Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

村田沙耶香『コンビニ人間』

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 三人の声が重なる。店長がいるとやっぱり朝礼が締まるな、と思っていると、ぼそりと白羽さんが言った。

「……なんか、宗教みたいっすね」

 そうですよ、と反射的に心の中で答える。(p.46)

 

主人公の古倉さんは18歳の時から18年間、コンビニでバイトしている。

小説の冒頭では、彼女のその完璧な働きぶりが描かれている。

コンビニ内で響くすべての音、それは例えばペットボトルが手前に押し出される音であったり小銭の音であったりパンの袋が掴まれる音だったり、それらに瞬時に反応して古倉さんの体は素早く動く。

そしてお客さんの目線や手の動きからその思考を読み取り、先回りして対応する。

その洗練された無駄のない動きから、彼女がコンビニと完全に調和していることがわかる。

 

 指紋がないように磨かれたガラスの外では、忙しく歩く人たちの姿が見える。一日の始まり。世界が目を覚まし、世の中の歯車が回転し始める時間。その歯車の一つになって廻り続けている自分。私は世界の部品になって、この「朝」という時間の中で回転し続けている。(p.6)

 

歯車の一つになることに古倉さんは喜びというか安心感のようなものを抱いている。

それはなぜかというと、古倉さんは子供の頃から、世界との噛み合わせがうまくいかなかったからである。奇妙な子、変わった子、いわゆる空気の読めない子、と思われるような子供だったのだ。トラブルも多かった。

で、そのことについて古倉さんは当時も今も特に気にしていないようなんだけど、しかし「父と母が悲しんだり、いろんな人に謝ったりしなくてはいけないのは本意ではない」ので、古倉さんは「皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた」のだった。

それでもあまりうまくいかず、両親が「どうすれば『治る』のかしらね」と話しているのを聞いてしまったり、カウンセリングに連れて行かれたり、古倉さん自身も「治らなくては」と思ってはいるのだけどそのままで大人になった。

 

そんな古倉さんが開店準備中のコンビニと出会い、そこでアルバイトを始める。

コンビニには、声の出し方から表情の作り方まで完璧なマニュアルが用意されている。古倉さんはそのマニュアル通りにやる。するとうまくいく。古倉さんはお手本の真似がうまかった。

今まで、誰も私に、「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれたことはなかった。(p.16)

こうしてコンビニ店員としての古倉さんが生まれ、いい感じに世界と噛み合っていた。アルバイトを始めたことを親や妹も喜んでくれていた。

しかし余りにも同じところで働き続けていることを、家族はだんだん不安に思うようになってきたという。

 

古倉さんは充足した日々を送っている。しかしそれを周囲の人たちは許そうとしない。それはなぜなのか。

 

周囲の人たちは、オブラートに包んだり包まなかったりしながら、コンビニ店員の古倉さんをとにかく否定し、攻撃しまくる。読んでいて完全に古倉さんサイドに立っている私は、それらが非常にむかつく。

そして、人格否定に等しい扱いを受けているにもかかわらずそのことに気がついていない古倉さんに泣きたくなる。

あの、バーベキューの場面なんか最低だった。地獄のバーベキュー。なかでもミホとユカリの旦那たち、あいつらはひどかったな。死後、裁きにあうだろうな。

この時、古倉さんは自分が「異物」だということにぼんやりと気がつく。

 正常な世界はとても強引だから、異物は静かに排除される。まっとうでない人間は処理されていく。

 そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。

 家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。(p.77)

 

なんで古倉さんがこんな悲しい思いをしなければならないのだろう、と私は胸が締め付けれらる。古倉さんはそれまでも涙ぐましい努力を重ねてきていた、「正常な世界」で「まっとうな人間」に思われるため、つまり「普通の人」と見えるように、必死に周囲の人の真似をしていた。喋り方から、服装から、頑張って調べて真似をしていて、それは功を奏していているように思えた。

なのになにが駄目なのか。

彼らは、というか社会は、それらの努力の結果とはまったく関係のないところで、古倉さんを否定してくる。

女なのにあるいは女だからとか、いい年して結婚もせずに子供も生まずにとか、就職もせずにバイトしかしたことがないなんて終わってる、もっとちゃんと生きないと駄目とか。

はあ? お前らなに言ってんの? と私は言いたい。「今は現代ですよ!」と叫びたい。古倉さん、ちゃんと働いて生きているではないか。なのに社会は彼女を追い詰める。

 

「普通」に思われるためにはどうしたらよいか、彼女の導き出した答えは、「白羽さんと結婚してみてはどうか」というものだった。

白羽とは、古倉さんのコンビニにバイトでやって来た35歳の気味悪い男で、問題行動ばかり起こしてすぐにクビになった、ナイーブ気取りの屑ナルシストである。

こんな男と結婚するなんて悪手以外のなにものでもない気がするんだけど、少なくとも「結婚していない」から「おかしい」と思われずに済むのではと彼女は考えたのだ。

で、屑の白羽にそのことを提案すると、屑の白羽は、自己愛に満ちた屑なりの屑理論を展開し、なんだかんだで同棲することになる。

 

屑男と同棲している。そのことを知った周囲の人達は色々と勘違いして大喜びである。たとえ屑男だとしても、それは古倉さんが「普通になった」=「治った」ものとして受け入れられる。

妹は涙を流して喜ぶ。

コンビニの店長や同僚も大はしゃぎし「今度、二人で飲み会に来ない?」みたいなことを言ったりする。ああ、私の知らないところでこの人達は定期的に飲み会してたんだ、と古倉さんは思ったりする。

