Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

町田康『口訳 太平記 ラブ&ピース』

 激動の時代、といったことを表現する時にまず間違いなく用いられる言葉は「うねる」だと思う。時代のうねりに翻弄されて……みたいな。うねる、を辞書で調べると「緩く曲がりくねること」「大きく起伏する海の波」とあり、時代の揺れ動く感じがイメージしやすくて便利だから誰もが使うのだろうが、しかし、そもそも、そうやってうねりの主体を時代にしてしまったら、責任の所在が曖昧になってしまいませんか。

 なぜなら、時代って特に自由な意思とか持ってなさそうだし、つまり自らうねりようがないのであって、だからもし、時代がうねっているのだとしたら、何かうねらせている存在がいる。そしてそれってたぶんほぼ確実に、人、だと思う。

 人が時代をうねらせている。それなのに「あの頃は大変な時代だったねえ。大きく起伏する海の波みたいで苦難の連続だったねえ」で済ませてしまうと、そのうねりの原因を作った人の存在がなかったことにされやしませんか。お咎めなしみたいな感じになりやしませんか。それってどうなんでしょうね。

 

 昔は迚もよかったのだけれども今は凋落している。なんでこんな事になってしまったのか。先程より俺はその事について考えている。(p.3)

 

『口訳 太平記 ラブ&ピース』の語り手である「俺」は、「⚪︎俺は今」という本書冒頭の章で、荒廃してしまった世の中を嘆き、その原因について考える。この時「俺」は、いわゆる「時代」を音楽に例えている。そして次のように述べている。

 

 今、鳴っている音がそれぞれどの過去に繋がっているのかを明らかにできれば、どの音を鳴らしている奴を殺せばよいかが明確になる(p.5)

 

 今現在、流れている音はぐちゃぐちゃで最悪である。だからその最悪な音を一つずつミュートしていけば、みんなも消されないようにちゃんと演奏しようという気持ちになって、「少しずつではあるが全体がまとまっていって、いつかは美しい音楽になる、という期待を抱くことができるようになる(p.5)」のではないかと「俺」は考えたのである。しかしそれは無理な話だとも「俺」は考えている。美しさといってもそれは自分(たち)に取っての美しさでしかなく、結局は争いは激化するだろう、と。「とは言うものの。(p.6)」

 

 今、俺は、今鳴っている音や人から聞いた話、誰かが考えた、これが大筋の音だよ、という音の連なり等に耳を澄まし、目を凝らして、轟音の中から美しく調和する音だけを択び取って貧しい和音を頭の中に鳴らそうと思う。(p.6)

 

『平家物語』も冒頭で、鐘の音色を諸行無常な世の中(時代)に例えていた。静寂の中に響き渡るブウウーーーーーーンンンーーーーーーンンンンという鐘の音に、「なんかぜんぶ滅んじゃったよね。うたてけれだよね」としんみりした感じからスタートする『平家物語』が、なぜそんな落ち着き払った態度で語ることができるのかというと、それは、「すべてが終わったあと」に語られているような雰囲気を纏っているからだと私は思う。ぜーんぶ終わって、落ち着いた位置で、「あの時」のことを語ろうとする感じ。

『口訳 太平記 ラブ&ピース』の場合、その語りの位置が決定的に違っていると思う。語り手の「俺」がいる「今」は、全然落ち着いてない。治安も乱れまくっているようだし、どうも戦時下っぽい感じも漂っている。鳴っている(いた)音も鐘の音とかではなく「轟音」なのである。そのごちゃごちゃした怒涛の音の流れの中から「俺」が択び取ってなんらかの祈りを込めて鳴らす音楽、それがこの物語、と言えなくもないと思う。ところでなぜそのような無意味なことをするのかと或る人から問われた「俺」はこう答えている。

 

「わかってるけど、やんないと遣りきれないじゃん」(p.6)

 

 こうして音楽=物語がスタートする。

 それはもうたくさんのキャラクターが次々と登場し、色んな音を鳴らしまくり、消えて(死んで)いく。

 語り手の「俺」は「貧しい和音」と謙遜しているが、その語り口調たるや、圧倒的なグルーヴでみなぎっているのであり、読み出したら止まらない。私なんかはもう睡眠時間を削って削って段ボールみたいな顔色になっても読むことを止められなかった。それくらい面白いよ。

 そしてとにかくひたすら笑わされる。

 私はもう毎ページ笑いながら読んだ。中でも最高に笑ったのが、あのすごいドラマー、津守国夏のくだり。機転をきかせて難局を乗り切ったあとに、しみじみと述懐するセリフに声をあげて爆笑した。思い出すだけでも笑えてしまう強烈さ。阿新ちゃんが錯乱してから正気に戻るくだりも爆笑した。

 しかし凄いのは笑いだけではなくて、この音楽(物語)が最高に盛り上がる瞬間というのは、私は戦の場面にあると思う。終盤に出てくるけっこう壮絶な戦い(殺し合い)で背景音楽として流れている(ように私は読んだ)のはジョン・レノンの「Give Peace A Chance」であり、この演出は最高にかっこいいと思う。別の場面ではビートルズの「All You Need Is Love」が流れていたりもする。

