Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

松尾潔『永遠の仮眠』

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「光安さん、どうしたんですか、ニヤニヤしちゃって」

 多田羅が怪訝そうに悟の顔色を窺う。

「喉が渇きました。どうです、サシ飲みに付き合っていただけませんか」(p.258)

 

物語は沖縄から始まる。

主人公の光安悟は、沖縄県那覇市のソウルバー『ダイ』のカウンター席で、なんだか凄そうな<菊之露VIPゴールド>という泡盛を飲んでいる。

悟は、この日沖縄であったタレントコンテストのことを振り返る。彼はこのコンテストの審査員を務めていた。

出場した男子小学生に、悟は「辛辣なコメント」(おそらく本音なのだろう)を寄せて、観客から大ブーイングを浴びた。

対して、グランプリを獲得した男子グループに「パクリ寸前の世辞」を寄せると、観客はおそろしく盛り上がり熱狂の渦のようになる。

 

ここではオリジナル(本音)と借り物(ジェネリック的な)の対比が描かれていると私は思う。そして借り物の方がうけるという、歯がゆい構造。

「プロローグ」と題されたこの『ダイ』の場面では、他にもいくつかの対比が登場する。

夏と冬、安っぽさと奥深さ、潔癖と不潔、そして、語ることと語らないこと。

店内ではアイズレー・ブラザースの”Between The Sheets”が流れていて、歌詞を和訳サイトで調べてみると、この曲はどうもかなり濃密な閨房ソングらしいことがわかる。

なので女性と男性という対比も、BGMとしてこの場面に浮かび上がっているとは言えないだろうか。

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ちなみに「夏と冬」については違う人だけど、他の対比は、すべて『ダイ』のママ、ダイちゃん(美人)と悟の会話で登場する。

ダイちゃんは、悟をけしかけるようなことばかり言う。妙に好戦的である。そして、暗示的である。

 

「おかしなものや場違いなものを見つけても、その場では口にしないのが大人でしょう。なのに悟さん、ぜーんぶ言葉で説明しようとしているみたい(p.12)」

 

とダイちゃんは言う。だから悟は「お子ちゃま」なのだという。

ちょっと話が飛躍するけど、ダイちゃんは、この小説のトリックスター的な存在だと思う。なんていうか、「わかっている存在」というか。

彼が睾丸を摘出している=男女のはざまにいて、対比から自由である感じ。

それと、その睾丸をボトルに入れて、カウンター背面の高いところに飾ってある様子を見た何も知らない悟が、ボトルをなんだか神々しく感じて、そこが「神棚かと思った」と錯覚していること。

この二点で、ダイちゃんの、自由で神様的な感じがあらわされている気がする。

そして、ぜんぶ言葉で説明する=お子ちゃま、と釘を刺しているのは、主人公としての悟だけではなく、「この物語の語り手としての悟」に対してもである、と思った。語りすぎるなよ、と。なぜそう思ったのか。それは後ほど。

 

そして悟が猛烈な喉の渇きを覚えるところで、プロローグは終わる。

この、悟の喉の渇き、も気になるところである。

作品中、悟はしばしば喉の渇きを覚える。ここに共通点はないだろうかと私は考えてみた。

たくさんしゃべったから、というのは共通点としてありそうだけど、それよりもむしろ、「悟がなんらかのはざまにいて、そこで何かが生まれそうな時」に彼は物凄く喉が渇くのではないかと思った。「生まれそうな何か」とは、音楽であったり、危うい関係であったり、和解であったり、理解であったり…。

そう考えると、第I部の冒頭で悟がすでに喉が渇いているというのも、寝起き以外に別の理由があるとは言えないだろうか。ここで妻の紗和から告げられた事実で、悟は自分がまさに「なんらかのはざまにいて、そこで何かが生まれそうな時」であることを知るからである。

 

物語は、悟のとある楽曲制作を中心に語られる。

悟がプロデュースすることになったその楽曲は、大人気テレビドラマの続編の主題歌で、それを歌うのは櫛田義人という今は落ち目の歌手。櫛田は過去に悟と揉めたことある。

この楽曲制作がすんなりといかない。ドラマのプロデューサーである多田羅俊介がちっともOKを出さないのである。

悟がいつも自信作として提出するデモに対して、けんもほろろというか、罵倒に近い感想をよこすというか…。

放送開始日は徐々に近づいてきて、ちょっとまじでどうなんのこれ、と私は続きが気になって、読み終えるまで眠れない日々を過ごした。

 

