Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

町田康『ギケイキ③ 不滅の滅び』

 そして私にとってそれは私によって私自身の魂を鎮めること。死者である私のために私が祈る祈りなのである。だから私は静のことを語ろうと思う。ふるえる声で語ろうと思う。そう、それこそnovelのように。(p.352)



 どうも現代に「いる」らしい源義経が、みずからの生涯を生真面目に語って語って語りまくり、その語りの波というかうねりというかグルーヴというか磁場に飲み込まれて、本から離れることができず、寝るのも忘れて爆笑しながら読み進めるのが私にとっての『ギケイキ』シリーズである。三作目の本作も、義経の語りの渦に身を委ね、最高に楽しくて踊りながら読んだ。

 読んでいて時々、思うのだけれども、義経は、いま、どこにいるのか。そして、なぜ、義経は語っているのか。語らずにはいられなかったのか。

 死者としての義経が、現代に「いる」のは間違いない。世相にやたらと詳しいし、テレビとかもけっこう観ているようである。西湘バイパスの早川ICあたり(p.440)」をよく通ったりもしているらしい。そして通るたびに、昔(八百年くらい前)のことを思い出したりしているというのだ。死んでいるけれど、生活感がある。

 そしてなぜ、語っているのか。『ギケイキ① 千年の流転』の冒頭を読み返してみても、義経はいきなりハルク・ホーガンとか語りだしていて、なぜ語るのかについては触れていない。謎である。と思っていたのだけれども、③を読むと、静について語りたかったというのが理由のひとつっぽいなと思う。義経はたぶん、静という女性について語ることで、八百年越しの無念を、八百年越しの祈りに変えようとしている。

 でも、それで義経の魂は鎮まったのだろうか。少なくとも、③を読み終えた私の魂はちっとも鎮まってないどころか、悲しい気持ち、遣りきれない気持ちが荒ぶっている。義経もきっとそうだろうなと思う。だって、ねえ、③がこんな終わり方をしているのだもの。そしてこの時の、静について語り終えた義経の気持ちを踏まえて、③を振り返ってみると、私の心の中に浮かんでくるのは、様々な爆笑シーンもたくさんあるのだけれども、それよりも、妙に落ち着いた場面が、やたら印象深く思い起こされる。

 

 雪の上の武者の顔立ち。熊笹と杉。折れた矢。血と内臓の匂い。ひとときの静寂。空を渡っていく鳥の声。私はいまでも鮮やかに覚えている。忘れたいけど、忘れられない。(p.29)

 

 こういった、笑いながら読んでいるとたまに出てくる、素な感じの語り。私も忘れられそうにない。

 ④はどうなるのでしょう。この物語のエンディングを読んだとき、はたして私は、笑っているのか、泣いているのか。

髙村薫『土の記』

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 たとえば、次のような文章に私は興奮する。

 

 その下では落下した雨粒の一つ一つが葉から枝へ、枝から葉へと集まって無数の白糸になり、茂みを這う男の周りで極小の滝をつくる。あの有名な白糸ノ滝も、滝つぼに佇んだ巨人の眼にはこんなふうに見えるか。(下 p.124)

 

 超高性能のマクロレンズで撮影された雨粒の動きをスロー再生しているように描いた直後に、思い切り俯瞰のイメージに繋げる、この、描写の遠近感の凄さ。そしてこの作品全体が、このように、極小のものと巨大なものがシームレスに描かれているように感じる。MRIで発見される血栓から、一億五千万キロメートル離れた太陽まで、カメラのレンズを交換することなく、同じ筆で描かれているということに私は興奮を覚える。

 シームレスなのは物の大小だけではない。この作品の中では、過去と現在、死者と生者、現実と夢、それらが境目無く同居していて、その有様が、淡々と、しかし恐るべき緻密さによって描かれる。ビッグバンから2011年9月まで。凄まじいですよ。ちなみに境目をぼやけさせる装置として、雨が使われていると私は思う。

 そうやってあらゆるものがつぶさに描かれていくなかで、描かれない空白として浮かび上がってくるのが、十六年前に主人公・伊佐夫の妻の昭代を植物状態へと追いやった不可解な事故の真相である。

 田んぼにぼーっと突っ立っているだけで、その「異変」の情報が、住民というシナプスを通じてまたたく間に集落(脳)全体に行き渡るような空間において、昭代の事故はいわば血栓のようである。作品内における血栓としての昭代の死の謎。