 副題のラブ&ピース。これは人類愛とかそういうのではなくて、あくまで自分(たち)にとってのラブ&ピースのことなのだと思う。自分たちの利益、既得権益、良い暮らし、そういったものらを純粋に追い求め、衝突しまくる美しい音楽、ラブ&ピース。続きが気になってしょうがない。だって、And the Melody Still Lingers Onなのですもの(最後、英語で締めるとかっこいいかなと思い、そうした)。

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松尾芭蕉『新版 おくのほそ道』潁原退蔵・尾形仂=訳注

 私は、『おくのほそ道』とは、俳句が好きなおじいさんが東北地方を愉快に旅した日々を綴ったエッセイ集のようなものだと思っていた。相方の曾良と一緒に、てんやわんやの珍道中。たまに俳句を詠む。そのような先入観で、なんかつまらなそう、と読まずにこれまで生きてきたことを、今、心の底から恥じている。

『おくのほそ道』が、かなりの作為をもって組み立てられているものだ、ということはこの本を読むまで知らなかった。事実をもとにしたフィクション、ドキュメンタリー風の劇映画に近い。監督・松尾芭蕉は「ここの場面でこういう画が欲しいな」という時にはCG合成で花とかを足したり、実際の旅程を前後させたり省いたり、ドラマチックに盛り上げるために「完全オリジナルの遊女エピソード」を挿入したりする。

 なぜ松尾芭蕉がそういった演出を加えたのかが分かるのかというと、彼の旅の大部分を同行していた曾良が克明に日記を書いていたからである。曾良の日記と、『おくのほそ道』には、大きな差異がある。その差異は、芭蕉が演出(編集)を加えたことにより生じている、というわけ。

 本書では、現代語訳の後に続く解説で、実際のところはどうだったのか、を紹介しながら、ではなぜ芭蕉はそのような演出を加えたのか、そうすることでどのような効果が生まれたのか、をわかりやすく丁寧に説明してくれていて、ありがたいです。まるで映画のメイキング映像を観ているような解説だった。「あのシーンはこうやって撮ってたのかー」って。

 

 それはともかく、東北地方の裏日本と呼ばれた土地で生まれ育って今も住んでいる私としては、『おくのほそ道』が持つ差別的な冷たいまなざしについて、触れないわけにはいかない。なお、以下に続く感想文は、赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』から多大なる影響を受けている。

 それで、どのような点が差別的かというと、全部なのだけれども、そもそもが、みちのく=道の奥、つまり中央から見ての奥、という捉え方がすでに上から目線である。

 そして、「漂泊の思いに突き動かされて、あんな辺境に旅立つ悲壮な俺」というのを飾り立てているわけだけれども、そおなんだっ、すごおーい。とはならない。冒頭からすでに嫌な予感しかしない。

 勤勉実直を自称する(面倒くさそうではあるが)宿の主人を「期待したけど、ただ無知で無分別なだけじゃん。まあその愚直さっていうのもひとつの美徳だって昔の偉い人が言ってたっけ」と評したり(意訳)、こんな片田舎にも街角での演奏の文化が残っているなんて驚いた(意訳)、こんな辺鄙な土地にこのような立派な神社があるなんてすごい(意訳)、などと何かにつけて上から目線。(ちなみに上記の神社は塩竈神社であり、そこには東北を平定した神が祀られているという。平定、辞書では「敵や賊を討ち平らげること」とある。「敵」や「賊」として「討ち平らげ」られたのって、東北の人たちに他ならないですよね)

 しかし、そうやって田舎を見下す一方で、各所でめちゃくちゃ格好良い一句を残していく。このギャップはなんなのか。

 みちのくへの冷たいまなざしと、美しい俳句。

 これは、ずれや食い違いではないのかもしれない。冷徹な視線があったからこそ、鋭い俳句が詠めた。両立している。

 東北を見つめる芭蕉の目は笑っていない。もちろん、涙でにじんでもいないですよ。土足でずかずかと踏み込む感じ。「いや、あなた、土足ですよ、履き物を脱いでくださいよ」という小さな声はかき消されている。今はもう、耳をそばだててもその声は聞こえてこないけれども、しかし、少なくともみちのくの人たちは、彼の俳句をそんなにありがたがらなくてもいいと思いますよ。さきかたはうらむがごとし? はあ? なんかあのじじい勝手なこと言ってますけど秋田の人おこらないんですか? いいんですか?

 

 夏草や兵どもが夢の跡

 

 平泉で詠まれたこの一句の存在は私でも知っていた、格好よくて大好きである。解説によると、平泉での芭蕉の文章は「実景の写実的描写をはるかに超越している(p.111)」のだという。どういうことか。「別当不在で開帳してもらえなかった経堂を開帳し、実際にはない三将の像を拝したかのごとく書いている(p.111)」のだそうだ。

 実景の写実的描写をはるかに超越。物は言いようである。それってつまり、完全な創作。現実を描写していないということ。そおなんだっ。すごおい。

 そう考えると、「時の移るまで涙を落としはべりぬ。(p.37)」とあるが、本当にそんなに泣き続けたのでしょうか。そもそもどこの景色を見ていたのかも定かではないのだ。風景を眺めて滂沱たる涙を流すというエモーショナルな「画」が欲しかっただけではないのか。

 存在していない「三将(藤原清衡、基衡、秀衡)の像」を、「見た」とも芭蕉は書く。

 

