村上春樹『1973年のピンボール』
僕はピンボールの列を抜けて階段を上がり、レバー・スイッチを切った。まるで空気が抜けるようにピンボールの電気が消え、完全な沈黙と眠りがあたりを被った。再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった。(p.159)
追い求めていたピンボール台と会う場面で、「僕」はやたらと震えている。
「僕」は、11月のたぶん上旬に、元養鶏場の冷凍倉庫を訪れる。
冷凍倉庫といっても今は使われていない。
11月の上旬の夜は、たしかに冷え込んで寒いかもしれないけど、そんなに? と思うくらい「僕」は震えている。セーターも着てるのに。
震えているのは、寒さのせいだけだろうか。
「僕」は、彼女=ピンボール台と出会い、会話をする。
この場面はなんだか異様で、不気味である。
ちょっと待って「僕」はひとりで誰と話しているの? そこに誰かいるの? 誰もいないようだけど…怖い怖い、なんかやばいのに取り込まれてない!? みたいな。
思うに、最初から「僕」は、あの世に片足を突っ込んでいたとは言えないだろうか。
物語の冒頭、「僕」が今は亡き恋人の直子との会話を回想する場面で、こんな描写がある。
向かい合って座った僕たちの間には赤いプラスチックのテーブルがあり、その上には煙草の吸殻でいっぱいになった紙コップが一つ置かれていた。高い窓からルーベンスの絵のようにさしこんだ日の光が、テーブルのまん中にくっきりと明と暗の境界線を引いている。テーブルに置いた僕の右手は光の中に、そして左手は翳の中にあった。(p.9)
「テーブルに置いた僕の右手は光の中に、そして左手は翳の中にあった。」ってけっこうすごくないですか。
たぶん、この場面を想像するに、「僕」の顔面は下弦の月のように半分は光、半分は影になっていたはずである。強烈である。テーブルはなぜか赤いし。インパクトがありすぎる。なにこれ!? と私は思わずにいられない。
で、明=この世、暗=あの世、というシンプルな比喩を持ちだしてこの場面を眺めることしか私にはできなかった。
だから「僕」はすでにこの時点で半分はあの世に身を置いていた、と私は思うのである。
この場面、「僕」から見た時の直子は、どのようにライティングされていたのか気になって、頭の中で光源とテーブルと「僕」の位置とか組み立ててやろうとしたけどよくわかんなかったっす。
そして、半分あの世の「僕」が、いよいよ全身であの世の入り口まで乗りこんだのが、冷凍倉庫の場面だと思う。怖かったと思うよ。
ここで「彼女」との邂逅ののち、「僕」は倉庫を出る時に、後ろを振り返らなかったということを強調している。これ、未練を断ち切ったみたいに思えなくもないけど、むしろ逆で、決着をつけるためには後ろを振り返るべきだったと私は思う。
なぜなら、日本や世界の神話にもあるように、ここで後ろを振り返ることで、死は確定的なものとなったはずだからである。
だから振り返らなかった「僕」は、未練を断ち切るどころか、むしろ死をまだ受け入れていない、あるいは「受け入れない」と堂々と宣言しているようにも私には思えた。
時間が必要だと思うよ…。
いつか、受け入れられる日が来ればいいね、と思った。
暗い話になりそうなものだけど双子のおかげで「僕」の暮らしはなんだかふわふわしていて、妙なおかしみがある。
かつて斎藤美奈子さんが『文壇アイドル論』でこの小説についてけっこうすごい解釈を述べていたけど、たぶん、そんな感じで「僕」は弾ませてもらっていたのだろう。
対して、双子のいない「鼠」パートは暗い。ひたすら陰気だ。
弾むどころかずっと沈みっぱなしである。
最後はなんか、やばいところに沈みそうなことが暗示されている気さえする…。