 その血栓は、昭代の夫である伊佐夫により、読者に対して取り除かれる。しかし、伊佐夫が発したその言葉は、口にしてはいけない呪文のようにも思える。その瞬間、あらゆるものに境目が生まれて、黄泉比良坂は塞がれた、と私は思う。しかしそれはそうしなければならなかったのだろう。塞がなければならなかった。そうしないと、やはり、世界はめちゃくちゃになってしまうのではないか。

 終盤、作品はすでにその混沌に突入していたと私は思う。妹の久代は、亡き姉の昭代と同化し、そして、水色のドレスを着て踊り始める。その踊りはついに生者と死者、現実と夢をひとつにする。

 その後の雨上がりに訪れる「にわか農夫の姿(p.250)」を、この空間を、どう受け止めれば良いのか。もちろんそれは、読んだ人それぞれによりますが、私は、あの世とこの世がひとつになった空間を描いていると思った。

 それはハッピーエンドのようでもあるけれど、危険でもある。伊佐夫と久代=昭代と、トイ・プードルのモモがいる空間。モモという名前は、黄泉比良坂神話における桃を連想させる。

 この時、久代は何を思っていたのだろう。

 ハッピーエンドだったら、久代は伊佐夫の姿を、目を細めて眺めたりしそうなものである。しかし久代は、「凝視」しているのだ。

 凝視。

 久代は何を見ていたのか。災いか、希望か。ともあれ作者は、この空間から何かが世界中に広がる前に、蓋をした。と私は読んだ。

 

 あと、これだけあらゆるものを緻密に描きながら、星空がまったく出てこない(たぶん)のは不思議である。ここには何かある。そして「スター(星)マイン」が二回出てくること、そして二回目は音だけでの登場というのも、何かある。

 古事記と星で何かでてこないかなと思ったけど、めぼしいのは探せなかった。古事記に星が出てこないから、『土の記』にも星が出てこない説、というのを提唱したい。本作がイザナギイザナミの神話をモチーフにしているとは思う。妻を亡くした夫の話、として。

 青という色にも何かある。それは伊佐夫の「いまも瞼の裏側に張りついている青(p.7)」であり、伊佐夫がこの集落にやってきた時に乗っていた車の青であり、ミホの旦那が乗っていた車の青でもある。ここに、終盤で久代が踊る時に来ていたドレスの水色も、無理があるけれど青、として見れば、青という色に何かしらの意味は込められているはずである。それが何なのかは、もちろん、わからないんですけれどね…。

 

やなせたかし『ふしぎな絵本 十二の真珠』

 どこにでも死闘はある

 小川の流れの中にも

 ツルバラの茂みにも

 タンポポの葉の下にも

 なにかが生きて

 なにかが死んでいる

 (p.52-53「チリンの鈴」より)

 

 この本に収められている十二の短編、そのほぼ全てが、悲しい、強烈に。

 なぜこんなに悲しいのかというと、その悲しみを照らす光がまた、強烈だからだと思う。その光は、優しさと呼ぶことができるだろう。

 光が同時に影を存在させるように、この本の中では、優しさと悲しさが同時に存在している。優しいから、悲しいのではないのだ。優しくて、悲しいのだ。

 通常であれば二分される感情が、ひとつのものとして描かれている。かつて作者が作詞した歌に「生きているから悲しくて嬉しい」とあるように、相反しがちな感情を分別せずに描くことの凄み。

 そして、悲しみに、優しさとしての光をあてている存在がいるわけですね、投光器みたいなもので。それは語り手ですよね。

 放たれる光が強ければ強いほど、その背後に立つ人の顔は見えないもので、語り手の顔、つまり、どういう顔をしてこれらの物語を語っているか、というのは、見えてこない。

 いやたしかに、作者はしゃべりまくっている。三つのまえがきに、あとがき&解説。軽妙な感じで、この本や作品群についてしゃべりまくっているんだけれど、しかし、その軽妙さは、何かを隠そうとしていると私には思えた。何を隠しているのかというと、それは、孤独、だと思う。

 作者みずからが語りまくっている「解説」だって、「なぜ」こんな物語を書いたのかにはいっさい触れないですからね。それは、そういう肝心なところは読者が自分で見つけるもの、という配慮からかもしれないけれど、「俺の孤独には触れるな」という意思を、私には感じられなくもない。

