Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

岡倉覚三『茶の本』村岡博訳

 茶、について知りたいと思った私は、茶のことを教えてくれる本を探して書店をうろついていたところ、この本を見つけた。手にとって表紙をめくって見ると、幕末の志士のごとき鋭い眼光を持った男性の巻頭グラビアがあり、著者だという。かっ、かっこいい、もう絶対この本おもしろいに決まってるじゃん、と私は思った。

 それで読んでみると、たしかに書名の通り、この本は、茶、茶道、茶の湯について書かれてはいるのだけれども、それはそれで知らないことばかりでとても勉強になるし興味深いのだけれども、それらよりも、私は著者の「茶」というフィルターを通して語られる世界のとらえ方というか、考え方にとにかく興奮した。うおー、となった。感動のあまり、茶の間でくつろいでいた妻子らの前で「定義は常に制限である。『一定』『不変』は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく『聖人はよく世とともに推移す』」(p.43)と音読したりした。反応はなかったが、この43ページのくだりから始まる一節は、もう本当に最高ですよ。一刀両断、って感じ。

 

われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。(中略)おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。(p.43)

 

 この調子でばさり、ばさり、と斬り倒していく。引用はほんの一部です。詳しくはぜひ本書を手にとって読んでください。そしてこのくだりは次のように幕をおろす。

 

男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。(p.46)

 

「映え」に拘泥することが当たり前になった現代を生きる我々に届く、120年前からの痛烈な問いかけ。著者の写真を見て、維新の志士みたいなだなあと思ったが、刀で人を斬らずとも、言葉や考え方で、人や世界を(時空をも超越して)斬ることが可能なのであり、本書は、そのことをもっとも鮮やかに教えてくれる作品のひとつだと思う。

 それと、著者は怖い顔をしているけれども、とてもやわらかい気持ちの持ち主だったのだろうなあと思う。印象的な次の文章が、そのことを表している。

 

まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。(p.31)

安部公房『方舟さくら丸』

 昔の偉い人が書いたセリフに「フェイクにはフェイクの良さがある」みたいなものがある、と専門家の人がラジオで話しているのを先日、耳にした私は、やっぱ偉い人っていうのは偉いなあ、しみじみとそう思った。引け目と居直りをシニカルにコーティングしたものでぶん殴られた気分で、「なんですか、なんなんですか、あなた」とたじろがずにはいられない、そういうセリフを書いた昔の人っていうのは、やはり、偉いよ。

 

 たしかに発明ではある。しかし夢がない。(p.26)

 

「夢だけじゃ、どうしょうもないよ。ナイフもいるし、拳銃もいるし、便器もいる」サクラが急に立ち上った。(p.399)

 

「空気もいるよ」女がぼんやり繰り返す。(p.399)

 

『方舟さくら丸』はフェイクにまみれた小説だと思う。胡散臭い、偽物&偽者ばかりが登場する。ユープケッチャは偽昆虫、野犬を追い払うために偽の鳴き声を用いたり、そもそも作中で船と呼ばれている存在は「船」ではないし、主人公の男が嫌っている方の自分のあだ名「豚」は、猪を家畜化した動物=フェイクなイノシシだとも言える(ちなみに主人公が好んでいる方のあだ名は「もぐら」です)。そんな「もぐら」の「生物学上の父親」は「猪突(いのとつ)」と呼ばれている。

 おそらく「もぐら」は、父親という圧倒的にリアルな存在を、生物学上の父親と称することで、可能な限り無味乾燥にして、生々しさを排除しようとしている。彼にとってとにかく憎むべき存在みたいだから。でも、しかし、「猪突」は「もぐら」のフェイクであり、また、「もぐら」は「猪突」のフェイクでもある、その関係性からは抜け出せない、みたいな展開もあったりして、じゃあ、もう、本物って、なんなんでしょうね。

 

「立体地図に、ユープケッチャか……君って、徹底して偽物好きなんだね」(p.313)

 

 騙してもいいから、楽しませてほしいものだと思う。その点ユープケッチャは違う。これはまぎれもない玄人の作品だ。(p.40)

 

