手塚治虫『火の鳥8 乱世編 下・羽衣編』
わたしは遠い遠い国から来たといいましたね……
その国は じつをいうと
今から千五百年も未来の国なのですよ
(『羽衣編』p.313)
高熱を出した平清盛は回復することなく、早々に没する。
そしてここから、混沌を極める乱世編の「本番」が始まると言っても良い気がする。
それくらい、この後の展開はすさまじい。
いくさ、恋愛、裏切り、殺人、火の鳥、いくさ、恋愛、猿、犬、死…これらがもう怒涛の勢いで、次々と鬼気迫りまくりで描かれていく。
義経は、いくさに強くて、男前で、そして、すごく嫌な奴でね…。
弁太は、顔の造作を色んな人から笑われてきて、おぶうはそんなこと言わなかったけど、そのおぶうは…。
素朴で優しい表情が持ち味だった弁太が、怒りと憎しみと悲しみに震える時の別人のような顔つきは、読んでいて悲しかった。映画『フルメタル・ジャケット』を連想した。
その義経の最期が、ああいう「顔」な感じになるのは、壮絶としか言いようがない。
そして『羽衣編』である。
舞台上の芝居を客席から眺めているようなコマ割りになっている。
コマの大きさはずーっと同じ横長で、場面もずっと、浜辺の家の庭先(大きな松がある)。
あらすじはというと、時代は平将門のいた頃(西暦900年代前半くらい?)。
火の鳥の力を借りて1500年先の未来からやってきた女性が、
松の木のある家に住む男と出会い、子どもを産み…といったものである。
私はこの『羽衣編』を読んで、え? となった。
そもそも『火の鳥』とは、「過去」と「未来」を交互に描きながら「現在」に近づいて行って、最後に「現在」を描くことで完結する、という「ルール」に則って描かれてきたはずである。
じっさい、ヒミコの時代から始まった「過去」は、『乱世編』では平安末期くらいまで「現在」に近づいている。
「未来」の方も、ごちゃごちゃしてて分かりづらいけど、少しずつ「現在」にさかのぼってきている。
それで私はこれまで、「過去」と「未来」がまじわる「現在」がどのように描かれるのかを楽しみにして読み続けてきのだけど、
『羽衣編』で、未来の女と過去の男が夫婦になって子供を産んでいるのを見て、鳥肌が立った。
未来と過去が! 交わっちゃってるよ! と思ったのだ。
「未来」と「過去」は、「現在」で交わるのではなかったのか。
火の鳥みずからが『火の鳥』の「ルール」を破ってしまったのか。と思った。
思ったのだけど、しかし。
『羽衣編』の特徴的なコマ割りについて考えてみる。
これは、客席から舞台を観ているような構図になっている。
で、客席にいるのは誰? これは誰目線の舞台なの? と考えると、それは私である。
漫画を読んでいる私が、作中の客席に座って舞台を見ているように描かれているのである。
そしてこの構造をですね、
いま、こうやって生きて漫画を読んでいる「現在」の私が、
「未来」と「過去」がひとつになる場面を眺めている。
というふうに捉えることはできないだろうか。
つまり、『羽衣編』こそが、『火の鳥』が目指したゴール、すなわち完結編である、ということをむやみに唱えてみたい。
その証拠に、最後の一つ前のページに注目したいんだけど、ここでは、舞台とそこに集まった多数の客たちが俯瞰で描かれている。
ここの客たちの服装は、江戸時代でもなければ未来でもなく、明らかに「現在」(あるいは現代)のものなのだ。
さて、そうやって『羽衣編』が事実上の完結編だと仮定してみた場合、
では、最後のあのページはどのように解釈すべきなのだろうか?
なんかいろいろともやもやした思いが沸き起こってくるけれど、
いまはこのもやもやを言語化せず保留にしたまま、続きを読み進めてみたいと思います。