 

 アンパンマンの胸には、丸くて黄色い笑顔が描かれているけれども、あれは主題歌の歌詞に出てくる「痛み続ける胸の傷」を隠しているものなのではないか。

 この本には、アンパンマンのルーツとなっているであろうその名もずばり「アンパンマン」という短編が載っている。こぶとりの男が、飢えた子供たちにパンを届ける話である。

 その不格好な姿を世界中から馬鹿にされる。パンを届けた子供からさえも! ニセモノと笑われながらも、彼はパンを配り続けるのだが、ある時、戦場に赴いて子供たちに空からパンを配った直後に、高射砲で胸のあたりを撃たれてしまう。

 その後、彼がどうなったかはわからないが、今のアンパンマンに生き返ったのでしょうね。胸の傷は残したまま。

 今のアンパンマンは、戦争で負った胸の傷を笑顔で隠している、と私は思う。

 主題歌に「たとえ胸の傷が痛んでも」ってあるから、あの傷、今も痛んでいるはずなのに、そのことを誰にも打ちあけることなく、笑顔で、飢えた子供たちのためにパンを配りつづけたアンパンマンの孤独に思いを馳せる。それはやなせたかしさんの孤独でもあったはずだ。孤独のヒーロー。優しくて悲しくて、かっこいい人だったんだな。

先月、仙台のアンパンマミュージアムに行ってきました。胸の笑顔。大好きだよ、俺も、アンパンマン

渡辺浩弐『2030年のゲーム・キッズ』

 私はいろいろなことを忘れていく。

 けれども、問題はない。

 思い出すことはできるのだから。

 そんなふうに、私は機械に変換されていった。(p.197-198)



 現在、不惑の私が、高校生だった頃、つまり前回のミレニアム前後のことだが、「当時の大人たち」は盛んに、「ゲームばかりしていると、現実とゲームの区別がつかなくなる」と警鐘を鳴らしていた。たまごっちが大ブームを巻き起こしたこともあり、ゲーム感覚で命をリセットする人間が育ってしまう、なんてことも言われていた。

 そんなこと、あるわけないではありませんか、きっと冗談で言っているのでしょう、と穏やかに聞き流していた私だが、しかし、現在、いい歳になっている「当時の大人たち」がSNSで醜態をさらしたり、陰謀論に染まりまくっているのを目にすると、現実と虚構の区別がつかなくなるのは、あなたたちだったのですね、と、なんとも物悲しい気持ちになる。きっと「当時の大人たち」は、怯えていたのだろう。

 

 では、翻って、現在、大人になっている私はどうだろうか。AIとかそういう最新のものに対して、怯えているかというと、怯えていない。これはべつに虚勢を張っているわけではない。より正確に言えば、怯えようがない。なぜなら「AIとかそういう最新のもの」ぐらいの表現しか思いつかないくらい、物を知らないからである。

 けれども、昔、子どもだった頃の感覚として、やたらと真顔で警鐘を鳴らしまくる人たちの言葉は正直、胡散臭いし、そういう大人にはなりたくないなあと現在、思う。

 

『2030年のゲーム・キッズ』に収録されている短編は、すでに実用化されている最新技術が登場する。未来の技術ではなくて、現在の技術で起こりえる話なのだ(表題作「2030年のゲーム・キッズ」はおそらく近未来の話)。サイエンス・フィクションではなくて、シミュレーション・フィクション。

 

 簡潔に情報を伝えるように研ぎ澄まされている乾いた文章に、冷酷さではなくむしろ暖かさや優しさを感じるのは私だけではないはずだ。この感覚は、こないだのミレニアム前後、ゲーム・キッズまっただ中で渡辺浩弐さんの小説をひたすら繰り返し読みまくっていた頃と変わらない。渡辺浩弐さんの作品は、「当時の大人たち」と違って、警鐘を鳴らしていなかった。かといって、「こーんな薔薇色の未来が待ってるよ~!」なんて囃し立てたりもしなかった。どこか、静けさを湛えていた。それは良心的ということだと思う。そこに私は暖かみを感じる、とにかくバッドエンドの作品が多かったけれど。そして渡辺浩弐さんが描いていたものは、技術ではなく、技術によって見えてくる、何かだったと思う。