 嘘って何だろう。私は生まれてこのかた一度も嘘をつかずに四十三年、生きてきたので、嘘をつく人の気持ちっていうのがわからないのだけれども、小説っていうのも、嘘ですよね。嘘のかたまり。閉じた世界。

 その閉じた世界の登場人物=主人公の「もぐら」が、外界から完全に隔絶された核シェルターとしての方舟の建造を夢見る。船と呼ばれているその洞窟的空間には、侵入者対策で幾重にも罠を張り巡らしたりして、万全のように思えたが、でも、実際はほころびだらけだったということが徐々に明らかになっていく。どだい無理な話なのだ、完璧に閉じた安全な空間なんて。そもそも、人は自分の糞を栄養源として食すことができない。ユープケッチャとは違うのだ。

 

「核シェルターを運営するための、三つの基本条件、知ってる。第一は糞便の処理、第二は換気と温度の管理、第三が組織の運営なんだってさ」(p.269)

 

 人が集まれば、物が集まり、物が集まれば、人が集まる。やがて廃棄物の始末が問題になってくる。糞尿、ゴミ、それに死体。(p.222)

 

 理想の汚物処理場は、つまり未来の都市のヘソの緒ってことです。(p.223)

 

「もぐら」のシェルターには、理想的な汚物処理の装置が備わっているかのように思えた。何でも流せる便器である。超強力な水の勢いで、ゴミとか屎尿とか六価クロムとか死体とかなんでも流してしまう。しかしこの理想的便器だってフェイクである。嘘である。その流れの先には海がある。海を汚している。「もぐら」もそのことは知っている。自分の目の行き届かないところで、何かが傷つき、汚されている。それをフェイクで覆い隠すべきではないし、隠せるはずもない。やがてその便器は、突発的事故により封印される。こともあろうに「もぐら」自身の手によって、というか脚によって。ヘソの緒なき閉鎖空間に生まれる、排泄物、うんざりするような組織、死体、狂気。そして彼らは、何を考え、どのような行動を取ったのか。ヘソの緒を断たれた「もぐら」は、生まれ直したのだろうか。

 

 一瞬前からそれがスカートではなく、ゴム引きの作業用前掛であることに気付いていた。(p.440)

 

 にせものにはにせものの良さがある、と居直るのか、サクラのように嘘だと分かっていても信じたふりをするのか。そのどちらかしかないのだろうか。本物とは何なのか。「もぐら」が終始一貫して抱き続けたサクラの女への劣情は、本物だったはずだよ、と私は思う。

 夢を失った「もぐら」が見た現実は、透き通っていて、というか自分自身も透けていて、現実を現実たらしめるためにはやはり欺瞞ではなくて夢が必要なのではないか、リアルでもフェイクでもない、第三の存在としての、夢が、必要になってくるんじゃないですか、ね。ね。そうですよねっ。うるせえなそれくらい自分の頭で考えろよ、と無言でぶん殴ってくるような誠実なエンディング。

 

追憶のグリーンカード

 手順は大事である。たとえば電子レンジで牛乳を温める時は、電子レンジのドアを開ける、庫内に牛乳の入った容器を設置する、ドアを閉める、温めボタンを押す(好みによって自分で稼働時間を細かく調整してもよい)、このような手順を経て、はじめて私たちはホットミルクを飲むことができる。これがね、誤った手順を踏むと、たとえば温めボタンを押してからドアを開いて、牛乳の入った容器を庫内に設置してからドアを閉じたところで、牛乳は温まらない。

 ウェブ上で色んなところにログインする時にも、手順、大事ですよね。まずはアカウント名(あるいはメールアドレス)とパスワードを入力してログインボタンを押すと、登録してあるメールアドレスに短時間で効果が切れる認証番号的なものが送られてくるので、その番号を、大急ぎでブラウザ上の入力フォームに打ち込んで、そうして初めてログインできるようになっている。こういう面倒臭い手順を踏むことで、不正アクセスされないようにしているわけですね。手順、だいじ、だいじ。

 木から離れたリンゴがやがて地面に触れて砕ける、というのもある意味、物理的な手順を踏んでいる。生老病死も、会者定離も、宇宙的な手順に則っているのであり、私たちは、手順に縛られて、あるいは、手順に守られて、存在している。