 

白羽との同棲によって、なにかとうまくいくように思えたのだが、意外なところで狂いが生じ始める。

その狂いは、あろうことかコンビニでおきる。

古倉さんの勤めるコンビニが、古倉さんが白羽と同棲することで、少しずつ壊れ始めていた。なんかみんな、仕事しないで二人の恋愛話に夢中になったりしているのである。

 コンビニ店員にとって、いつも130円のからあげ棒が110円のセールになるということより、店員と元店員のゴシップの方が優先されるなんてありえないことだ。(p.110)

と、古倉さんは疑問に思いつつ、働かないで噂話に興じる店長と同僚の分も必死に働く。こんな感じでコンビニの秩序がみだれていく。

自分と同じ細胞のように思っていた皆がどんどん「ムラのオスとメス」なってしまっている不気味さ(p.120)を古倉さんは感じる。

かつて古倉さんが白羽に「コンビニ店員はみんな男でも女でもなく店員ですよ!」と叫んでいた事を思い返すと、この「オスとメス」化はあまりにも切ない変貌である。

 

そしてなんだかんだの末に、古倉さんはコンビニを辞める。

ここでも同僚たちは勝手に何か勘違いして、「よかったねー!」と祝福したり「おめでたい門出」とか言ったり「お祝い」として夫婦箸をくれたりする。

地獄である。

古倉さんはコンビニを辞めた。

それはコンビニ店員としての死に他ならない。

18年間、聴こえ続けていた音も、聴こえなくなる。

私の耳は静寂しか聴いていなかった。私を満たしていたコンビニの音が、身体から消えていた。私は世界から切断されていた。(p.135)

そして白羽との破滅的な日々が始まる。

 

古倉さんにとってコンビニとは何だったのだろう。

「外から人が入ってくるチャイム音が、教会の鐘の音に聞こえる。ドアの箱が私を待っている。いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている(p.31)」とある。

「離れていても、コンビニと私は繋がっている(p.38)」ともある。

そしてどうも古倉さんは、いつもコンビニに向かって祈り続けていたらしい。

白羽が「宗教みたい」と言ったことに対して、古倉さんは内心「そうですよ」と答える意味深な場面もある。

つまり古倉さんにとってコンビニは、信仰の対象だったのではないだろうか。そこで古倉さんは世界と調和することができて、神の声=コンビニの音は、彼女を優しく包み、支え続けていた。

この小説はコンビニの音の描写から始まる。小説の最初からずっと神の声は響き続けていたのである。

その音が終盤になって途絶える。そして古倉さんはコンビニ店員として死ぬ。

死んだから音が途絶えたのではなくて、音が聞こえなくなってから死んだというのは重要だと思う。

神(コンビニ)に見放された、という悲しみを古倉さんは抱かなかっただろうか。描かれてはいないけど。まあぜんぶ屑白羽のせいなんですけどね…。

 

といった流れを経て迎えるラストは感動的である。

古倉さんは立ち寄ったコンビニで、「声」を聴く。

そのとき、私にコンビニの「声」が流れ込んできた。(p.145)

「音」ではなく「声」である点に注目したい。ここにきてコンビニは擬人化されている。まさにコンビニ人間の登場である。

古倉さんはコンビニ人間の声を聞き続け、それに従って行動し、次々と奇跡を起こす。

それはレジの女の子に「わあ、すごい、魔法みたい」とまで言わせるほどである。

そして古倉さんは神の声=コンビニ人間の声を、女の子に伝える(神の声を伝えて、奇跡を起こして、復活するって、イエス・キリストみたい)。

そしてそれを邪魔してきた屑の白羽に、古倉さんは言う。

「私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです(p.149)」

古倉さんのこの告白は胸を打つ。

屑白羽は「狂ってる」だの「気持ちが悪い」だの言いたい放題で、「人間じゃない」とまで言うんだけど、古倉さんは「だからさっきからそう言ってるのに」とどこ吹く風である。いい。古倉さんらしくていい。

そう、どうして周囲の人達は、「古倉さんらしさ」を「古倉さんらしさ」として受け入れず、変な人、頭のおかしい人、として排除しようとするのだろう。

それだから古倉さんも、普通にしなきゃとか、治さなきゃ、みたいに思って苦しまなければならない。

周囲の人達は、自分の周囲ばかり見て、喋り方を無意識に真似したりすることでどろどろとした慣れあいの社会を作り、誰も彼もを「普通」という名のどろどろに引き込もうとする。

しかしそこに溶け込めない人も少なからずいるだろう。古倉さんのように。

「咀嚼してドロドロになったご飯とシュウマイを私はいつまでも飲み込むことができなかった(p.143)」とは、コンビニを辞めた後でのとある日の食事の場面だが、ここに「やはり私は普通にはなれない=これを飲み込むことの理由がわからない」という古倉さんの逡巡が表れている気がしないでもない。

だから、もうそういう意味のないことで悩むのは嫌だ、いびつなままでもいいんだ、私はコンビニのために存在しているんだ、それでいいんだ、という風に古倉さんが思えるようになって本当に良かった。

 

最後、古倉さんは、コンビニの窓ガラスに映る自分の姿を見て、「生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出し(p.151)」ている。

コンビニ店員として「生き返った」というよりは、新たに「生まれた」ということではないだろうか。

だから私は、赤ちゃんが生まれた時に皆が言うように、古倉さんにも、おめでとうと言いたい。