『2030年のゲーム・キッズ』でも、それは変わらない。描かれているのは、最新技術ではなくて、その技術が駆使されることで、垣間見える、あるいは突き付けられてくる、何か、だと思う。その何かが何なのかっていうのは、読む人によって色々と違ってくるのだろうけれど、私は、「自分」や「記憶」とは一体何なのか、それらはどこに属して、どこまでを「自分」の「記憶」と呼べるのかなあ、と考えた。そして、その問題提起というは『ブラック・アウト』の頃から一貫していると思った。

 なぜなら最後に収められている「2030年のゲーム・キッズ」は、そのエンディングにおいて『ブラック・アウト』と見事に共鳴しているからだ。白と黒で。いま手元に『ブラック・アウト』が無いので、私の記憶が確かならば、だけれども。

 

 

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山晃、増田義郎訳

 無数の星がきらめく黒い空。そして月のそばには、いちばん大きな星。(p.95)

 

 

 アブンディオという名のロバ追いの男が登場する。生者も死者も分け隔てなくしゃべりまくるこの小説内において、耳の遠い彼には特別な役割が与えられている。哀れな狂言回し。彼に与えられた役割はそれである、と私は考える。

 アブンディオがこの小説内で最後に残したものは、二本の線である。

 

 「酔っぱらっちまったよ」

 男たちのところに戻った。彼らの肩にもたれかかると、そのまま引きずられて行った。地面には足先が刻んだ二本の筋だけが残った。(p.204)

 

 地面に刻まれた二本の筋、これを、二つの道と考えてみる。アブンディオは道を用意した。二つの道、つまり、二人分の道を。二人とは無論、おれ(フアン・プレシアド)とペドロ・パラモのことである。

 フアンは、小説の始まりから終わりに向かってこの道を歩み、ペドロは、終わりから始まりに向かってこの道を歩む。一見すると、時間の蝶番がぶち壊れてしまっているように思えてしまうこの小説を、私はそのように読んだのだ。



「行くか来るかで、上りになったり下りになったりするんだよ。行く人には上り坂、来る人には下り坂」(p.8)

 

 冒頭で出くわすこの意味ありげな文章は、この小説自体がそういう作りになっていると丁寧に暗示しているようにも思える。実際、物語はそのように展開しているのではないだろうか。若いフアンは死に向かって歩み、年老いたペドロは、子供の頃の思い出に向かって歩む。興味深いのは、二人とも、その歩みを始める前に、スタートの宣言(らしきもの)を行っていることである。

 

 「疲れたんだ」おれは言った。

 「寝る前に何か食べにおいで。ありあわせだけど、何かあるからね」

 「行くよ、あとで行くよ」(p.21)

 

 「あたしですよ、旦那さん」とダミアナが言った。「昼ごはんを持ってきましょうか?」

 ペドロ・パラモは答えた。

 「あっちへ行くさ。いま行くよ」(p.206-207)

 

 かくして二人の旅が始まる。それもなぜか二人とも、ふにゃふにゃの状態で。哀れな狂言回し・アブンディオの役割(二人を旅へいざなうこと)も、ひとまず無事に終わったというわけだ。

 

 「やれやれ、やっとか」

 「なんて言ったんだ?」

 「もうおっつけ着くところだ、って言ったんだよ、旦那」(p.13)

 

 「やれやれ…」とはアブンディオのセリフである。脈絡を無視して飛び出してくるこのセリフは、ツアーガイドとしてのアブンディオの心の声が漏れ出てしまったのだろう。フアンにそのセリフの意味を聞かれて、慌てて取り繕っているように思えなくもない。

 

 ところでフアンの旅の目的は、父親のペドロ・パラモに会うことだった。死んだ母ととある約束をしていたのだ。しかしフアンにはその約束を果たす気はなかったらしい。

 

 だが、その約束をはたす気はなかった。ほんのついこの頃、夢に胸をふくらませたり、勝手に想像にふけるようになって、急に気が変わったのだ。(p.7-8)

 

 ということらしい。母との約束とは別に、フアンには、ペドロに会う理由があったそうなのである。それは、いったいなんだったのか。きっと殺意を抱いていたんじゃないかなと私は思った。フアンの物語は母の死から始まる。対になるのは父の死でしょうよ。フアンは途中で土の下に入ってしまうわけだが、別の息子によってその仕事は果たされる。