 だから、ふとしたきっかけで、意図せずしてその手順を踏んでしまったがために、結果的に他人の人生に不正アクセスしてしまうなんてことが起こる。

 おさなごが突然、老婆の声で不気味なわらべ唄を歌い出したのち、「喜助ゆるすまじ」などと苦しげに呟くなんてことがよくあるけれども、そんな時に周囲の人たちは「わー前世の記憶だー」とか「誰かの生まれ変わりだー」とか「天才子供だー」などと囃し立てて、興味本位でおさなごに色々と尋ねてみたりして、そうするとおさなごも老婆の声のまま「自分は、ちよ、という者でどこどこの国のどこどこという村に住んでいたのだが、喜助、というクソジジイに逆恨みされて毒を盛られて死にました。これほんとの話なので、一度、村に来て物知りの長老にでも聞いてみてください。お墓もあります。お墓は、なになに寺にあって、寺の場所はどこどこ村のなになに川の橋を渡った先に見える……ちょっと説明、難しいので、今からお寺の電話番号言いますからカーナビかGoogleマップで調べてみてください」みたいなことを言い、調べてみると実際にその寺は存在していて、かつ、ちよ、という人の墓も実在していたりするが、これは不思議なことでもなんでもない。ただ単に、ちよの人生に不正アクセスしただけの話なのだ。偶然に、ちよと同じ人生の手順を踏んでしまったがために。

 人生の手順、などというと大袈裟だけれども、同じ行動、っていうんですかね。過去と現在と未来が同時に存在しているという考えを前提にしてですが、何歳の時の何月何日の何時何分に何々商店でヤクルトを買う、みたいな手順を、二十年くらいの時間をへだてて二人の人物が取ったとしますよね。そうすると、こう、カチっと、手順が重なって、現在と過去、あるいは未来が、繋がっちゃう気がするんですよね。リンクするというかシンクロするというか、同期するというか。大人なんかは基本、そういう回路はすでに死んでいるので、過去あるいは未来とシンクロしようが現在の自分にはなんの影響もないわけですが、おさなごはね、結構ダイレクトに別人格が混線しがちだと思うんですよ。また、七歳くらいまでの小さい子供なんていうのは昔も今もできることは限られているものだから、同じ手順を踏んでしまう確率も当然、多くなるのだねえ。きっとそうなんだねえ。

 などととち狂った考えを私が抱くようになったのは、今年の一月に、『グリーン・カード』という映画を観たからである。この映画は、グリーンカード、と呼ばれるアメリカの永住権を手に入れるために、とある男女が偽装の夫婦を演じるという、ごめん、二月だった。この映画を観たのは一月じゃなくて二月だった。で、そうやってフェイクな夫婦を演じて国を騙そうとするのだけれども……みたいな話で、『SPY×FAMILY』っぽくてけっこう面白そうだと思われるかもしれませんが、『SPY×FAMILY』の方が5兆倍以上面白いよ。

 なぜ『グリーン・カード』を観ようと思ったのかというと、それは今から四半世紀くらい前、私が高校生の時に、担任のI先生が「これ絶対に面白いから観た方がよい」と言って、何かの時間にクラス全員が観させられたことがあって、現在の私はその映画の内容をまったく覚えていなくて、面白かったという記憶もないのだけれども、四十二歳中年男性に成り果てたいま、ふたたびその映画を観てみたら、案外、面白かったりするのではないかしら、大人になってわかる良さ、というものがこの宇宙には溢れておりますもの、と考えたからである。よし、本気で観よう。

 そうやって気合を入れてこの映画を観始めたのだが、開始十分くらいで、少し注意が散漫になってきて、気がつくとスマホを手に取りエス・エヌ・エスを漫然と眺めていた。

 一時間くらい経過した頃だろうか、テレビからやかましい音が聞こえてきて、何事ぞ、と顔をあげると、主人公の男がピアノの鍵盤を狂ったように叩いていた。うるさいなあ静かにしてくれよ、と思ってスマホの液晶画面に顔をおろした時、私は、あ、と思った。高校生の時の私も、おそらく、同じ場面で同じリアクションを取っている。当時はスマホなんて存在しないから、何かの本を読んでいたか、ノートに奇怪な文章を書き殴っていたかのどちらかだと思うけれども、この主人公が騒ぎ立てる場面で私はたしかに、顔をあげ、そして顔をおろしたのだと思う。つまり過去と現在の私が同じ手順を踏んだのである。この時、当時の私の気分的な何かが私の頭の中に繋がってその姿が垣間見えた気がして、ちょっと待ってそれもっと詳しく観察させて、と思った次の瞬間には跡形もなく消えていた。あはは、大人になるってこういうことなんだねえ、と思ったよ。

