Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

町田康『ギケイキ③ 不滅の滅び』

 そして私にとってそれは私によって私自身の魂を鎮めること。死者である私のために私が祈る祈りなのである。だから私は静のことを語ろうと思う。ふるえる声で語ろうと思う。そう、それこそnovelのように。(p.352)



 どうも現代に「いる」らしい源義経が、みずからの生涯を生真面目に語って語って語りまくり、その語りの波というかうねりというかグルーヴというか磁場に飲み込まれて、本から離れることができず、寝るのも忘れて爆笑しながら読み進めるのが私にとっての『ギケイキ』シリーズである。三作目の本作も、義経の語りの渦に身を委ね、最高に楽しくて踊りながら読んだ。

 読んでいて時々、思うのだけれども、義経は、いま、どこにいるのか。そして、なぜ、義経は語っているのか。語らずにはいられなかったのか。

 死者としての義経が、現代に「いる」のは間違いない。世相にやたらと詳しいし、テレビとかもけっこう観ているようである。西湘バイパスの早川ICあたり(p.440)」をよく通ったりもしているらしい。そして通るたびに、昔(八百年くらい前)のことを思い出したりしているというのだ。死んでいるけれど、生活感がある。

 そしてなぜ、語っているのか。『ギケイキ① 千年の流転』の冒頭を読み返してみても、義経はいきなりハルク・ホーガンとか語りだしていて、なぜ語るのかについては触れていない。謎である。と思っていたのだけれども、③を読むと、静について語りたかったというのが理由のひとつっぽいなと思う。義経はたぶん、静という女性について語ることで、八百年越しの無念を、八百年越しの祈りに変えようとしている。

 でも、それで義経の魂は鎮まったのだろうか。少なくとも、③を読み終えた私の魂はちっとも鎮まってないどころか、悲しい気持ち、遣りきれない気持ちが荒ぶっている。義経もきっとそうだろうなと思う。だって、ねえ、③がこんな終わり方をしているのだもの。そしてこの時の、静について語り終えた義経の気持ちを踏まえて、③を振り返ってみると、私の心の中に浮かんでくるのは、様々な爆笑シーンもたくさんあるのだけれども、それよりも、妙に落ち着いた場面が、やたら印象深く思い起こされる。

 

 雪の上の武者の顔立ち。熊笹と杉。折れた矢。血と内臓の匂い。ひとときの静寂。空を渡っていく鳥の声。私はいまでも鮮やかに覚えている。忘れたいけど、忘れられない。(p.29)

 

 こういった、笑いながら読んでいるとたまに出てくる、素な感じの語り。私も忘れられそうにない。

 ④はどうなるのでしょう。この物語のエンディングを読んだとき、はたして私は、笑っているのか、泣いているのか。