 フアンは母の写真を持ち歩いていたわけだが、その写真は、心臓の部分に大きな穴が開いていた。おそらく、あのナイフは、ペドロの同じ個所に穴を開けたはずである。

 

 ペドロの旅の目的は、思い出の中のスサナに会いに行くことだろうと思う。死んでしまったスサナに対して「戻ってくれ!」と叫んでいたペドロが、「いま行くよ」と宣言したのである。ペドロの歩みは、小説の終わりから始まりへと向かう。

 小説内で最初に登場するペドロのパートでは、子供の頃のペドロの描写に、現在(というかすべて終わった後の)のペドロのモノローグが挿入される。その唐突っぷりに、初めて読んだ時は戸惑うわけだが、二週目以降は慣れる、というか、うわあーってなる。つまり、ペドロはペドロでここに辿り着いたんだ、って思うので。思い出の中のうるんだ唇にね。

 

 うるおいと言えば、水や雨はとにかく意味ありげに描かれている。あとたぶん風も。ぶち壊れてしまった時間の蝶番の代わりに、時空のつなぎ目として雨(or水滴or水的なもの)が使われている気がする。アニメ『スポンジ・ボブ』では、シーンが変わる時に画面にぶくぶくぶくと泡が出るけれど、あんな感じで、エフェクトな雨。

 あるいは水はスサナそのものだったのかもしれない。いよいよスサナが危うくなってきた時、雨が降りまくっており、「地面にたまった水は、煮えたぎるようにかんじられ(p.149)」て、雨は「実芭蕉の葉の上に転がり、煮えたぎるようにしぶきを飛ばす。(p.150)」のだ。なんだか、最後の力を振り絞ってる感じがして、壮絶である。この場面は、でも、すごく良い場面です。フスティナとの会話。

 さて、では、水的なものをスサナそのものと考えた時に、フアンの母(ドロレス)が若かりし頃に、ペドロから間接的にプロポーズされて大はしゃぎしている(かわいい)くだりで登場する次の文章はどう受け止めるべきか。

 

 一方ドロレスの方は、湯を沸かすために、洗面器を持って台所に駆け込んだ。(p.67)

 

 ドロレスは、スサナのことをどう思っていたのだろう。

 

 それはさておき、小説の始まりから終わりに向かって歩むフアンと、終わりから始まりに向かって歩むペドロは、真ん中あたりで交差するはずである。そして、この小説の中頃に、なんとも意味ありげな記述が出てくる。

 

 時間があと戻りするようだった。月とならんだ星をもう一度見た。(p.93)

 

 これはフアンの述懐になるわけだが、まあ、相当に意味深である。ここがこの小説の中心であると考えてみたい。この場面を星が照らしている。この星は、宵の明星=金星である。この金星って言うのは、ヴィーナスであり、Wikipediaによれば、天使であり堕天使でもあるという。スサナっぽい。その金星が、この小説の中心、フアンとペドロが交差した瞬間を照らしているのだ、と考えると、意味深長だよね。

 

 この小説を最初に読んだときは、なんかよくわからなくて、二回目、ノートを取りながら読んだら、意外とわかって面白かった。でも、分からない部分もたくさんある。意味ありげな文章が多すぎて、あれこれ考えるのが楽しい。でもね、p.76からのチョナのくだりは、まったくわからなかった。チョナって誰? スサナのあだ名?

 あとドロテア。何者? もうちょっとヒントがほしい。まったく回収されてないクアラカってあだ名は、どういう意味? ケツァルコアトルは関係ある? だと金星つながりで、色々と解釈できるんだけれど…。謎は深まるばかりである。

國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』

ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。(p.110)

 

 面白くて三回、読んだ。どういうところが面白かったかというと、まず、読みやすいということ。

 そして、読みやすいけれど、既成概念や陋習に染まり切った私には、スピノザの斬新な考え方は、すんなりと理解できない。その戸惑いも、面白い。

 そしてそうやってたじろいでいると、必ず「わかりやすい例え」が登場するのです。その例え話が本当にわかりやすくて面白くて、また、登場するタイミングも「待ってました!」といった感じで最高で、面白い。

 

 本質は、形ではなく、力=コナトゥスだということ

 善いものと悪いものは組み合わせで決まるということ。

 なので色々と実践が必要だということ。

 善い=活動能力が高まる、ということ。

 結果は原因の力を表現しているということ。

 能動=自分の力をより多く表現できているということ=自分が原因の度合いが大きいということ=自由ということ。

スピノザ哲学の全体が人間の自由に向かって収斂していく(p.111)」ということ。

 自由意志は存在しないということ…。

 面白い。面白すぎる。

 