 という話を、先日、高校時代に同級生だった友人たちと会った時にしようと思って、「ねえねえ、担任のI先生から『グリーン・カード』っていう映画、観せられたことあったでしょ」と切り出したら、皆、口を揃えて「そんな映画、観たことない。貴殿の思い違いではないか」と言うのだった。たしかに、そう言われてみると、私も当時、そんな映画を観たことはないような気がしてきたのである。

 

松尾潔『松尾潔のメロウなライナーノーツ』

 2025年11月16日にNHKラジオ第2で放送された『こころをよむ 日本を見つめる巨人 折口信夫 第7回 かそけき詩人、怒りの詩人』を聴いていたら、講師の上野先生が、「創作、批評(評論)、研究」の三つについて、次のように整理していた。

 

 創作=小説・詩を書く

 

 批評(評論)=どこが良いか、良くないか、

        こう読まれるべきではないか、と言う。

 

 研究=正しいか、正しくないか。作品がいつ出来て、どういう表現があって、

    どのようになっているか。

 

 それで、この三者の緊張関係が重要、馴れ合いは駄目ですよー、と話していた。その頃、私は本書『松尾潔のメロウなライナーノーツ』を読む日々を送っていたので、では、ライナーノーツは創作・批評(評論)・研究の三つのどれに当てはまるのだろうかと考えた。大まかに見れば、三つ全てを包含しているようにも思えるし、厳密に分類するならば、どれにも当てはまらないようにも思える。

 広告・宣伝のための文章なのかというと、それも正確ではないだろう。なぜならCDに付属しているライナーノーツを読む人は、すでに、その商品(CD)を買っている人だからである。美辞麗句を並べ立てて「買ってねー!」という趣旨のもとに書かれている文章ではないのだ。

 だから、つまり、ライナーノーツとは、「CDを買った人が欲する情報を提供し、満足させる」ための文章、ということになるのではあるまいか。そしてそれは、創作的であり、批評(評論)的であり、研究的でもある、と私は思った。そして緊張感もある。馴れ合おうと思えばどこまでも馴れ合ってしまいそうな感じがするライナーノーツだけれども、本書の文章は、緊張感、ある。それは著者の音楽に対しての誠意によって保たれている緊張感だと思う。

「いやライナーノーツに創作的要素はないでしょう」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、たとえば本書に収録されているジェイムズ・ブラウン『Living In America』の文章なんかは極めて創作的だと思う。そしてこの創作的ライナーノーツによって、ひとつひとつの曲紹介では伝えるのが難しいであろうこの傑作アルバムが持つ「熱量」という情報が伝わってくるのである。そして、このように、おそらく松尾潔さんは作品によって「今回の場合はこういう書き方にするのが一番良い」と判断して毎回、戦略を変えている。だから本書に収められているライナーノーツの文章は、「同じ人が書いてるの?」と思うくらい、それぞれスタイルを変えて、言葉を変えて、肩書を変えて、書かれている。すごいよ。

 そしてさらにすごいと思うのが、このライナーノーツというものは、どうも、執筆時に、あまり十分な情報が手元にないらしい、という点である。情報がないのに、「CDを買った人が欲する情報を提供し、満足させ」なければならないという、無理な話が、膨大な知識とセンスと文章によって成り立っている。これはほんとすごいことだと思う。魔法的だと思う。以前、松尾潔さんは、たしか『メロウな日々』か『メロウな季節』を刊行した時のインタビューだったと思うのだけれども、「ライター時代は、痒いところに手が届く文章ではなく、痒くないところを痒がらせてからそこを掻くような文章を心がけていた」というようなことを語っていて、私はものすごく心を打たれたのだが、それは、おそらく、本書に収められているライナーノーツ群の中でもとりわけ、情報不足の中で書かれたものに、その技が光っているような気がする。たとえば、ドゥルー・ヒル(Dru Hill)というグループの作品について書かれたライナーノーツ。まあ、普通に面白く読み終えて、最後に付された「2025年追記」を読んで、私は愕然としました。そこには「とにかく情報が乏しかった。メンバーの名前も知らされないままの執筆だった」というようなことが書かれていたからです。「えっうそ!?」と思って読み返してみると、たしかに、メンバーの名前が出ていない。でも、最初に読んだときはそんなのまったく気にならなかった。ね、魔法的でしょう。