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。(p.37)

 

 芭蕉は何を見たのか。

 中央に滅ぼされたみちのくの歴史を前にして、彼は何も見ていなかったのではないか。彼はいつだって自分の頭の中の東北を見ていた。そして現地を訪れて、あらかじめ用意してきたレッテルを、その天才的言語センスで貼り付けた。それは迫害と滅びの歴史への、あまりに冷酷なふるまいじゃあないですか。イメージの東北の押しつけ。暴力的なまなざし。

 空にうかぶ雲を眺めて、「あー俺もあんな感じで漂泊したいなー」と思い立った、という風を装いながら、あてどなくさまよう旅っぽさを自己プロデュースしつつ、その天才性で東北を冷たく見事に完璧に切り取っていった松尾芭蕉。

 なんで旅をしたのだろう。旅をしなくても、この傑作は書けたはずである。観念の東北旅行記。「行った」けれども「見て」はいない。「行く」ことで完成する何かがあったのでしょうね。

 でもね、ちゃんと見なきゃ駄目だと思いますよ。あなたの東北に向けるまなざしは、現代にまで影響を与えてしまっているんです。責任、大きいですよ。

島田雅彦『Ifの総て』

 バタフライエフェクトなんていうロマンチックな言葉があってこれはたしか、エジプトで蝶が羽ばたけば北極で白くまがくしゃみする、というように一見すると関連がなさそうなできごとが実はしっかりと因果の糸で繋がっているという意味を持っていたと思う。風が吹けば桶屋が儲かる。

 ならば、白くまにくしゃみをさせないためには、蝶の羽ばたきを阻止すればよいのだろうか。桶屋がぼろ儲けしてさらに巨万の富を手にしようと画策しどでかい工場を自然を破壊して建設して煙突からの黒煙で空気を汚し産廃垂れ流しで川を汚染し近隣住民に深刻な健康被害をもたらさないようにするためには、風が吹かないようにすればよいのだろうか。

『Ifのすべて』の主人公・花村薫は、いわば「蝶の羽ばたき」を阻止するために、いや、より正確には、阻止は可能だったのか、そしてその場合はどのような現在(未来)を迎えるのか、と言うことを検証するために、AIによって生成された仮想現実=メタ現実の過去へと向かう。

 本作で何度か比喩として用いられている、レール。レールの上を走る「歴史」あるいは「運命」を変えるには、レールを別のレールへと切り替える転轍機を操作しなければならない。そうやってポイントを切り替えることによってしか、蝶の羽ばたきは阻止できない。

 花村は歴史家で、つまり過去の出来事にはとにかく精通しているわけだから、歴史上のポイントとなる場所、人物、つまり「その時歴史が動いた」瞬間を探すこと自体はそう問題ではない。

 問題になってくるのは、転轍機の操作である。いざ、転轍機のレバー的なもの(イメージです)に手をかけて、ポイントを切り替えようとするのだが、その瞬間、きまってレバーはフリーズする。なぜだろう。これは、メタ現実の性能の限界というよりも、歴史において選ばれなかった別の可能性に流れを変える、そのことがいかに絶望的に困難かということのあらわれなのだと思う。

 その選択が決定的だった、のだとしても、その選択に至るまでには、膨大な選択肢の流れが過去として存在しているのであり、ポイントを切り替えるということは、その激流のごとき過去の流れの行先を捻じ曲げるということに他ならない。地球は時速1,700kmで自転し(赤道上)、かつ時速10万7,000kmで公転し、そして太陽系は時速80万km以上で移動している、とさっきウェブ検索で調べたら書いてあった。つまり我々は想像もつかないような猛スピードで移動している。流れている。その流れを変える? 無理だよ。

 メタ現実における花村の挑戦はことごとく失敗に終わる。つまり、あり得たかもしれない「もうひとつの歴史」に流れを変えることができない。原因不明の副作用で体調はぼろぼろになりながら、花村が行っていたのはまるで絶望の地ならしのようである。この時、メタ現実内で地ならしされた絶望と、この小説内の絶望と、いま私がいるこの現実の絶望の地平が一体化する。インフィニティ温泉ならぬ、インフィニティ絶望。しかしその境界を失った絶望の大地の上に、希望の花が咲いている。なに急に可憐な例えを持ち出してやがるんだ、と思われるかもしれないが、花村とその助手の穂花、主要キャラ二人の名前に「花」という文字が使われているのだもの、お花に例えても、よろしいではありませんか。

 真の希望は、絶望の中からしか生まれない。そういうことがこの物語では描かれているのではないか。花村が絶望の花であり、穂花が希望の花なのである。

 終盤、自分のそう長くはない寿命も知っちゃった花村は、なかばやけっぱちのような凄みで友人にあるお願いをする。その命懸けの気迫に圧せられた友人は、その頼みを引き受けるのだが、この瞬間、未来が変わった、と私は思う。蝶の羽ばたきではなく、孵化を阻止するような、ポイントの切り替えが行われた。

 ここから先は穂花の出番である。穂花とあの絶望芸人のこれからの歩みに思いを馳せて心をときめかせつつも、作中と地続きの絶望的現実を生きる私は、反抗することに対して朗らかな勇気が芽生えていることに気がついて、この小説を読んで良かったな、と思った。

