やなせたかし『ふしぎな絵本 十二の真珠』
どこにでも死闘はある
小川の流れの中にも
ツルバラの茂みにも
タンポポの葉の下にも
なにかが生きて
なにかが死んでいる
(p.52-53「チリンの鈴」より)
この本に収められている十二の短編、そのほぼ全てが、悲しい、強烈に。
なぜこんなに悲しいのかというと、その悲しみを照らす光がまた、強烈だからだと思う。その光は、優しさと呼ぶことができるだろう。
光が同時に影を存在させるように、この本の中では、優しさと悲しさが同時に存在している。優しいから、悲しいのではないのだ。優しくて、悲しいのだ。
通常であれば二分される感情が、ひとつのものとして描かれている。かつて作者が作詞した歌に「生きているから悲しくて嬉しい」とあるように、相反しがちな感情を分別せずに描くことの凄み。
そして、悲しみに、優しさとしての光をあてている存在がいるわけですね、投光器みたいなもので。それは語り手ですよね。
放たれる光が強ければ強いほど、その背後に立つ人の顔は見えないもので、語り手の顔、つまり、どういう顔をしてこれらの物語を語っているか、というのは、見えてこない。
いやたしかに、作者はしゃべりまくっている。三つのまえがきに、あとがき&解説。軽妙な感じで、この本や作品群についてしゃべりまくっているんだけれど、しかし、その軽妙さは、何かを隠そうとしていると私には思えた。何を隠しているのかというと、それは、孤独、だと思う。
作者みずからが語りまくっている「解説」だって、「なぜ」こんな物語を書いたのかにはいっさい触れないですからね。それは、そういう肝心なところは読者が自分で見つけるもの、という配慮からかもしれないけれど、「俺の孤独には触れるな」という意思を、私には感じられなくもない。
アンパンマンの胸には、丸くて黄色い笑顔が描かれているけれども、あれは主題歌の歌詞に出てくる「痛み続ける胸の傷」を隠しているものなのではないか。
この本には、アンパンマンのルーツとなっているであろうその名もずばり「アンパンマン」という短編が載っている。こぶとりの男が、飢えた子供たちにパンを届ける話である。
その不格好な姿を世界中から馬鹿にされる。パンを届けた子供からさえも! ニセモノと笑われながらも、彼はパンを配り続けるのだが、ある時、戦場に赴いて子供たちに空からパンを配った直後に、高射砲で胸のあたりを撃たれてしまう。
その後、彼がどうなったかはわからないが、今のアンパンマンに生き返ったのでしょうね。胸の傷は残したまま。
今のアンパンマンは、戦争で負った胸の傷を笑顔で隠している、と私は思う。
主題歌に「たとえ胸の傷が痛んでも」ってあるから、あの傷、今も痛んでいるはずなのに、そのことを誰にも打ちあけることなく、笑顔で、飢えた子供たちのためにパンを配りつづけたアンパンマンの孤独に思いを馳せる。それはやなせたかしさんの孤独でもあったはずだ。孤独のヒーロー。優しくて悲しくて、かっこいい人だったんだな。