今村夏子『あひる』
母はお祈りに一時間近く費やした。
それなのに、のりたまは日増しに衰弱していった。
(文庫版p.18)
のりたま、とは、「わたし」の家にやってきたあひるの名前だ。
名前の由来はわからない。
「わたし」の父が、働いていた頃の同僚の「新井さん」から譲り受けたあひるであり、名付け親も新井さんである。
のりたまの具合が悪くなり、父親が病院に連れて行き入院させる。
帰ってきたのりたまは、明らかに別のあひるになっている。ということが二回繰り返される。
「わたし」は毎回、すぐにのりたまの違いに気がつく。
しかし、父も母も、あひる見物にやってきていた子供たちも、あひるがまったくの別物になっていることに気がついていないようなのだ…。
興味深いのは、具合の悪くなったのりたまが入院して別人(別あひる)となって復活してくるたび、
「わたし」の家族からの扱いが雑になってきているように思えることである。
ファーストのりたまが体調を崩したときは、家族総出で必死に「お祈り」している。
セカンドのりたまが同じように体調を崩したときは、父と母は見向きもしていない。「わたし」は、スポーツドリンクを飲ませようとして失敗している。
サードのりたまの時は、運動不足で足のうらにこぶができ、具合が悪くなり緑色のうんちをするようになり、その緑色のうんちすら出ないようになっても、たぶん「わたし」も父も母も何もしていない。
そもそも、医療系の資格を勉強しているはずの「わたし」が、具合が悪くなったあひるを前にして、本を借りてきてあひるの病気について調べたりしておきながら、やることが「お祈り」とはどういうことだろう。
「一日でも早く元気になってほしくて、母もわたしも、初めはのんきにしていた父も、それぞれのやりかたでお祈りをした」そうである。
「いや、現実逃避!」と東京ホテイソンのたけるからツッコんでほしいくらいだ。
そう、「あひる」という小説は、美しい詩のようでもあり、ツッコミ不在の漫才のようでもある。と私には思えた。
機能不全家族、無職の娘の扱いに困っているようにも見える高齢の両親(なんかの宗教に入れ込んでいるらしい)、DV弟。
あひるを見にやってくる子供たちへの、父と母のおもてなし過剰ぶりはもう狂ってるし、
目を血走らせて名前も知らない子供たち(存在すら危うい)の誕生日パーティーの料理を作りまくる母は悲壮ですらある。
この家族が、それでもなんとか壊れない(破滅しない)でいるのはなぜなのだろう。
最後、「わたし」の気持ちはよくわからないけど、勉強もせずにとある写真を何千回も眺めているところからすると、これから訪れる「変化」を楽しみにしているのではとも考えられる。のりたまへの感傷的な思いを抱えながら。
でも上手く行かなそうな気がして怖いんだけれども。