 

阿部和重『ABC戦争 plus 2 stories』

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 こうして憲法第九条と<戦争参加の要請>をめぐる二者択一が、「切実」な問題としてT校生たちに重くのしかかる。(p.82)

 

 もちろんぼくらは戦闘になど加わってはいけない、「参戦」してはいけないということはたしかです。ぼくらはぼくらで自立すればよいのではないか。おまえらは戦争が嫌だとばかりいっているただの厭戦主義者でしかないと罵られるだけならまだしも、それによって暴力的な被害をうけなければならないのだとすれば、ぼくらはホンセンの戦争をやめさせなければならない。ホンセンの連中はもう自分たちだけでは戦争をとめられないところまできてしまっているのではないでしょうか。(中略)だから、いままで平和を維持してきたぼくらには戦争をやめさせる義務があるはずなのです。ぼくらはここで平和主義を貫かなきゃいけない。それならどうやってぼくらは戦争をやめさせればよいのだろうか。(p.94)

 

 この読書感想文を書いている2026年4月6日現在、日本に暮らす私たちにとっても、本書に収録されている「ABC戦争」に出てくる上記引用箇所は、あの海峡の名を出すまでもなく、あまりに切実な問題である。31年前に書かれた小説なのに、まさに2026年の今のことを表しているみたい。

 本作における不良学生どうしのあれやこれやは日本そして日米関係を類推してしまうけれども、しかし、この作品というか山形県というかYamagata県というかY県、が目指しているのは、アクション=跳躍、における滞空時間のひきのばしである、と語られている。跳躍とは何か。

 

 Y県が夢みるその《跳躍》とは、キューバのハビエル・ソトマヨール的なハイ・ジャンプである。(中略)肝要なのは滞空時間のほうである。Y県は、その《跳躍》でどれだけ滞空時間をひきのばすことができるだろうか。あるいは、宙に浮いたまま、いつまでもその身を着地させることができぬ状態に、どれほど耐え抜くことが可能なのだろうか。むろんそれは、跳んでみなければわからない。(p.15)

 

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 高さではなく、滞空時間における「ワールド・レコード(p.15)」を目指す壮大な挑戦が「ABC戦争」なのだ、と強引に思い込んで、本作を読み進めてみると、たとえば、「スピードをあげすぎてL字カーブを曲がりきれず公道と空港の敷地を隔てるフェンスに車体をぶつけながらも追っ手から逃れるためにアクセルをめいっぱい踏み込んだまま秀史郎は運転を続けた(p.133)」という一文は、背面跳びをする走り高跳びの選手が助走をしてから跳躍の直前に進路をそれこそL字に曲げる様子を連想させるし(ということはこのあとに「跳躍」がくるわけだ。ちなみにこのL字カーブは、T地方のY県Y市に生まれ育ちH市にもなじみのある私には「たぶんあそこだ」と見当がつきます)、Hというアルファベットは見た目がそもそも、走り高跳びの選手が跳び越えるバーにそっくりである。

 では、そうなると、作中に5回登場する「I」というアルファベットは、何を意味しているのだろうか。もちろんそれは「<アクション>の時空へと侵入(p.15)」するために「複数化(p.15)」された「自己(p.15)」でもあるのだろうし、また、聴覚的にも意味ある響きを持ってはいるのだが、私は、視覚的イメージで「I」を捉えてみたい。つまり、線あるいは棒(バー)として。

 いちばん最初に登場する「I」は、私たちに、語り手が跳び越えようとしているバーの位置を教えてくれているのではないだろうか。

 

 若木山=OSANAGI山=O山を上り、中途で休んだまま先に進めずにいる人物とは、種田秀史郎という「ヤクザ者」である。(p.18)

 

 OSANAG「I」山。跳び越えるべきバーはここですよ、と指し示しているみたいじゃないですか。

 あるいは「I」は、マーカー線のようでもある。ウェブ検索で調べたところによると、走り高跳びという競技では、2本の線を引くことが許されているのだという。助走の開始位置と、踏み切りの位置として。ちなみに走り高跳びは、跳躍のさい、片足で踏み切らなければならないのだという。終盤、「I」の含まれているO山にやってきた種田秀史郎は、左脚を負傷しており「片方の脚がいうことをきかないためスキップするように右脚で踏み込みちいさくまえに飛び跳ねるようにして走っ」ている。(p.136)片足で飛び跳ねているのである。もちろんその直前ではL字カーブを曲がっている。「ハビエル・ソトマヨール的なハイ・ジャンプ」からはほど遠いが、しかし、確かに、種田秀史郎は、O山で跳躍している。

 そして秀史郎はこのあと、なんと、「ブランコに寄り掛か」るのである。(p.136)

 ブランコ? あの、尻あるいは足の裏を載せるために木製もしくはゴム製の板が「宙吊り」になっているあの遊具に?

