
茶、について知りたいと思った私は、茶のことを教えてくれる本を探して書店をうろついていたところ、この本を見つけた。手にとって表紙をめくって見ると、幕末の志士のごとき鋭い眼光を持った男性の巻頭グラビアがあり、著者だという。かっ、かっこいい、もう絶対この本おもしろいに決まってるじゃん、と私は思った。
それで読んでみると、たしかに書名の通り、この本は、茶、茶道、茶の湯について書かれてはいるのだけれども、それはそれで知らないことばかりでとても勉強になるし興味深いのだけれども、それらよりも、私は著者の「茶」というフィルターを通して語られる世界のとらえ方というか、考え方にとにかく興奮した。うおー、となった。感動のあまり、茶の間でくつろいでいた妻子らの前で「定義は常に制限である。『一定』『不変』は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく『聖人はよく世とともに推移す』」(p.43)と音読したりした。反応はなかったが、この43ページのくだりから始まる一節は、もう本当に最高ですよ。一刀両断、って感じ。
われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。(中略)おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。(p.43)
この調子でばさり、ばさり、と斬り倒していく。引用はほんの一部です。詳しくはぜひ本書を手にとって読んでください。そしてこのくだりは次のように幕をおろす。
男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。(p.46)
「映え」に拘泥することが当たり前になった現代を生きる我々に届く、120年前からの痛烈な問いかけ。著者の写真を見て、維新の志士みたいなだなあと思ったが、刀で人を斬らずとも、言葉や考え方で、人や世界を(時空をも超越して)斬ることが可能なのであり、本書は、そのことをもっとも鮮やかに教えてくれる作品のひとつだと思う。
それと、著者は怖い顔をしているけれども、とてもやわらかい気持ちの持ち主だったのだろうなあと思う。印象的な次の文章が、そのことを表している。
まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。(p.31)