それで、テレビドラマの主題歌制作、っていうとすごいライトな感じ、人気歌手に歌ってもらってドラマを盛り上げよー! みたいな感じかなと思ってたんだけど、この小説を読んでいると、そんな軽い感じじゃなくてもっと重い、会社間の力関係とかしがらみとかたくらみとかが複雑に、時として邪悪に絡み合った、やばいやつなんだなと思った。

 

この小説では、その主題歌制作にまつわる複雑怪奇な背景を、物凄く丁寧に、生々しく描く。なので読んでいると自然に、この業界の込み入っている感じがわかってくる。

そして、悟の前に立ちはだかる多田羅俊介の憎たらしさも、これでもかと伝わってくるんだけれど…。

 

この小説は三人称で、悟に寄り添って語られているんだけど、時折、別の人物(全部で三人)の一人称の語りが挿入される。

これが凄く面白くて、これによって物語がぐっと立体的に感じられるようになる。

その三人というのが、妻の紗和と、櫛田義人と、多田羅俊介なのである。

紗和は、けっこう悟に手厳しいことを言う。これが、悟を裏側から見ている感じがしてすごいいい。もちろん根底には愛がありますよ!

義人の場合は日記が引用されている。これもいい。義人が意外に真面目な人物だとわかると同時に、悟目線の語りからはわからなかった情報(難航しまくる楽曲制作で悟がかなりグロッキーに見えたこと)が得られるのもいい。

そして、多田羅の語り。これを読んで私は、なにか引っかかるものがあった。

この多田羅の語りと、この後に悟のスタジオを多田羅が訪れた時に見せた、椅子を止めるしぐさ、このふたつで私は多田羅のことを極悪人とは思えなくなってしまった。

 

この小説では、私は知らないのでよくわからないけれど高級ブランドの名前がたくさん出てくる。それらの名詞は金粉のようにきらびやかに全体にまぶされていると言っても良い、作中のある時点までは。

対して多田羅はそういうのには無縁で、他の登場人物からは、とにかくダサいやつ、みたいに思われている。

しかし、多田羅をダサいと見下している人たちが、これでもかと身にまとっている高級品というのは、しょせん虚飾じゃないか、という問題提起もこの作品ではなされていると私は思ったのだけど、これは庶民の単なるやっかみに過ぎないだろうか。

だって、災害によって、その虚飾が剥ぎ取られ、もぎ取られたように描かれていると私は思ったのだ(それはたとえば「事後」に出会うことになるあの「高桑碧」の服装の変化でも端的に表されていると思う)。

そのあと何が残ったか? はじめから虚飾を身にまとっていなかった多田羅ではなかっただろうか。

つまり多田羅は「本物」だったのだ。

そのことに気がついた悟は、色々あったのちに、テレビ局の会議室で多田羅と対峙する。ここ、最高に盛り上がる場面である。

そしてこの場面での最高潮が訪れる瞬間に、メールの着信音という形で、ダイちゃんが登場するのである。

まるでそれは「おっともうそれ以上は語ってはいけない」と言っているようである。トリックスター的でしょ? 作中の人物が語り手に指示する感じ。ダイちゃん=時空を超えた人説、を私は提唱したい。

で、いや語ってくれ、俺はその場面が読みたいんだ! と思うんだけど、本当に悟は語るのをやめてしまう。その後に悟と多田羅は酒を飲みに行ったみたいなんだけど、そこで二人がどんな会話を交わしたのかも、悟は語ってはくれない…。

しかし、である。

 

本当に大切なことこそ、小さな声で伝えるべきではないのか。いや、小さな声でも伝わるものを「たいせつ」と呼ぶのではないか。(p.40)

 

と悟が語っている。

終盤、紗和が悟に「仕事に対して熱くなった」と言う場面がある。「きっと義人さんや権藤さんと再会したおかげで熱を取りもどしたのね(p.260)」と、紗和は言うんだけど、このことについて悟はきちんと答えていない。肯定もしないし、否定もしない。

しかし私はここに「小さな声」を聞いた気がするのである。それはつまり、悟を熱くしたのは「奴」だ、とここで語らないことで語っているような気がするのだ。

この場面と、あとはエピローグで披露される歌詞の一節ですね、そこに二人の人物の「友情」と「本気でタッグを組んでる感」、そしてその「無敵感」を感じて、胸が熱くなりました。

 

薄暗いソウルバーの店内から始まったこの物語は、目映い陽射しが降り注ぐ秋の空の下で終わる。さわやかである。読後の余韻がすさまじい…。

 

ところで最後の最後で悟はまた、喉が渇いている。

これは何を意味するのだろう? ここで何が生まれようとしているのか?

私はこれは、この小説の続編の制作を暗示しているのではと希望も込めて思いました。