 序盤と終盤に登場するこの種田秀史郎というキャラクターは、じつは、作中の大半においてずっと宙吊り状態にあったのではないだろうか。つまり、滞空時間を延長し続けていたのではないだろうか。

 種田秀史郎は初登場時にその下の名前に「ひでしろう」と読みがなが振られている。つまり、それ以外の読み方はしてはならないということで、ということは、「種田秀史郎」が「たねだひでしろう」あるいは「TANEDA HIDESIRO(U)」であることに、何らかの意味が込められているはずなのだけれども、それが何なのかはちょっと今はまだ分からないです。アナグラム? T・H? 色々考えたのだけれども。とにかくこの小説は謎めいていて、その謎めき具合がたまらなく魅力的であり、魔力的であり、私はもう夢中になっている。たとえばね、オオバという人物が登場する。彼の役割は主に「参戦の要請を受ける」というものだが、彼のあだ名は「Q」である。なぜか。見た目が「オバケのQ太郎」に似ているからだという。「しかし頭髪が三本しかないというわけではない(p.84)」と断りがあるが、そうだとしても、頭髪以外の部分がオバケのQ太郎に似ているってどういうこと? そしてQ、キュー、9、憲法九条? というかオオバがOバでQバになってキューバになってハビエル・ソトマヨールまで繋がらない? とか、妄想が次々に広がって収集がつかなくなるのである。むしろここで重要なのは、「三本」という数字を登場させることにあったのかもしれない。なぜか。この小説で跳躍に挑んでいる人物は3人いると私は考えている。種田秀史郎、<手記>の筆者、そして語り手の「わたし」。この文庫版の解説で「『Y』の三つの直線が分解すればたやすく『I』が登場する(p.313)」と指摘されてもいる。つまり、「Y」とは3本の「I」であり、Yが夢みた跳躍とは、3人が夢みた跳躍だったのではないか。

「I」の話に戻ります。2回目に登場する「I」は、これを走り高跳びの2本目のマーカー線に見立てると、踏み切り開始の位置になる。じっさい、この2回目の「I」が登場してから、物語は大きく飛躍する。

 

 K地方を本拠地とした全国的広域暴力団組織I一家T地方支部のY組を親団体にもち、H市内のJ町に除務所を構えるU会から、若い身空で盃をうけた男、種田秀史郎。(p.118)

 

 全国的広域暴力団組織「I」一家T地方支部。この踏み切り位置を合図にしたかのように、小説は、まったく別のもののように変貌する。

 

 春に三代目総長が急死していらい大組織が二手にわかれてしまったI一家の各系列団体は全面戦争をまぬかれぬまでに激しい内部構想を繰り返していた。(p.129)

 

 この、「三代目」「二手」「一家」というあまりにも意味ありげで蠱惑的すぎる数字の並びのなかに3回目の「I」が登場する。これは三位一体で跳んでいる、ってことだろうか。あるいは人が減っていく暗示か。「ホンセン」的状況と酷似しているなかで引かれる3本目の踏み切りマーカー。物語はさらに飛躍する。飛行機も飛び立つ。

 

「はじまり/おわり」の廃棄は、その消去ではなく、その氾濫によって可能となる。何度もはじまって何度もおわればよいのだ。その偏在ぶりによって、「はじまり/おわり」の記号的な効力が減退する。(p.44)

 

 上記引用の文章を、何度も踏み切って跳ぶことによって滞空時間を延ばし続けることができる、と我田引水的に解釈してみようと思います。

 

 そして4回目の「I」はこちら。

 

 その連中を追いかけてゆくように、うつ伏せに倒れた秀史郎の頭部付近から、まっ赤な液体がIという字を描きながらしたへむかってすうっと流れおちてゆくのだった。(p.139)

 

 秀史郎はここで途絶えたので、ここでの踏み切ったのは、<手記>の筆者と、語り手の「わたし」のふたり、ということになる。

 この4回目の踏み切り以降、語りは時空を超越する。そろそろ着地しなければならないのではと息をのんで読み進めると、<手記>の筆者が去ったのち、最後の最後に、5回目の「I」が登場する。ここで語り手の「わたし」がひとりで跳躍した、とみることもできなくないことはないだろうと思いたい。つまり、着地していない。おわっていない。まだ宙吊りのまま、滞空時間の記録を更新し続けている。ハビエル・ソトマヨールの記録がいまだ破られていないように、「ABC戦争」の記録もまた、破られることはないだろう。 

 

 と、かなり強引にまとめてみたけれども、本作に登場する著名人の名前や作品について浅薄な私は何も知らないに等しく、おそらく本作の奥に分け入るにはそれらの作品に触れていた方が絶対に良いと思うので(知らなくても超絶に面白い、というのがこの小説に限らず阿部和重さんの全作品の凄まじいところなのだけれども)、色々と見識を広げていきたいと思います。

 そうして少しは賢くなってから(なれるのか分からないが)、また本作を読み返すと、分からなかった部分が分かるようになっているかもしれない。

 なぜ、<手記>の筆者は左利きであることを終盤になってことさら強調されなければならなかったのかとか、0本線のアルファベットがすべてシンメトリーなのはなぜかとか、ものすごく重要な気がするけれどもなぜ最後の2回の「I」は赤い色をしているのかとか、などなど……。まずは『ハタリ!』を観てみよう。





