Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

髙村薫『土の記』

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 たとえば、次のような文章に私は興奮する。

 

 その下では落下した雨粒の一つ一つが葉から枝へ、枝から葉へと集まって無数の白糸になり、茂みを這う男の周りで極小の滝をつくる。あの有名な白糸ノ滝も、滝つぼに佇んだ巨人の眼にはこんなふうに見えるか。(下 p.124)

 

 超高性能のマクロレンズで撮影された雨粒の動きをスロー再生しているように描いた直後に、思い切り俯瞰のイメージに繋げる、この、描写の遠近感の凄さ。そしてこの作品全体が、このように、極小のものと巨大なものがシームレスに描かれているように感じる。MRIで発見される血栓から、一億五千万キロメートル離れた太陽まで、カメラのレンズを交換することなく、同じ筆で描かれているということに私は興奮を覚える。

 シームレスなのは物の大小だけではない。この作品の中では、過去と現在、死者と生者、現実と夢、それらが境目無く同居していて、その有様が、淡々と、しかし恐るべき緻密さによって描かれる。ビッグバンから2011年9月まで。凄まじいですよ。ちなみに境目をぼやけさせる装置として、雨が使われていると私は思う。

 そうやってあらゆるものがつぶさに描かれていくなかで、描かれない空白として浮かび上がってくるのが、十六年前に主人公・伊佐夫の妻の昭代を植物状態へと追いやった不可解な事故の真相である。

 田んぼにぼーっと突っ立っているだけで、その「異変」の情報が、住民というシナプスを通じてまたたく間に集落(脳)全体に行き渡るような空間において、昭代の事故はいわば血栓のようである。作品内における血栓としての昭代の死の謎。

 その血栓は、昭代の夫である伊佐夫により、読者に対して取り除かれる。しかし、伊佐夫が発したその言葉は、口にしてはいけない呪文のようにも思える。その瞬間、あらゆるものに境目が生まれて、黄泉比良坂は塞がれた、と私は思う。しかしそれはそうしなければならなかったのだろう。塞がなければならなかった。そうしないと、やはり、世界はめちゃくちゃになってしまうのではないか。

 終盤、作品はすでにその混沌に突入していたと私は思う。妹の久代は、亡き姉の昭代と同化し、そして、水色のドレスを着て踊り始める。その踊りはついに生者と死者、現実と夢をひとつにする。

 その後の雨上がりに訪れる「にわか農夫の姿(p.250)」を、この空間を、どう受け止めれば良いのか。もちろんそれは、読んだ人それぞれによりますが、私は、あの世とこの世がひとつになった空間を描いていると思った。

 それはハッピーエンドのようでもあるけれど、危険でもある。伊佐夫と久代=昭代と、トイ・プードルのモモがいる空間。モモという名前は、黄泉比良坂神話における桃を連想させる。

 この時、久代は何を思っていたのだろう。

 ハッピーエンドだったら、久代は伊佐夫の姿を、目を細めて眺めたりしそうなものである。しかし久代は、「凝視」しているのだ。

 凝視。

 久代は何を見ていたのか。災いか、希望か。ともあれ作者は、この空間から何かが世界中に広がる前に、蓋をした。と私は読んだ。

 

 あと、これだけあらゆるものを緻密に描きながら、星空がまったく出てこない(たぶん)のは不思議である。ここには何かある。そして「スター(星)マイン」が二回出てくること、そして二回目は音だけでの登場というのも、何かある。

 古事記と星で何かでてこないかなと思ったけど、めぼしいのは探せなかった。古事記に星が出てこないから、『土の記』にも星が出てこない説、というのを提唱したい。本作がイザナギイザナミの神話をモチーフにしているとは思う。妻を亡くした夫の話、として。

 青という色にも何かある。それは伊佐夫の「いまも瞼の裏側に張りついている青(p.7)」であり、伊佐夫がこの集落にやってきた時に乗っていた車の青であり、ミホの旦那が乗っていた車の青でもある。ここに、終盤で久代が踊る時に来ていたドレスの水色も、無理があるけれど青、として見れば、青という色に何かしらの意味は込められているはずである。それが何なのかは、もちろん、わからないんですけれどね…。