 私の本書の楽しみ方は、まず、読み物として最初から最後まで読んで、その後、一番最初の作品から順番に聴いていく。そのために私はスポティファイを契約した。おい、そこはCDで聴くんじゃねえのかよ、ライナーノーツ文化が何のために失われつつあるのか知っているだろうよ、サブスクのせいだろうよ、と思うのだけれども、しかし、CDで全部揃えるというのは、今の私には容易ではない。すいません。全部、聴き終えたら、スポティファイは解約して、少しづつCDを買い集めて行こうと思っています。

 それで、そうやってスポティファイで「メロウなライナーノーツプレイリスト」を作成し、職場への往復の車の中で聴いて、「いいなあ」と思った曲やアルバムについては(もちろん、ぜんぶ好きなのだけれども)、家に帰ってから本書の該当する部分を読み返す。特に大好きだと思った曲については「いい曲」というプレイリストに加えたりもしている。楽しいです。スポティファイで探せない作品については、同ミュージシャンで発表年が近い作品を代わりに聴く。そのやり方で現在、41作目のSurfaceのベストアルバムまで聴いてきて、いまのところロリ・ゴールド以外は何とかなっている。ロリ・ゴールドは、CDはかなり入手困難盤で、サブスクにもないし、いつかどこかの中古屋での邂逅を待つしかないのかもしれない。聴きたいなー。

 

売野雅勇『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』

 中谷美紀坂本龍一売野雅勇。この三者の名前がクレジットされている楽曲群には何か共通する世界観のようなものが感じられて、私はそれに強烈に惹かれていた。最高だなあ、素敵だなあ、この横溢する魔力の源泉はなんなんだろうなあ、と思いながら、もう三十年近く愛聴している。

 

 この本には作詞家・売野雅勇さんのキャリア初期から現在までが述べられている。副題にもある、80年代歌謡曲黄金時代について、私はあまり詳しくなくて、だから大量に出てくる固有名詞についても、知らない人の方が多いわけだけれども、しかしそんなことはまったく問題にはならない。

 なぜならこの本の魅力は、ちょっと不思議な感じのたたずまいを持つ(ように私には思える)若者=著者が、初めて作詞の仕事を手がけるようになってから、苦労しつつも、魅力的な様々な人物たちとの出会いを通して、ヒット曲を手がけるようになってヒュージなサクセスをゲットする過程が描かれているところにある、と私は思うからである。だから固有名詞を知らなくても、面白いよ。知ってたら、もっと絶対に面白いでしょう。

 

 それで、景気の良い時代の話でもあるし、さぞきらびやかなんでしょうなあ、キンラメNightなことでしょうなあ、と思いつつ読んでみると、確かに、バブリーでゴージャスでゴールデンな世界を著者は生きていたはずなのに、なんだかあまり(まったく)浮かれた感じがしない。淡々としている。ツヤ消し感、ある。熱狂する世界とのこの独特な距離感に、私は感動した。なぜなら「美しいすべては恐ろしさの前触れ」とか「ファシストの靴音、君だけに聞こえる」とか「明け方に見つけた虹はどこか不吉」といった歌詞は、間違いなくこの著者の独特な間合の取り方から生まれてきたと思ったから。

 

 しかしそのような魅力的な歌詞が生まれた背景はそれだけではなかった。坂本龍一さん、中谷美紀さんの存在があったからこそだったのだ。

 著者は「MIND CIRCUS」の作詞作業のくだりで、次のように述べている。

 

 いままで詞を書くときには経験したことがなかった、イマジネーションを束縛するものから解放されたような感じがした(p.214)