ゴーゴリ『死せる魂』平井肇・横田瑞穂訳

 この小説の主人公はチチコフという名前の四十代の太ったおじさんであり、彼が、ある意図を持って、とある県庁所在地を訪れるところから物語が始まる。

 このおじさんの社交スキルは円熟の域に達しており、あらゆるお偉方を次々と虜にしていく。むろん読者も。「チチコフ! なんとも愉快なおじさんじゃねえか!」なんて読み進めていくのだけれども、行動の端々に不穏な影がちらつくので、ただの愉快な中年男性ではなさそうだと予感していると、第一部第一章の最後に次のような文章が登場する。

 

 こういった我らの客にとって誠に喜ばしい評判が、市じゅうにひろまって、それは、この客の一種奇怪な本性と、企らみというか、それとも田舎でよくいう『当てこみ』というやつが、ほとんど全市を疑惑のどん底へ突きおとすに至るまで、ずっと続いたのであるが、その経緯については、間もなく読者も知られることとなろう。(上巻、p.29)

 

 ここでいう「客」とは、チチコフのことである。

 奇怪な本性? 企み? 疑惑のどん底? なにそれー。気になるー。と、夢中になって読み進めた。 

 チチコフの企みとは何か。

 それは、戸籍上は生きていることになっている死んだ農奴たちを買い集めることである。農奴とは、「ヨーロッパ封建社会で、領主に従属して賦役・貢納その他の義務を負い、生産労働の大半をになった農民。農耕具などの私有は許されたが、転住や転業は厳禁された」というものらしい(大辞泉)。

 戸籍上は生きているとはどういうことかというと、国が管理する農奴の台帳みたいなものがあって、その台帳は何年かに一度の割合で更新されるのだという。その間に亡くなった農奴は、次の更新までには、戸籍上は生存している、ということになり、領主は毎年、その亡くなった農奴分の税金を支払わなければならないのだという。領主からしてみたら、払いたくないですよね。嫌ですよね。

 だから、そんな死んだ農奴を譲り受けますよー、なんなら買いますよー、もちろん税金はこちらで払いますよー、というチチコフの提案は、領主にとっては悪い話ではないはずである。けれども「死んだ農奴を譲ってもらう」という考え方があまりにもとっぴ過ぎて、チチコフから申し出を受けた領主たちはみな、まごついたり、疑ったりする。

 しかしそこは天才的詭弁家チチコフ、巧みな話術で何とか言いくるめるのだが、次第にほころびが生じはじめて……。

 そもそも、死んだ農奴を買い集めて、チチコフは何がしたかったのか。彼がやろうとしたことは、詐欺である。戸籍上は生きている大量の農奴を担保に、銀行から莫大な資金を引き出そうとしていた。なぜ、そんなことをしなければならなかったのか。

 そんな悪事に手を染めなくても、チチコフはじゅうぶんに稼げたはずである。頭は良いし、機転は効くし、熱心に働けるし。なぜ。

 本物になりたかったからではないか、と私は思う。彼はおそらくその生育環境も影響していると思うのだけれども自分が自分であることを確として感じることができていない気がする。いわばずっと自分は偽物だと思っている。

 だからずっと演技をしているわけですね。

 気難しい教師に認められるにはどうずれば良いかを見抜く洞察力、それを完璧に実行に移す行動力が、チチコフには備わっていたから、彼は、なりたい人物になることができた。

 もちろんその能力は仕事にだって有効なのであり、仕事熱心な優秀な男を完璧に演じることができたし、じっさい見事に演じていたのだけれども、しかしそれは「とある大規模な犯罪を成功させて巨万の富を手に入れるため」だったんですよ。だからなんで悪いことしようとすんの?

 でもその犯罪は成功したんですよ。まあ、ばれて大変な目に遭うんですけれども。で、反省して菩提心でも芽生えてくれたら良かったのに、「次こそは!」と一念発起してチチコフが手を染めたのが、今回の、死んだ農奴詐欺。

 彼にとっての本物とは何なのか。おそらくそれは領主である。

 

(前略)例の肝腎の一件がうまく成功して、まとまった金子をいよいよ手に握った暁にはーーおれもこういう所領の、おだやかな持主になりたいものだという思いが頭にうかんでくるのであった。(下巻、p.49)

 

 このくだりでチチコフは「美人な妻と、可愛い子供もいてさー」と妄想してから、こう続ける。

 

 それでこそ自分というものが、決して影や幻のようにこの世を過ぎ去ったのではなく、ちゃんと実際に生き、かつ存在していたことを世人に認めさせ得るゆえんであり、祖国に対しても何らやましくないわけである。(下巻、p.49)

 

 明らかにチチコフは強烈な悲哀を抱えていることがわかる、と思い込んでみたい。

 真面目に働いていれば手にいれることができたであろう朗らかな家庭を無邪気に幻視する男が、その実現のために、凶悪な詐欺を成功させようとして全身全霊を注ぐ。矛盾しているようだが、おそらくこの行動原理には、彼が根源的に抱えている大いなる悲しみが作用しているはずで、それは、きっと、この長大なる物語の中でやがて詳しく語られていくはずだったのではないでしょうか。

 それはさておき、本物になるために、偽物=死んだ農奴を利用するというチチコフの企ては見方を変えれば、フィクションであるところのこの小説(偽物)を、本物、にしようという作者の企てと重なると言えなくもない。作者にとっての本物とは何かといったら、それはですね、ええと、何なんでしょうね。わからない。

 

