村上春樹『風の歌を聴け』
「文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。」
語り終えてしまうと鼠は首の後ろに両手を組んで、黙って空を眺めた。(p.115)
物語の終盤、主人公「僕」の友人の鼠は、わりと唐突に、かつて女性と奈良の古墳を訪れた時のことを語り出す。
なぜここで古墳の話が出てくるのだろう。
鼠はこうも語っている。
「俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包みこまれちまうような感覚さ。つまりね、蝉や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。」(p.115)
ここの「みんな」には、生者だけではなくて死者も含まれているのではないだろうか。
なぜそんなことを思うのか。
このすぐ後の場面で、ハートフィールドという作家の「火星の井戸」という短編のあらすじが紹介されている。
そこで、時の歪んだ火星の井戸を通り抜けた青年に、風が語りかける。
「つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」
この「風」の言葉と、引用した鼠の言葉は、なんだか繋がっているような気がしないでもない。
だから、古墳=巨大な墓を眺めていた鼠は、みんな(生者も死者も)が一体になって宇宙を彷徨う感覚を覚えたのではないだろうか。
この小説にはやたらたくさんの人たちの「死」が登場する。
小説終盤で登場するこの古墳は、その人たちのために用意されたお墓のようでもある。
そしてなぜ鼠がこの場面でそんな話をしたかというと、もしかしたら彼にとって無縁ではない「死者」のためにもまた、お墓が必要だったからではないかとも思う。
語り口は淡々としているけど、ものすごく情熱的で切実な小説だと思った。
あと、蝉とか蛙とか夏草とか、なんだか松尾芭蕉的ですよね…。