らしていく取り組み(p.4)」なのだ。そのようなエートス的な取り組みを「当事者研究」と呼ぶ。親がその共同研究者になってみませんか、と本書は呼びかける。

 ところで使い慣れていないカタカナの言葉をふたつ、知ったかぶりでつい使ってしまったけれど、そんな浅ましいふるまいに及んだのは私が興奮しているから。

 本書を読み始める直前に、私は國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』という本を読み終えていて、とても感動していたところだった。

 

 ここにも『エチカ』のエートス的な発想が生きていると言えるでしょう。どのような性質の力をもった人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』p.61)

 

 私は、ふたつの本は、同じことを書いている、と思った。感動したし、興奮した。繋がっている、と思った。『発達障害の子の勉強・学校・心のケア』は、われらとわれらの子孫のための「自由へのエチカ(倫理学)」なのだと思った。

 

 私はこの本を読み始めて序盤からずっとうるうるしていて、リフレーミングのくだりでとうとう泣いた。そのあとの「困った子」は「困っている子」にも……。頼もしくて優しい語り口で書かれたこの本(なんだかムーミンパパの手記を読んでいるような)は、読みやすくて分かりやすい。読むと元気が出てくるんです。勇気も。つまり、実践あるのみです。