 その円頂角の頂きにはそれぞれ透し彫を施した金色の十字架が、やはり透し彫を施した金色の鎖に支えられて立っていたが、なんの支えもなしに、かかっている金色は、遠目には空中に浮かんでいるように見え、輝いていた。(下巻、p.6)

 

 教会のてっぺんに金色の十字架が立っていて、しっかりと鎖で支えられているんだけれども、遠くから見ると、支えなしで浮かんでいるように見えた。そして、それら教会の屋根や十字架や木々なんかが、「頂きを逆さにして、河に映って(下巻、p.7)」いて、「その眺めも非常によかった(下巻、p.7)」けれども、「邸の高楼から遠く平野を見晴らした眺めは更に良かった(下巻、p.7)」のだという。

 浮かんでいる(ように見える)十字架、が水面に映されている様子、という二重にフェイクになっている景色と対比するように並べて語られる、平野の眺め、っていうのは、勘繰っちゃいますよね。フェイクとリアルが等しく並べられているこの感じ。死者を生者として扱う感じ。偽物を本物にする感じ。下巻の終盤では大量のフェイクニュースが撒き散らされ市は大混乱に陥り、「どこの馬の骨とも分らぬ浮浪人(p.229)」「今に百姓がみんな地主になって燕尾服を身につけ、これまでの地主は(中略)百姓になりさがる時が来る(p.229)」という風説を流布したためにそこらじゅうで百姓一揆が勃発している。

 この浮浪人が単なる脇役なのか今後の重要人物なのかは分からずじまいだが、この浮浪人のいう地主とはつまりチチコフのいう領主であり、領主こそがチチコフのなりたかった本物なのだとしたら、浮浪人の予言(なのか預言なのか)は、「本物が偽物になり、偽物が本物になる」と置き換えることができなくもない気がする。

 そしてこの偽物が本物になるという考え方は、同じく下巻の終盤で、チチコフが涙ながらに「自分は駄目な人間だ。駄目なんですよ。もうどうしようもないんですよ。自分は反社会性なパーソナリティの持主で、もう駄目なんですよ」みたいなことを述べる場所で、彼を諭そうとする老人の言葉にも出てくる。

 

「(前略)善に対する愛があんたにないのならーーでは、愛はなくても無理矢理にでも善を行いなさい。(中略)そのうちには愛が生まれるからね。ちゃんとそういう具合になることを信じなさい。(中略)ひたぶるに力ずくでそれに到達するのだ……力ずくで到達して、力ずくで手に入れなければ駄目じゃよ。(下巻、p.220-221)」

 

 偽物からでも本物を生み出すことはできる。それは、お金とかではなくて、愛のことなのであり、お前はその愛を手にいれるために死ぬ気で善いことをしろ。お前はもう詐欺とかするなっ。

 という熱い言葉を老人から頂戴したチチコフは感涙し、「自分はもう生まれ変わった。真面目に生きる」みたいなことを思った次の瞬間には、舌の根も乾かぬうちにと申しますか、ねえ……。

 とにかく市は大混乱のさなか、悔悛しかけたチチコフの心は一瞬で出荷状態に戻り、さあこれからどうなる、革命は起きるのか、というところで物語は唐突に途切れて終わる。作者が死ぬ前に原稿を暖炉に投げ込んだんですって。

 本物と偽物が等価であること、あるいは反転しうること、あるいは偽物からこそ本物は生まれるのだそれを力ずくでゲットするのじゃ、みたいな物語の辿り着いた先が、作者によって焼却されるという圧倒的な現実であるということに、私は、呆然としているのであります。

 

岡倉覚三『茶の本』村岡博訳

 茶、について知りたいと思った私は、茶のことを教えてくれる本を探して書店をうろついていたところ、この本を見つけた。手にとって表紙をめくって見ると、幕末の志士のごとき鋭い眼光を持った男性の巻頭グラビアがあり、著者だという。かっ、かっこいい、もう絶対この本おもしろいに決まってるじゃん、と私は思った。

 それで読んでみると、たしかに書名の通り、この本は、茶、茶道、茶の湯について書かれてはいるのだけれども、それはそれで知らないことばかりでとても勉強になるし興味深いのだけれども、それらよりも、私は著者の「茶」というフィルターを通して語られる世界のとらえ方というか、考え方にとにかく興奮した。うおー、となった。感動のあまり、茶の間でくつろいでいた妻子らの前で「定義は常に制限である。『一定』『不変』は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく『聖人はよく世とともに推移す』」(p.43)と音読したりした。反応はなかったが、この43ページのくだりから始まる一節は、もう本当に最高ですよ。一刀両断、って感じ。

 

われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。(中略)おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。(p.43)

 

 この調子でばさり、ばさり、と斬り倒していく。引用はほんの一部です。詳しくはぜひ本書を手にとって読んでください。そしてこのくだりは次のように幕をおろす。

 

男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。(p.46)

 

「映え」に拘泥することが当たり前になった現代を生きる我々に届く、120年前からの痛烈な問いかけ。著者の写真を見て、維新の志士みたいなだなあと思ったが、刀で人を斬らずとも、言葉や考え方で、人や世界を(時空をも超越して)斬ることが可能なのであり、本書は、そのことをもっとも鮮やかに教えてくれる作品のひとつだと思う。