 私はかつて國分功一郎さんの『スピノザ 読む人の肖像』という本を読んだとき、あまりにも衝撃を受けて、その感動をどう言い表そうかと悩んだ末に「赤ちゃん時代から生まれ直しているような感覚」という感想文を書いたことがあった。

 私はそのことについて、「なんかもっと、良い書き方、なかったかな」と悔やんでいたのだけれども、本書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』のp.98に、なんと、赤ちゃんの例え話が出てくるのですよ! 嬉しかった。

 本当に、スピノザの考え方に触れていると、赤ちゃん時代からやり直しているような感覚になる。圧倒的に新鮮。

 それは、「考えを変えるのではなくて、考え方を変える(p.7)」ということであり、

「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない(p.7)」ということであり、

 そして、「歴史に『もしも』はありえませんが、しかし、もしかしたら別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできます。私の考えでは、スピノザ哲学はこの可能性を示す哲学なのです。それは『ありえたかもしれない、もうひとつの近代』に他なりません(p.134)」ということなのだ。

 ありえたかもしれない、もうひとつの近代。

「AIに物理法則を学習させたら、未知の物理変数で現象を表現し始めた!」 という記事に出てくるAIの計算が、なんとなくスピノザ哲学っぽい

 人類が人類であるがゆえに見落としてしまっていた何かを、スピノザは見ていたのかもしれない。そう考えた時に、スピノザがレンズ磨きで生計を立てていたという実話は、あまりにも象徴的である。彼の磨き抜かれた知性の目は、何を見ていたのだろう。

 

 國分さんはp.88で「多元宇宙論」に触れている。「もちろんそれはスピノザとは直接は関係ないかもしれません。しかしどこかスピノザの発想に通ずるものを感じるのです。(p.88)」と。

 わくわくするなあ、と私は思う。スピノザ哲学は、わくわくする。

 自由意志は存在しないという考え方も、わくわくする。それはつまり、ええと、心身並行論で言えば、意思もまた、物理的領域の因果的閉包性のようなものに含まれているということで、その無限に広がる複雑な因果性は、意識(クオリア)によって支えられている、ということではないだろうか。わくわくする。

 すべて予め決定されているということは、時間が存在しないということでもある、私の思い込みだけれど。過去も未来も現在も、同時に存在していて、それは、あらゆる瞬間は永遠である、ということで、なんだかとてもトラルファマドール的である、私の大好きな小説カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』の。わくわくする。

 

千葉雅也 二村ヒトシ 柴田英里『欲望会議 性とポリコレの哲学』

二村 なぜ、境界線を引いて敵と味方をはっきりと分けたいんだろう。

千葉 それは、柴田さん的に言えば、気持ちいいからでしょう。

柴田 はい。「敵」の存在は、コミュニティの結束を高めますからね。そこには共感の快楽があります。

(p.104-105)

 

 この本を読んで、俺は自分の欲望にきちんと向き合ってきただろうか、と私は思いました。なにお高くとまっていやがる、お前はお前の体に付属してる卑小なデバイスと向き合う日々だったではないか、それなのによくもまあそんなカマトトぶれますね、と思わなくもないが、でも、二村ヒトシさんの「(前略)ポルノとホラーはつながっているように感じます。(p.28)」という発言を読んだとき、私はとても衝撃を受けました。うわ本当だ! と叫びたくなった。さも自分の発見のようにして友達に言いふらしたくなった。そして、自分は欲望に向き合ってこなかった、と思った。

 私は怖い話が大好きで、しかも「こういうのが好き」という明確な好みがある。それは、「うわーお化けだー!」とか「祟りじゃー!」とか「霊障だー!」とか「逃げろー!」みたいなものではなくて、ではどういうのかというと、それは、言わぬが花でしょう。それらのホラーの趣味嗜好を、ポルノにパラレルに置き換えたときに私は、滋味深い感動を覚えた。

 

 あと、この本を読んでいて、『風姿花伝』のことを思った。『風姿花伝』における花とは、すこやかな発情&オーガズムのことなのではないか。つまり、世阿弥は欲望の達人だったのだ。秘すれば花なり。わかります。