Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』山室静訳、翻訳編集:畑中麻紀

 ふと、自分の青ざめた鼻が鏡のかけらにうつっているのを、フィリフヨンカはちらと見たのです。そして思わず窓のところまで走っていくと、外へ飛び出しました。

(p.78「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」より)



 ムーミン小説の中で唯一の短篇集が本作である。

 九つの作品が収められている。

 

 これまでに五作の長編が書かれている。『ムーミン谷の彗星』、『たのしいムーミン一家』、『ムーミンパパの思い出』、『ムーミン谷の夏まつり』、『ムーミン谷の冬』。

 これらの作品では、多くの場合、序盤で登場人物たちがのっぴきならない状況に陥る。

 でもなんか意外に平然としているようにも見えたり。むしろ破滅を楽しみにしているような人もいたり、これはちびのミイですね。

 そうして物語は進む。ところどころで笑わせつつ、不意打ちのように胸を締め付けられつつ、深遠な言葉がさらりと出てきたりしながら、そして随所でまったく説明がなされない謎めいた仕草・セリフが描かれたりしながら。

 物語は次第に熱を帯びてくる。

 エンディングに向けて、最高潮に盛り上げて、そこから更に盛り上げて、その上にもうひとつかふたつの盛り上がりを重ねてから、静かでまばゆいハッピーエンドを迎える。鮮やか、としか言いようがない。いつも必ず、目が潤う。

  しかしこのような尋常ならざる盛り上がり方というのは、長編ならでは、と私は思っていた。

 なので、短編がどのようになっているのかと興味津々で読み始めたら、短編は短編で凄いことになっていた。

 

 ムーミン小説の魅力のひとつに、「大切なことは語らずに伝える」というものがあると思う。この短編集ではその魅力が際立っている。雄弁なる沈黙。それは、飾り立てのない言葉たちが、絶妙に配置されることで起きる奇跡のような沈黙。

 「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」という歌が昔、あった。言葉というものは究極のところで「伝わらない」道具なのだということを歌っているような気がして素敵だと思った。

 画家でもあったトーベは、それこそ本能的に言葉が万能ではないことを分かっていたのでは。彼女の、表現としての言葉の使い方が、かなり独特に思えるのは、それは言葉を絵画的に扱っているから、と言えないだろうか。

 言葉で語るのではなくて、言葉で描くのである。のである、って、ちょっと、かっこつけてるようだけれど、何を言っているのかわからない。そもそも絵のことを全然わからないのに、絵画的とか使っちゃうのがね…。

 

 いやでもね、トーベの評伝には、トーベの描いた絵についての解説も載っているわけですよ。それを読んで私は感動したんです。

 つまり、光のあたりかたや、チェスの駒の色や…さりげなく描かれているそれらに、「ここにこんな意図がこめられているのか!」と衝撃を受けたんです。そしてムーミンの小説も同じではないかと思ったのです。

 言葉で語らずに、言葉で描くことで、伝える。だから絵画的。それはムーミン小説において「沈黙」が重要な要素であることと無縁ではあるまい。

 

 沈黙について。

 この記事の冒頭で引用した箇所を見てみる。

 ここでは、フィリフヨンカが家を飛び出した理由は、「鏡の破片に映った自分の鼻を見たから」と語られている。ここに沈黙が存在している、と私は思う。

 明らかに語られていない部分がある。

 ここは、標準的な語りの手順としては、

 鼻を見る→○○と思う→だから外に出る、ですよね。

 でもトーベ・ヤンソンは「○○と思う」について語っていない。

 フィリフヨンカは、鏡を見てどう思ったのだろう?

 なぜそれで外に飛び出そうとしたのだろう?

 私は、こんなことを延々と考えてしまうのだ。沈黙の魅力はここにある。

 なぜ、それが割れた鏡でなくてはいけなかったのか? とか。

 そういえば『ムーミン谷の十一月』でも、割れた鏡は登場するけれど、そこに映った自分の姿を見たあのキャラクターは、この時のフィリフヨンカと同じことを思ったのか、それとも違う何かを? とかね。

 そうして考えているうちに、フィリフヨンカを突き動かした「何か」について、なんとなく「こういうことだったのかな」とぼんやりと思い浮かべられるようになってくる。その「答え」は極めて個人的なものであり、言語化は難しい。なぜってそれは、語らずに伝わってきたものですからね。共鳴したんです。

 「世界でいちばん最後の竜」の、あの場面でのムーミントロールの沈黙なんて、この短篇集の中でも私的には最強の沈黙である。

 

 ムーミントロールは、長いことだまっていました。(p.112)

 

 本文を読むと分かりますが、このたった一文で、とても複雑な心の動きが表されている。こんな雄弁な沈黙が存在すること自体、ひとつの奇跡としか言いようがない、大げさではなく。絵画的言語表現によってもたらされる、雄弁な沈黙。静寂がスパークしている短篇集!

