國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』
ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。(p.110)
面白くて三回、読んだ。どういうところが面白かったかというと、まず、読みやすいということ。
そして、読みやすいけれど、既成概念や陋習に染まり切った私には、スピノザの斬新な考え方は、すんなりと理解できない。その戸惑いも、面白い。
そしてそうやってたじろいでいると、必ず「わかりやすい例え」が登場するのです。その例え話が本当にわかりやすくて面白くて、また、登場するタイミングも「待ってました!」といった感じで最高で、面白い。
本質は、形ではなく、力=コナトゥスだということ。
善いものと悪いものは組み合わせで決まるということ。
なので色々と実践が必要だということ。
善い=活動能力が高まる、ということ。
結果は原因の力を表現しているということ。
能動=自分の力をより多く表現できているということ=自分が原因の度合いが大きいということ=自由ということ。
「スピノザ哲学の全体が人間の自由に向かって収斂していく(p.111)」ということ。
自由意志は存在しないということ…。
面白い。面白すぎる。
私はかつて國分功一郎さんの『スピノザ 読む人の肖像』という本を読んだとき、あまりにも衝撃を受けて、その感動をどう言い表そうかと悩んだ末に「赤ちゃん時代から生まれ直しているような感覚」という感想文を書いたことがあった。
私はそのことについて、「なんかもっと、良い書き方、なかったかな」と悔やんでいたのだけれども、本書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』のp.98に、なんと、赤ちゃんの例え話が出てくるのですよ! 嬉しかった。
本当に、スピノザの考え方に触れていると、赤ちゃん時代からやり直しているような感覚になる。圧倒的に新鮮。
それは、「考えを変えるのではなくて、考え方を変える(p.7)」ということであり、
「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない(p.7)」ということであり、
そして、「歴史に『もしも』はありえませんが、しかし、もしかしたら別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできます。私の考えでは、スピノザ哲学はこの可能性を示す哲学なのです。それは『ありえたかもしれない、もうひとつの近代』に他なりません(p.134)」ということなのだ。
ありえたかもしれない、もうひとつの近代。
「AIに物理法則を学習させたら、未知の物理変数で現象を表現し始めた!」 という記事に出てくるAIの計算が、なんとなくスピノザ哲学っぽい。
人類が人類であるがゆえに見落としてしまっていた何かを、スピノザは見ていたのかもしれない。そう考えた時に、スピノザがレンズ磨きで生計を立てていたという実話は、あまりにも象徴的である。彼の磨き抜かれた知性の目は、何を見ていたのだろう。
國分さんはp.88で「多元宇宙論」に触れている。「もちろんそれはスピノザとは直接は関係ないかもしれません。しかしどこかスピノザの発想に通ずるものを感じるのです。(p.88)」と。
わくわくするなあ、と私は思う。スピノザ哲学は、わくわくする。
自由意志は存在しないという考え方も、わくわくする。それはつまり、ええと、心身並行論で言えば、意思もまた、物理的領域の因果的閉包性のようなものに含まれているということで、その無限に広がる複雑な因果性は、意識(クオリア)によって支えられている、ということではないだろうか。わくわくする。
すべて予め決定されているということは、時間が存在しないということでもある、私の思い込みだけれど。過去も未来も現在も、同時に存在していて、それは、あらゆる瞬間は永遠である、ということで、なんだかとてもトラルファマドール的である、私の大好きな小説カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』の。わくわくする。