Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

阿部和重『Ultimate Edition』

「もちろんほんものではないし、わたしはほんものなど見たこともないが、しかしこれがほんものだと言われたらあっさり信じてしまうだろう。それほどのものだ」

(p.12 「Hunters And Collectors」より)



阿部和重さんの小説を読んでいると、私はいつも、ディズニーランドを連想する。

ひとたび園内に足を踏み入れると、外界のいっさいの風景は遮断されてしまうということに代表される、ディズニーランドの現実(を見えないようにする)へのこだわりと、

何年何月何時何分の何処そこにて、と実在する日時と場所を特定し、さらにその時の天候や実際にその近辺で起きていた出来事までもを小説内に取り組むという阿部和重さんの現実(を見えるようにする)へのこだわりは、

現実を徹底的に意識するという点においてとても似ていると思えるのだ。

ディズニーランド vs. 阿部和重

べつに両者を戦わせる必要はないけれども、私は、阿部和重さんこそがディズニーランドに対抗しうる唯一の作家だと思っている。

 

電車に乗っていて、「お、動いた」と思ったら、動き出したのは隣の電車であり自分の電車はまだ静止していることに気がついた時の、形容しがたいあの感じ。

「え、じゃあ、さっき動いたと思ったのは錯覚だったのか、でもたしかに動いたような気がしたものであるよなあ」という、現実が一瞬だけゆがんで戸惑う感じ。

『Ultimate Edition』には、そのような感覚が味わえる短編がぎっしりと収録されている。ミーキーマウス(の声色)も出てくるよ。

 

そしてこの短編集がおそろしいのは、「動いていたのは隣の電車だった」では終わらないところにあると私は思う。

動いていたのは隣の電車だった、と思ったらやっぱり動いていたのは自分の乗った電車だった、

というか自分が乗っていたのはそもそも電車などではなかった…みたいな。

 

この記事の冒頭で引用したセリフは、一番最初に収録されている作品に登場する。

とあるハンティングナイフを評してのセリフである。しかしこれはこの短編集全体を暗示しているようにも思えないこともない。

「ほんもの」を「現実」と置き換えることも可能だろう。

そしてですね、やっかいなことにこのセリフを吐いた人物は、認知機能に障害をきたしている可能性が濃厚にあるわけです。

 

この、幾重にも張り巡らされた不確かな現実の危うさは、今の世を反映していると見ても良いだろうと思う。

現実とフェイクの見分けは困難になる一方で、どう考えても「噓でしょ」みたいなことがすでに現実で起こりまくっている。

このような、混沌ここに極まれり、といった現在において、これまで現実の胸倉を掴んでフィクションでねじ伏せてきた(と私は勝手に思っている)阿部和重さんが取った手法は、

「嘘みたいな現実」に対してもう一つの「嘘みたいな現実」をぶつけ続け、そこに生じた亀裂(あるいは隙間)に、フィクションという名の火薬をそそぎこみ、火をつけるようなものではないか、と私は思い込んでいる。

嘘みたいな現実だとしても、やはり現実は手ごわい岩盤である。

しかし亀裂は少しづつ大きくなっていき、ついにそこに飛び込んでいったのがこの短編集全16作のうち13番目に収録されている「Hush…Hush,Sweet Charlotte」の主人公だと私は思う。

登場人物のすべてが、福島県の避難指示区域を連想させる名前を与えられたこの短編の最後に、主人公は踵を返し、「全速力で走った。(p.198)」のだ。

ここで彼はあえて飛び込んでいったのだ、亀裂の中に、と私は思い込んでいる。

この作品以降に描かれるのは、現実の不確かさというよりは、むしろもっと違う何かである、うまく言えないけど…。

 

次に収録されている「Let’s Pretend We’re Married」も、最後まで読んで私は「おや」と思った。それまでの短編とは読後感が明らかに違う。この作品も亀裂の中を進んでいるのだ、「Hush…Hush,Sweet Charlotte」と地続きなのだ、と私は思う。

 

そしてその進んだ先に登場する作品が「Neon Angels On The Road To Ruin」である。

この作品には、まるでダンジョンの奥で待ち構えるラスボスのような感じであのイーロン・マスクが登場する。

「ひと息吸うごとに虚実の境目をあいまいにしてしまう事象の特異点として存在しているのかもしれない。(p.226)」とまで語られている、恐るべきイーロン・マスク

はたして五〇手前の自動車窃盗犯おじさんに勝ち目はあるのか。

いや、どう考えても勝てないでしょう。勝ち目なんてないですよ。

でも、あの局面において、主人公のおじさんは、少なくともかろうじて「負けはしなかった」と私は思う。

結果的にではあるけれど、イーロン・マスクの一部であるテスラ車のフロント部分を、トヨタ車で突っ込んでいき大破させることによって、窮地を逃れることができたのだから。この瞬間、亀裂が向こう側まで達した、つまり「嘘みたいな現実」を貫通したのだと私は読んだ。そしてその向こう側の景色が描かれているのが、最後に収録されている「There’s A Riot Goin’On」だと勝手に思っている。

 

「There’s A Riot Goin’On」は、名作『ニッポニアニッポン』のへなへな版と言えなくもない。

ニッポニアニッポン』で作品全体を覆っていた不穏な感じ、「やめとけやめとけ」と主人公に言いたくなるけど怖くて何も言えない感じとは打って変わって、

「There’s A Riot Goin’On」では滑稽味のある悲哀がそこはかとなく漂っていて、主人公には「いけ! がんばれ!」と声をかけつつ読み進めることができる。

主人公の一九歳の井野川尚がね、もうなんというか、愛すべきキャラクターなんですよもうひとつひとつが。鴇谷春生とは大違い。

決行の日にペヤング食ってたり。なんともおかしいんだけど、でも、ほんと「井野川尚いけ! やれ!」と応援したくなるくらい、読んでいて熱くなった。トキは「ヒノマル」に置き換えられたとも読める。

そしてこの作品が(つまりはこの短編集自体が)最後に辿り着いた場所というのが、海上であり、そこでは夜明けが予告されている。現実がぐわんぐわんしまくった果てに迎える(予定)の、日の出というまだ見ぬ「広大な風景(p.317)」。暗示的です。私はここにポジティブな意味を読み取りたい。

二人の乗ったボートはどこまで流されるのだろう。絶望的ではあるけれどでも、二人には助かってほしいし、その可能性は排除されてはいないと読めないこともない気がする。

 

ところで阿部和重さんがインタビューで語っている「ロシアに焦点を当てた長編」が楽しみでしょうがない私ですが、ロシアっていうと、「Let’s Pretend We’re Married」にはドストエフスキーの『罪と罰』が落とし込まれていると思う。

その、強欲な老婆を殺害したりとか、階段でのサスペンスとか。

で、続く「Neon Angels On The Road To Ruin」にも『罪と罰』は落とし込まれている説をむやみに提唱してみたい。どこがというと、ほら、主人公のおじさんが、地面にキスしていると読めなくもない場面があるじゃないですか、あの、吹っ飛んだ後。

あの描写だと、彼はうつぶせに倒れていたはず、私の読み間違いかもしれないけど。

もしかしたら私が気がつかないだけで、他の短編にも『罪と罰』は落とし込まれているのかもしれない。となると「ロシアに焦点を当てた長編」とはもしかしたら阿部和重版『罪と罰』になるのでは、などと妄想を膨らませている今日この頃の私です。

金ぴかの表紙、まぶしい。