
昔の偉い人が書いたセリフに「フェイクにはフェイクの良さがある」みたいなものがある、と専門家の人がラジオで話しているのを先日、耳にした私は、やっぱ偉い人っていうのは偉いなあ、しみじみとそう思った。引け目と居直りをシニカルにコーティングしたものでぶん殴られた気分で、「なんですか、なんなんですか、あなた」とたじろがずにはいられない、そういうセリフを書いた昔の人っていうのは、やはり、偉いよ。
たしかに発明ではある。しかし夢がない。(p.26)
「夢だけじゃ、どうしょうもないよ。ナイフもいるし、拳銃もいるし、便器もいる」サクラが急に立ち上った。(p.399)
「空気もいるよ」女がぼんやり繰り返す。(p.399)
『方舟さくら丸』はフェイクにまみれた小説だと思う。胡散臭い、偽物&偽者ばかりが登場する。ユープケッチャは偽昆虫、野犬を追い払うために偽の鳴き声を用いたり、そもそも作中で船と呼ばれている存在は「船」ではないし、主人公の男が嫌っている方の自分のあだ名「豚」は、猪を家畜化した動物=フェイクなイノシシだとも言える(ちなみに主人公が好んでいる方のあだ名は「もぐら」です)。そんな「もぐら」の「生物学上の父親」は「猪突(いのとつ)」と呼ばれている。
おそらく「もぐら」は、父親という圧倒的にリアルな存在を、生物学上の父親と称することで、可能な限り無味乾燥にして、生々しさを排除しようとしている。彼にとってとにかく憎むべき存在みたいだから。でも、しかし、「猪突」は「もぐら」のフェイクであり、また、「もぐら」は「猪突」のフェイクでもある、その関係性からは抜け出せない、みたいな展開もあったりして、じゃあ、もう、本物って、なんなんでしょうね。
「立体地図に、ユープケッチャか……君って、徹底して偽物好きなんだね」(p.313)
騙してもいいから、楽しませてほしいものだと思う。その点ユープケッチャは違う。これはまぎれもない玄人の作品だ。(p.40)
嘘って何だろう。私は生まれてこのかた一度も嘘をつかずに四十三年、生きてきたので、嘘をつく人の気持ちっていうのがわからないのだけれども、小説っていうのも、嘘ですよね。嘘のかたまり。閉じた世界。
その閉じた世界の登場人物=主人公の「もぐら」が、外界から完全に隔絶された核シェルターとしての方舟の建造を夢見る。船と呼ばれているその洞窟的空間には、侵入者対策で幾重にも罠を張り巡らしたりして、万全のように思えたが、でも、実際はほころびだらけだったということが徐々に明らかになっていく。どだい無理な話なのだ、完璧に閉じた安全な空間なんて。そもそも、人は自分の糞を栄養源として食すことができない。ユープケッチャとは違うのだ。
「核シェルターを運営するための、三つの基本条件、知ってる。第一は糞便の処理、第二は換気と温度の管理、第三が組織の運営なんだってさ」(p.269)
人が集まれば、物が集まり、物が集まれば、人が集まる。やがて廃棄物の始末が問題になってくる。糞尿、ゴミ、それに死体。(p.222)
理想の汚物処理場は、つまり未来の都市のヘソの緒ってことです。(p.223)
「もぐら」のシェルターには、理想的な汚物処理の装置が備わっているかのように思えた。何でも流せる便器である。超強力な水の勢いで、ゴミとか屎尿とか六価クロムとか死体とかなんでも流してしまう。しかしこの理想的便器だってフェイクである。嘘である。その流れの先には海がある。海を汚している。「もぐら」もそのことは知っている。自分の目の行き届かないところで、何かが傷つき、汚されている。それをフェイクで覆い隠すべきではないし、隠せるはずもない。やがてその便器は、突発的事故により封印される。こともあろうに「もぐら」自身の手によって、というか脚によって。ヘソの緒なき閉鎖空間に生まれる、排泄物、うんざりするような組織、死体、狂気。そして彼らは、何を考え、どのような行動を取ったのか。ヘソの緒を断たれた「もぐら」は、生まれ直したのだろうか。
一瞬前からそれがスカートではなく、ゴム引きの作業用前掛であることに気付いていた。(p.440)
にせものにはにせものの良さがある、と居直るのか、サクラのように嘘だと分かっていても信じたふりをするのか。そのどちらかしかないのだろうか。本物とは何なのか。「もぐら」が終始一貫して抱き続けたサクラの女への劣情は、本物だったはずだよ、と私は思う。
夢を失った「もぐら」が見た現実は、透き通っていて、というか自分自身も透けていて、現実を現実たらしめるためにはやはり欺瞞ではなくて夢が必要なのではないか、リアルでもフェイクでもない、第三の存在としての、夢が、必要になってくるんじゃないですか、ね。ね。そうですよねっ。うるせえなそれくらい自分の頭で考えろよ、と無言でぶん殴ってくるような誠実なエンディング。