 それと、著者は怖い顔をしているけれども、とてもやわらかい気持ちの持ち主だったのだろうなあと思う。印象的な次の文章が、そのことを表している。

 

まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。(p.31)

安部公房『方舟さくら丸』

 昔の偉い人が書いたセリフに「フェイクにはフェイクの良さがある」みたいなものがある、と専門家の人がラジオで話しているのを先日、耳にした私は、やっぱ偉い人っていうのは偉いなあ、しみじみとそう思った。引け目と居直りをシニカルにコーティングしたものでぶん殴られた気分で、「なんですか、なんなんですか、あなた」とたじろがずにはいられない、そういうセリフを書いた昔の人っていうのは、やはり、偉いよ。

 

 たしかに発明ではある。しかし夢がない。(p.26)

 

「夢だけじゃ、どうしょうもないよ。ナイフもいるし、拳銃もいるし、便器もいる」サクラが急に立ち上った。(p.399)

 

「空気もいるよ」女がぼんやり繰り返す。(p.399)

 

『方舟さくら丸』はフェイクにまみれた小説だと思う。胡散臭い、偽物&偽者ばかりが登場する。ユープケッチャは偽昆虫、野犬を追い払うために偽の鳴き声を用いたり、そもそも作中で船と呼ばれている存在は「船」ではないし、主人公の男が嫌っている方の自分のあだ名「豚」は、猪を家畜化した動物=フェイクなイノシシだとも言える(ちなみに主人公が好んでいる方のあだ名は「もぐら」です)。そんな「もぐら」の「生物学上の父親」は「猪突(いのとつ)」と呼ばれている。

 おそらく「もぐら」は、父親という圧倒的にリアルな存在を、生物学上の父親と称することで、可能な限り無味乾燥にして、生々しさを排除しようとしている。彼にとってとにかく憎むべき存在みたいだから。でも、しかし、「猪突」は「もぐら」のフェイクであり、また、「もぐら」は「猪突」のフェイクでもある、その関係性からは抜け出せない、みたいな展開もあったりして、じゃあ、もう、本物って、なんなんでしょうね。

 

「立体地図に、ユープケッチャか……君って、徹底して偽物好きなんだね」(p.313)

 

 騙してもいいから、楽しませてほしいものだと思う。その点ユープケッチャは違う。これはまぎれもない玄人の作品だ。(p.40)

 

 嘘って何だろう。私は生まれてこのかた一度も嘘をつかずに四十三年、生きてきたので、嘘をつく人の気持ちっていうのがわからないのだけれども、小説っていうのも、嘘ですよね。嘘のかたまり。閉じた世界。

 その閉じた世界の登場人物=主人公の「もぐら」が、外界から完全に隔絶された核シェルターとしての方舟の建造を夢見る。船と呼ばれているその洞窟的空間には、侵入者対策で幾重にも罠を張り巡らしたりして、万全のように思えたが、でも、実際はほころびだらけだったということが徐々に明らかになっていく。どだい無理な話なのだ、完璧に閉じた安全な空間なんて。そもそも、人は自分の糞を栄養源として食すことができない。ユープケッチャとは違うのだ。

 

「核シェルターを運営するための、三つの基本条件、知ってる。第一は糞便の処理、第二は換気と温度の管理、第三が組織の運営なんだってさ」(p.269)

 

 人が集まれば、物が集まり、物が集まれば、人が集まる。やがて廃棄物の始末が問題になってくる。糞尿、ゴミ、それに死体。(p.222)

 

 理想の汚物処理場は、つまり未来の都市のヘソの緒ってことです。(p.223)

 

「もぐら」のシェルターには、理想的な汚物処理の装置が備わっているかのように思えた。何でも流せる便器である。超強力な水の勢いで、ゴミとか屎尿とか六価クロムとか死体とかなんでも流してしまう。しかしこの理想的便器だってフェイクである。嘘である。その流れの先には海がある。海を汚している。「もぐら」もそのことは知っている。自分の目の行き届かないところで、何かが傷つき、汚されている。それをフェイクで覆い隠すべきではないし、隠せるはずもない。やがてその便器は、突発的事故により封印される。こともあろうに「もぐら」自身の手によって、というか脚によって。ヘソの緒なき閉鎖空間に生まれる、排泄物、うんざりするような組織、死体、狂気。そして彼らは、何を考え、どのような行動を取ったのか。ヘソの緒を断たれた「もぐら」は、生まれ直したのだろうか。

 

 一瞬前からそれがスカートではなく、ゴム引きの作業用前掛であることに気付いていた。(p.440)

 

 にせものにはにせものの良さがある、と居直るのか、サクラのように嘘だと分かっていても信じたふりをするのか。そのどちらかしかないのだろうか。本物とは何なのか。「もぐら」が終始一貫して抱き続けたサクラの女への劣情は、本物だったはずだよ、と私は思う。

 夢を失った「もぐら」が見た現実は、透き通っていて、というか自分自身も透けていて、現実を現実たらしめるためにはやはり欺瞞ではなくて夢が必要なのではないか、リアルでもフェイクでもない、第三の存在としての、夢が、必要になってくるんじゃないですか、ね。ね。そうですよねっ。うるせえなそれくらい自分の頭で考えろよ、と無言でぶん殴ってくるような誠実なエンディング。