Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山晃、増田義郎訳

 無数の星がきらめく黒い空。そして月のそばには、いちばん大きな星。(p.95)

 

 

 アブンディオという名のロバ追いの男が登場する。生者も死者も分け隔てなくしゃべりまくるこの小説内において、耳の遠い彼には特別な役割が与えられている。哀れな狂言回し。彼に与えられた役割はそれである、と私は考える。

 アブンディオがこの小説内で最後に残したものは、二本の線である。

 

 「酔っぱらっちまったよ」

 男たちのところに戻った。彼らの肩にもたれかかると、そのまま引きずられて行った。地面には足先が刻んだ二本の筋だけが残った。(p.204)

 

 地面に刻まれた二本の筋、これを、二つの道と考えてみる。アブンディオは道を用意した。二つの道、つまり、二人分の道を。二人とは無論、おれ(フアン・プレシアド)とペドロ・パラモのことである。

 フアンは、小説の始まりから終わりに向かってこの道を歩み、ペドロは、終わりから始まりに向かってこの道を歩む。一見すると、時間の蝶番がぶち壊れてしまっているように思えてしまうこの小説を、私はそのように読んだのだ。



「行くか来るかで、上りになったり下りになったりするんだよ。行く人には上り坂、来る人には下り坂」(p.8)

 

 冒頭で出くわすこの意味ありげな文章は、この小説自体がそういう作りになっていると丁寧に暗示しているようにも思える。実際、物語はそのように展開しているのではないだろうか。若いフアンは死に向かって歩み、年老いたペドロは、子供の頃の思い出に向かって歩む。興味深いのは、二人とも、その歩みを始める前に、スタートの宣言(らしきもの)を行っていることである。

 

 「疲れたんだ」おれは言った。

 「寝る前に何か食べにおいで。ありあわせだけど、何かあるからね」

 「行くよ、あとで行くよ」(p.21)

 

 「あたしですよ、旦那さん」とダミアナが言った。「昼ごはんを持ってきましょうか?」

 ペドロ・パラモは答えた。

 「あっちへ行くさ。いま行くよ」(p.206-207)

 

 かくして二人の旅が始まる。それもなぜか二人とも、ふにゃふにゃの状態で。哀れな狂言回し・アブンディオの役割(二人を旅へいざなうこと)も、ひとまず無事に終わったというわけだ。

 

 「やれやれ、やっとか」

 「なんて言ったんだ?」

 「もうおっつけ着くところだ、って言ったんだよ、旦那」(p.13)

 

 「やれやれ…」とはアブンディオのセリフである。脈絡を無視して飛び出してくるこのセリフは、ツアーガイドとしてのアブンディオの心の声が漏れ出てしまったのだろう。フアンにそのセリフの意味を聞かれて、慌てて取り繕っているように思えなくもない。

 

 ところでフアンの旅の目的は、父親のペドロ・パラモに会うことだった。死んだ母ととある約束をしていたのだ。しかしフアンにはその約束を果たす気はなかったらしい。

 

 だが、その約束をはたす気はなかった。ほんのついこの頃、夢に胸をふくらませたり、勝手に想像にふけるようになって、急に気が変わったのだ。(p.7-8)

 

 ということらしい。母との約束とは別に、フアンには、ペドロに会う理由があったそうなのである。それは、いったいなんだったのか。きっと殺意を抱いていたんじゃないかなと私は思った。フアンの物語は母の死から始まる。対になるのは父の死でしょうよ。フアンは途中で土の下に入ってしまうわけだが、別の息子によってその仕事は果たされる。

 フアンは母の写真を持ち歩いていたわけだが、その写真は、心臓の部分に大きな穴が開いていた。おそらく、あのナイフは、ペドロの同じ個所に穴を開けたはずである。

 

 ペドロの旅の目的は、思い出の中のスサナに会いに行くことだろうと思う。死んでしまったスサナに対して「戻ってくれ!」と叫んでいたペドロが、「いま行くよ」と宣言したのである。ペドロの歩みは、小説の終わりから始まりへと向かう。

 小説内で最初に登場するペドロのパートでは、子供の頃のペドロの描写に、現在(というかすべて終わった後の)のペドロのモノローグが挿入される。その唐突っぷりに、初めて読んだ時は戸惑うわけだが、二週目以降は慣れる、というか、うわあーってなる。つまり、ペドロはペドロでここに辿り着いたんだ、って思うので。思い出の中のうるんだ唇にね。

 

 うるおいと言えば、水や雨はとにかく意味ありげに描かれている。あとたぶん風も。ぶち壊れてしまった時間の蝶番の代わりに、時空のつなぎ目として雨(or水滴or水的なもの)が使われている気がする。アニメ『スポンジ・ボブ』では、シーンが変わる時に画面にぶくぶくぶくと泡が出るけれど、あんな感じで、エフェクトな雨。

 あるいは水はスサナそのものだったのかもしれない。いよいよスサナが危うくなってきた時、雨が降りまくっており、「地面にたまった水は、煮えたぎるようにかんじられ(p.149)」て、雨は「実芭蕉の葉の上に転がり、煮えたぎるようにしぶきを飛ばす。(p.150)」のだ。なんだか、最後の力を振り絞ってる感じがして、壮絶である。この場面は、でも、すごく良い場面です。フスティナとの会話。

 さて、では、水的なものをスサナそのものと考えた時に、フアンの母(ドロレス)が若かりし頃に、ペドロから間接的にプロポーズされて大はしゃぎしている(かわいい)くだりで登場する次の文章はどう受け止めるべきか。

 

 一方ドロレスの方は、湯を沸かすために、洗面器を持って台所に駆け込んだ。(p.67)

 

 ドロレスは、スサナのことをどう思っていたのだろう。

 

 それはさておき、小説の始まりから終わりに向かって歩むフアンと、終わりから始まりに向かって歩むペドロは、真ん中あたりで交差するはずである。そして、この小説の中頃に、なんとも意味ありげな記述が出てくる。

 

 時間があと戻りするようだった。月とならんだ星をもう一度見た。(p.93)

 

 これはフアンの述懐になるわけだが、まあ、相当に意味深である。ここがこの小説の中心であると考えてみたい。この場面を星が照らしている。この星は、宵の明星=金星である。この金星って言うのは、ヴィーナスであり、Wikipediaによれば、天使であり堕天使でもあるという。スサナっぽい。その金星が、この小説の中心、フアンとペドロが交差した瞬間を照らしているのだ、と考えると、意味深長だよね。

 

 この小説を最初に読んだときは、なんかよくわからなくて、二回目、ノートを取りながら読んだら、意外とわかって面白かった。でも、分からない部分もたくさんある。意味ありげな文章が多すぎて、あれこれ考えるのが楽しい。でもね、p.76からのチョナのくだりは、まったくわからなかった。チョナって誰? スサナのあだ名?

 あとドロテア。何者? もうちょっとヒントがほしい。まったく回収されてないクアラカってあだ名は、どういう意味? ケツァルコアトルは関係ある? だと金星つながりで、色々と解釈できるんだけれど…。謎は深まるばかりである。