トーベ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳
あのころは、世界はとっても大きくて、小さなものは、いまよりもっとかわいらしく、小さかったのです。わたしはそのほうがよっぽどすきです。わたしのいう意味がわかりますか。(p.117)
このように、ムーミンパパはしばしば、読者に語りかける。
ここで想定されている読者とは、ムーミントロール、スニフ、スナフキンの3人。
本書は、ムーミンパパが子どもたちのために書いた「思い出の記」=自伝である。
ムーミンパパの孤独な出自から、ムーミンママとの劇的な出会いまでを描いた、愛と勇気の冒険譚。
ほがらかで、どこかドライな語り口は、なんともいえないユーモアがあり、また、かわいらしくもある。
このように一見するとほんわかした雰囲気を漂わせているものの、しかし、細部に目をやれば、そのすべてが、研ぎ澄まされた詩のような切れ味を宿している。と私は思った。
冒頭で引用した箇所だってそうである。
一見すると、平易な言葉で、子どもたちに優しく語りかけているように見える。
「こどもの頃は、世界がきらきらしていたんだよー」みたいなことを言っているようにも思える。
たしかにそういうメッセージも込めてあるのかもしれないけれど、
ここに漂っている思いは、むしろある種の「喪失感」ではないかと思う。
自分のなかからは失われてしまった何かへの哀惜の念。
ムーミンパパは、そのように子どもたちに語りかけつつ、自分自身の暗い部分を見つめている。本書はこのような二重構造になっている、とも言える気がする。
とても面白いし、一文たりとも目が離せない。
構成も面白くて、
「ムーミンパパの文章」と「それを読んでいる子どもたちとの会話」が交互に繰り返されながら、物語が進んでいく。
ここでの、子どもたちのツッコミ(?)がなんとも可愛らしい。
とくに、ムーミンパパが精神的危機を乗り越えたくだりへのツッコミは面白かった。
それは、ムーミンパパが暗く沈んだ時のこと。
彼がその時、何をしたのかというと、要約すれば、海を眺め、部屋を整理整頓し、DIYで色々作ったりした。
そしたら、悲しいながらも自分は大きく成長していることに気がついた。
私はこのくだりにとてつもなく感動した。ムーミンパパが行った、いわば癒しの儀式は、とても重要な示唆を与えてくれたように思えたのである。
つまり海&整理整頓&DIYこそが、悲しみをかかえつつ成長できる方法だと教わった気がしたのだ。
ムーミンパパ、良いこと言うなあ! と思っていたら、
子どもたちの感想はなんと、
「(あのくだりは)長すぎて、たいくつだった」という身もふたもないものだったのだ。
そのことにムーミンパパは本気で落ち込んで、台所の暗いところにしゃがみこんでくよくよしてしまう。そこをムーミンママに見つかって、励まされているのがなんともおかしい。
そしてフィナーレの美しさといったらないですよ。
不意打ち的で鮮やかな感動。
うおーってなりました。私は思わず立ち上がりました。
そして、気がついたことがある。
ムーミンパパはなぜ、自伝を書こうとしたのか。
そもそもの発端は、彼が「かぜ」をひいたことだった。
その彼が、最後には元気になって情熱を取り戻し、物語はああいう結末を迎えている。
つまり本書は、
子どもたちへの教訓に満ちた愛と勇気の冒険譚、でありつつ、
「かぜ」をひいたムーミンパパの、喪失と再生の物語でもあったのだ。と私は思った。
太陽はいま、あがろうとするところです。数分のうちには、夜はおわり、なにもかもが、またはじめからはじまるのです。(p.285)
ムーミンの童話を読むのは、これで三冊目で、そのどれもが傑作すぎるのだけど、私はこの『ムーミンパパの思い出』がとくに大好きだ。
今後、何度も読み返すことになるだろう。