村上春樹『羊をめぐる冒険』
「羊のことよ」と彼女は言った。「たくさんの羊と一頭の羊」
「羊?」
「うん」と言って彼女は半分ほど吸った煙草を僕に渡した。僕はそれを一口吸ってから灰皿につっこんで消した。「そして冒険がはじまるの」
(上巻 p.73)
主人公の「僕」は、離婚してから、やばい耳の持ち主の女性と出会う。
詳しく言うと、まず、やばい耳と出会って、次にその耳の持ち主の不思議な女性と連絡を取って、そして交際することになる。
この彼女の耳がどれくらいやばいかというと、
「僕」が彼女と初めて会ったレストランで、彼女がいつもは隠している耳を開放(出した)ときに何が起きたかというと、なんか耳から重力波みたいのが発生している。
レストラン内の時空間が歪んだというか。
他のお客さんやウェイターもざわめく感じ。
なんだか不思議なこの女性が、「僕」と一緒にベッドでまどろんでいる時に突然、
「あと十分くらいで電話がかかってくる」みたいなことを言う。
そしてそれは羊に関することで、そこから「冒険がはじまる」らしい。
この謎めいた感じ、最高だなーぞくぞくするなーと思って読み進めると電話はちゃんとかかってくる。
職場の相棒からである。
大事な話があるからすぐに来て、みたいなことを言われる。
「どうせ羊の話だろう」とためしに僕は言ってみた。言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。
「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにして羊をめぐる冒険が始まった。
(上巻 p.74)
そして次のページの「第四章 羊をめぐる冒険Ⅰ」という標題を目にした瞬間、私のわくわく感は最高潮に達する。
夢中で読み耽ってしまう。続きが気になってしょうがない。読むのが楽しすぎる。
で、読み終えた今、茫然としている…。
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」
(下巻 p.204)
なぜここで鼠は言葉を呑みこんだのだろう。野暮を承知で想像するに、たぶん、声が震えてしまいそうだからではないだろうか。涙で。
少なくとも私は泣きそうになった。悲しい。
でも、だからこそ、すごく好きな場面だ。