 

 そして、言葉の選択が間違っていなくて一定のレベルを超えてさえいれば、かなりの自由さがあるということが、解放感を感じる原因ではなかったかと思った。

 ぼくが感じた自由とは、何を書いても歌になるということだった。

 これが、坂本龍一なのだ。と、ぼくは確信した。(p.214)

 

 たとえば私は「WHERE THE RIVER FLOWS」という曲に、「香水工場」や「貯水池」という言葉が出てくることに大いに感動を覚えていたのだけれども、これは、著者のいう、自由、がもたらしたものだったのだ、と思う。「STRANGE PARADISE」の「飾り窓」や「街路樹」や「桟橋」も、そうなのだろう。「未来さえも想い出の中にある」も、「天国より野蛮」の「岸辺で君を抱きしめると気が触れそうな気持ちになる」も。「汚れた脚」の「白い夏服着た笑顔たちの透明な悲しみが並ぶ写真」も。

 語り出すときりがないし、こういうことをやるとジャスラックという人から殺されるという話を聞いたことがあるので、もうやめます。とにかく、自由。この楽曲群の歌詞世界の魔力の源泉には、坂本龍一さんの音楽がもたらす自由があった。中谷美紀さんも、ただ与えられた歌詞を歌うだけではなくて、かなり真剣にかつ謙虚に、著者に歌詞についての意見を述べていたことにも本書では触れられていて、ああこの名作たちはこのようにして生まれていったのか、と私は感動しました。「砂の果実」がひとつの直しもなく採用されていたことにも驚きました。

 近年、「心が折れる」という言い回しをよく聞く。心って棒状なのかな、と私は思うので一度もその言い回しを使ったことはなくて、私はそういう気持ちを言いたくなった時は、「心が負ける」と言うことにしている。「MIND CIRCUS」からの受け売りですけどね、へっへっ。そして私はいまだに愛を信じている。本当だよ。

 

ノンアルコールビールCM考

 酒を飲まない(飲めない)ので、酒に関する興味・関心も特になく、だからなのだろうけれども、人々が酒を飲むために集う空間における作法というか、適切なふるまいがわからなくて、本やインターネットなどで調べて酒席マナーを身につけなければならなかったのでしょうが、面倒くせえ、俺にはもっと他にやらなければならないことがあるんだよ、と真面目に向き合おうとせずに、巨大ヘビvs.巨大ワニみたいな動画ばかりみて生きてきて気がついたら42歳になっていた。

 そういう酒の集いでは自明の理みたいなものがあり、お酒の好きな人たちは、それを当然のこととして気脈を通じ合わせているように思える。

 例えば、最初に飲み物を注文する時、私はカルピスとかミロとかが飲みたいなーと思ってそれを告げると、周囲の人から妙にぎこちない反応をされることが多々あった。ここにも何か作法があるのだろう。

 それで他の人たちを観察してみると、みんな、判で押したように、ビールで、ビールで、ビールで、ビールで、と言っているので、おそらく、最初はビールを頼むべきなのだろう。でも、そういう作法があるのだったら、もうはじめから「みなさんビールでいいですねっ」と強制的にビールを注文させられた方がよくない?

 自由な意思を尊重しています、という体で個別に注文を受け付けておきながら、ビール以外の飲料を頼んだ人に「えっ(うそだろまじかよ)」みたいな反応を示すのは、良くないと思いますよ。だったら聞かないでくださいよ、俺はホットミルクが飲みたかったからそう言っただけで、じゃあ何を頼めば良いんですか。ビールですか。ですよね。じゃあ、ビールで。

 そういうしきたりがあるのなら、最初からそう言って欲しかった。じゃないとわからないよ。

 ノンアルコールビールのCMにも、同じような「何が言いたいのか良くわからない感」がある。

 ノンアルコールビールのCMは、どれも同じように見える。

 新製品のノンアルコールビールを手にした人が、はじめは小馬鹿にしたような表情でいるのだけれども、その新製品をひとくち飲むやいなや、カッと目を見開き、ある者は驚き、ある者は戸惑い、ある者は笑い出す。そんなものばかりである。これはなんなのか。なぜ、どれも同じになるのか。私は寝ずに考えた。

