手塚治虫『火の鳥6 望郷編』
でも たいていの人は 後悔してると思うわ
だれだって地球へ帰りたがってるのよ……
宇宙の生活 ほんとにつらいもの……
(p.89)
これまで、過去、未来、過去、未来と交互に描かれてきたけれど、前作の『火の鳥5 復活編』に続いて本作の舞台も「未来」である。
そしてなんと、語り手は火の鳥自身が務めている。
もちろん作中にも火の鳥は登場するが、縁の下の力持ちといった感じで、前面には出てこず、プロデューサー的に物語に関わっている。
火の鳥が見つめた、とある星における歴史のはじまりと終わり。
それはいったい、どのようなものだったのか。
これって、「黎明」から「未来」までを描く長大な『火の鳥』が、
『望郷編』にてコンパクトに変奏されているとは言えないだろうか。
結末が(ある意味で)冒頭に繋がるという構造も同じである。
そしてその内容といえば、これまでになく重く、インセスト・タブーが氾濫し、神話的であり、全編を通して悲哀に彩られている。
エンディングにおける『星の王子様』の引用場面といい、
なぜこんなに悲しい話が描かれなければならなかったのだろうか。
ひとつの奇跡として、まるで本作における「救い」のように、「水草の花」が描かれている場面があるけれど、こんなの悲しすぎて救いでもなんでもない、と私は思った。
これから先、地球と人類がどんどん無残になっていくことを、『未来編』『宇宙編』『復活編』を読んだ私は知っている。
「水草の花」がその後の地球と人類(とエデン17の人々)に何らの意味をも持ちえないことも知っている。
それなのに、それをあたかも「救い」のように描くのは、あまりにも残酷すぎではないだろうか。
残酷な場面が本作にはたくさんあるけれど、この「水草の花」は、一見すると「いい話」風の装いをしているがゆえに、より残酷であると私は思った。
続きが気になります。