 

 「この世のおわりにおびえるフィリフヨンカ」について。

 穏やかで平和そのもののような夏の日と、その平和が平和すぎるゆえに疑いを持つフィリフヨンカ。この平和に私は騙されないぞ、恐ろしいことがやってくるに決まっているのだと思い込んでいる。

 でも、「この世」は本当に穏やかで光もまぶしくて、美しい。それにもかかわらず、いや私は騙されない、やがて「おわり」がやってくる! と怯えるフィリフヨンカ。

 光が溢れる天国のような夏の日。暗澹たる気持ちでなかば取り乱しているフィリフヨンカ。この強烈な対比が面白い。

 しかし、いつしか本当に「おわり」を迎えるかのように、世界にはなにやら物騒な気配が漂い始め……。

 

 彼女は、何に怯え、苦しめられていたのだろうか。

 変調はあった。

 

 ところが、そういうお気に入りのかわいい品も、この浜辺の陰気な家では、みんな意味と落ちつきをなくしてしまうのです。(p.61)

 

 それらのこまごまとした小物は、本来なら彼女にとって「人生をいっそう軽やかにし、安全で自由にする(p.61)」ものだったのである。

 しかし今となってはそれが上手いこと彼女にフィットしない。もしかしたら真逆の意味を持ち始めてさえいたのかもしれない。つまり、「人生を重たくし、危険で不自由にする」ものに。

 さあ、フィリフヨンカはこの状況から決別、あるいは脱出できるのか? ということがこの作品で描かれていることだと思えなくもない。

 それは古風な自分とのお別れ=「家」から自由になれるのか、ということでもあるだろう、たぶん。

 そして彼女は、一度、家から脱出するんですよね。青ざめた鼻を見て。そして。

 

 古風なフィリフヨンカは、たぶんもう失われてしまいました。でももはや、そんなものを取り返したいのかさえ、わからなくなっていました。(p.82)

 

 天気はなんとも不安定で、波もどこへ行きたいのやら、わからないようでした。フィリフヨンカも同じでした。(p.83)

 

 浜辺(これもムーミン小説における重要なモチーフである)に立つフィリフヨンカは逡巡している。彼女は岐路に立たされている。

 行くか、戻るか(家に)。

 彼女の内面と天候がシンクロしているのだとしたら、彼女が怯える「この世のおわり」とは、「彼女自身の何かのおわり」だったのかもしれない。

 変化を望みつつ、変化に怯える。人間って、そういうものですよね。

 自分は変われるのか、変わったほうが良いのか、変わるべきなのか、変わらないべきか、難しい……。

 しかし「義務」という言葉に背中を押され、彼女が「戻る」ことを選んだ時、とてつもない「おわり」がやってくる。

 この「おわり」は、外からもたらされた奇跡ではなくて、フィリフヨンカ自身が生み出したものだと思う。天気=フィリフヨンカですからね。

 この「おわり」がすべてを吹き飛ばす。家も、小物も、なにもかも。フィリフヨンカはうっとりして考える。

 

(すっきりしたわ! [中略] みんな、きれいさっぱり吹き飛ばされちゃったんだから!)(p.86)

 

「もうわたし、二度とびくびくしないでいいんだわ。とうとう自由になったのよ。これからは、どんなことだってできるんだわ」

 そして、陶器の子ネコを岩の上に乗せました。(p.86)

 

 ああ、フィリフヨンカも子ネコも良かったね、って思うじゃないですか。「お日さまがのぼりました。(p.86)」ともあるし。フィリフヨンカ自身の夜明けでもある、と思うわけですよ。

 この後、おおいにはっちゃけるフィリフヨンカ、キュートですよ。ガフサも来てくれてね。こりゃあいい感じのハッピーエンドだなって思って、もうそういう心構えで読み進めていって、不意打ちのように最後の一行に出会うわけですよ。

 新しい自分になるということは、とりもなおさず、古い自分に別れを告げるということでもある。そこには喜びと同時に、悲しみも存在している。この悲しみは見えにくいし、いつも喜びばかりが持てはやされているけれど。トーベはそれを描いた。しかもあんな簡潔な文章で。トーベ・ヤンソンの凄み。 フィリフヨンカ、フィリフヨンカ、フィリフヨンカ…。