 思うに、ビール好きの人たちにとって、ノンアルコールビールとは、当たり前に美味しくないもの、という認識があるのではないか。だから皆、新製品を「美味しいですよ」と勧められても、「ははっ、んなわけねーだろ馬鹿、殺すぞ」みたいな表情をするのではあるまいか。

 その上で、飲んでみたら思いのほか美味しかった、というのを表現しなければならないから、どのメーカーのCMも、「まずいと思って飲んでみたら美味しい」と同じような作りになるのだろう。

 ここでは「ノンアルコールビールはまずい」という事実が自明の理として隠蔽されていて、だから、ビールを飲まない私からしてみたら、何が言いたいのかわからない、もどかしいコマーシャル映像になる。

 でも、しょうがないんだろうなとも思った。もしかしたら、こういう言葉は使って駄目、みたいな法的な規制もあるのかもしれない。そしてそれよりも、これまでの自社商品を頭から否定するわけにもいかないのだろう。

「これまでうちで出してたやつはくそまずかったですけど、今回のこの新製品はすごいうまいですよっ!」なんてね、声を大にして言えないですよね。だからあの小馬鹿にしたような含み笑いで「お察しください」と全てを表現しているのでしょうけれども、あれはあれで、失礼だという気がしないでもないと思いました。

 

木村綾子『本が繋ぐ』

「私」の祖母が、祖父の亡くなった日の夜のできごとについて、幼い「私」の手を握りながら語る場面から、この本は始まる。

 冷たくなった祖父の体に祖母が行った何やら儀式めいたふるまいによって、「祖母は、祖父が死んでしまったことよりも、自分がどうしようもなく生きていることを悟った(p.10)」という。

 ここで生と死の間に極太の境界線が引かれるわけだけれども、しかし、やはり祖母のふるまいは、孫に語り聞かせることで効力を発生する、一種の儀式だったのではないか。「私」が祖母の手を振り払った時、ふいにその瞬間が訪れる。

 

 西の窓に掛けられた伊予簾が、風に吹きあおられて大きく揺れた。その隙間に、雨の降るのを見た。まるで差し伸べるように、手繰り寄せるように、あめつちを繋いでいた。(p.10)

 

 隙間が生じたのである。このあまりにも蠱惑的な隙間の描写に私はもう完全に引き込まれて「じゃ、ちょっと、行ってきます」みたいな感じでこの本の世界に入り込んだ。そこは「あめつちが繋がれた」世界だった。

 それはどういうことかというと、個人の感想ですが、「私」の現在と、過去と、読んだ本の世界が、等しく同時に、継ぎ目なく併存しているということで、こんなことが可能なのかと私は驚き、魅了されました。普通こういうのって、継ぎ目とかが見えるものだと思うのだけれども、ない。パテ処理したみたいな跡も、ない。文章の中にごく自然に、同時に、存在している。

 この「同時感」溢れる文章で様々な本について語られているのを読み進めるうちに、私は、現在と過去に境目なんてなくて、同時に存在しているのだなということに気がつき、さらに、作品世界と自分との間にも、境目はないのだということを知らされる。

 じゃあ、それでは、生と死については。冒頭で祖母によって引かれたこの生と死の境界線を、この『本が繋ぐ』は、どのように取り扱うのだろうか。

 本書の終盤に収録されている「ていねいな暮らし、生活の知恵」と題された文章で、私は、私が勝手に設定した問いについての答えが提示されている気がしました。

 p.166の文章まるごと、何度読んでもうるっとくるのだけれども、ここで「私」は、「ひとり二役」という形で、生死の境界線を鮮やかに取っ払っているように見えました。冒頭で振り払った祖母の手は、この場面において、ふたたび繋がれたのだと私は思いました。さらにこのページでは、200キロメートルという距離さえも超越していて、時間も空間も境目なく同時に存在している感じが最高に格好よいです。

 しかし本書がそういう、うるっとくる話ばかりが収められているかとそうではなくて、ふふ、とか、にやり、といった笑みが思わずこぼれたりするような話も多いのだけれども、私がもっとも感情を揺さぶられたのは「イトケ」の話かもしれない。心をえぐられました。おそらくこの傷は一生消えないことだろう。