Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

國分功一郎『スピノザ 読む人の肖像』

非常に大雑把に言えば、近代においてはその過不足が生じるのであり、ホッブズはそれをjusの過剰(自然権)として発見したのである。スピノザもこの発見を継承する。だが、例の如く、その継承の仕方は尋常ではない。(p.250)

 

 上記引用文は、本書の後半に登場する。私はここに至るまで、いくつもの「尋常ではない」考え方を目の当たりにしているので、けっこうどきどきするわけです。スピノザはどういう風に考えるんだろう? って。

 それで、スピノザの考えを知って衝撃を受けて、私の中の常識・先入観・思い込み、といったものが砕け散り、よちよち歩きの私が誕生する、というのが、本書を読んでいるときのお決まりの流れである。

 

 例えばそれはどんな風にかというと、「私は考える、故に私は存在する」という考え方ってあるじゃないですか。これはデカルトという人が考えた「第一真理」というものらしい。第一真理というのは「いかなる命題も前提していない」そうである。つまり、ここからすべてが生まれる、的なものだと思う。

 我思う、故に我あり。いいですよねー深遠だよねー、と眉間にしわを寄せて分かったような顔をして生きている私にスピノザは言う。「いやちょっと待って。その真理はちょっとおかしい」と。どういうこと?

 スピノザによれば、前提が存在しないはずの第一真理に、前提が存在しちゃってるよ、ということなのである。え、どういうこと?

 では「私は考える、故に私は存在する」にはどんな前提があるのだろう、と思って読み進めると、衝撃的な事実を知ることになる。たしかに前提はある。言われると気がつく。

 スピノザがすごいのは、矛盾を指摘するだけではなくて、「この場合は、こうやってこういう風に考えると、矛盾しないですよね」と新たな考え方を教えてくれるところである。

 そしてその考え方がまったくもって「尋常ではない」。けれど圧倒的に理にかなっている、と私は思う。

 

 アダムの物語についてもスピノザは「ちょっと待って」と言っている。神様から「いいか、食うなよ! ぜったい食うなよ!」と言われていた知恵の木の実を、アダムが食べてしまったという物語のどこに、スピノザは目を付けたのか。彼は言う。

「それだと、神の啓示に背くことができる=神の命令を人間は乗り越えることができる=神の絶対性が格下げになってしまう」

 たしかにそうである。神様が「やめろ」と言っていることは、そもそも人間ができうるものではないはずなのである。そこがおかしいでしょ、とスピノザは言っているのだ。

 とはいえスピノザはこの物語を否定しているのではない。「だから、この物語は、こういう風に読むと、筋が通りますよね」と、「尋常ではない」読み解き方を教えてくれる。

 

 このように本書で紹介されているスピノザの「尋常ではない」考えに触れるたび、私はただ圧倒され、頭がぼうっとなり、そして、赤ちゃん時代から生まれ直しているような感覚を覚える。

 

 原因と結果、能動と受動、についての考え方も凄かった。目からうろこ過ぎてうまく理解できず、必死になってノートに書き写したりした。その作業はとても楽しかった。

 私なりに学んだことをまとめてみる。

『エチカ』的因果性とは、表現的因果性、というものらしい。それはどういうことか?

 原因は、結果によってその「力」を表現している、ということである。だから「表現」的因果性。

 で、自らが自らの行為の原因となっている時=「我々の行為が我々の力を表現している時」=能動的であり、その状態は良いことだから、人間はそこを目指しましょう、可能な限り。ということであっているはず…。

 もう、素の感情で、フラットな気持ちで、(完全には不可能なのだけれども)自分の中にオリジナルで湧き上がってきた思いに駆られて、やりたいことをやりたいようにやっている状態が能動的、ということなのだと思う。たぶん。

 

 対して、受動的とはどういうことかというと、たとえば憎しみやねたみをバネにして頑張るような状態を指すらしいのである。なんで? ちっくしょー、と思いながら、色々と頑張ったりすることって、能動的なおこないのように思える。私の感覚だと。しかしスピノザは「それは受動的」だと言う。

 なぜならそうやってねたみをバネにがんばるという活動が最もよく「表現」しているのは、そのねたみを感じさせた「相手の力」だから、と言うのである。ああ。なんかもう、雷に打たれたような衝撃を受けた。たしかにそうなのだ。そこは「自分の力」が表現できていなければ、能動的とはならないのだ。

 これから私は表現的因果性という考え方をたずさえて、ものごとを見ていこうと思う。なぜかというと、とても楽しいから。これまでとまったく違った世界がひらけるような新鮮な感覚を覚える。

 

 永遠性について、著者の國分さんが書いている文章に、私は魂をわしづかみにされた。

 

 永遠とは、必然性において捉えられた――ある意味で空間的な――因果関係の連なりの全体のことではないだろうか。我々一人一人の身体はその中で原因をもって存在している。ならば、永遠である精神とは、その必然性の連なりの中の位置を示すマーカーのようなものではなかろうか。各々の個体の観念は神の永遠の必然性の中に確かに場所を持っているのだから。(p.341)

 

 凄すぎる。格好いい。この文章は同時に、「時間は存在していない」ということも言っているように私には思える。

 過去も未来も現在も、「必然性において捉えられた、ある意味で空間的な因果関係の連なりの全体」の中に同時に存在している、と読めなくもない。自由意志は否定されているわけだし。

 

 スピノザの著作、読んでみたいなーと思うけれど、難しそうだなーとも思う。でも、読んでみたいなー、読んでみようかなー。ところでこれから私がたとえば『エチカ』を読んだとして、それは能動的と言えるだろうか? いや、たぶん受動的だと思う。なぜならここで表現されているのは『スピノザ 読む人の肖像』の力にほかならないからである。しかし、難解そうなのは承知の上でもスピノザを読まずにはいられない衝動を与えてくれる、とてつもない力を持った本だと思いました。