Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

ムーミン小説と私

 私はそのキャラクターがムーミンだということは知っていた。ムーミンパパ、ムーミンママのことも知っていたし、スナフキン、ミイのことも知っていた。

 知っていたといっても、そういうキャラクターがいるなーぐらいの認識であり、ムーミンが実際はムーミントロールという名前だとは知らなかったし、アニメも観たことがなかった。原作小説の存在も知らなかった。

 私がムーミン小説の存在を知ったのは、『ムーミン公式ファンブック 2020』という雑誌のおかげである。妻が読んでいた。部屋の中の目に付く位置にあったので、私もときどきその雑誌を手に取ったりしていた。

ムーミン公式ファンブック 2020』では原作小説の特集が組まれていた。わずか7ページに、全9冊の小説の魅力&ムーミン75年の歩みが、素敵な挿絵もたくさんありつつ、ぎゅぎゅっと紹介されていた。

 いま読み返してみても、この7ページは奇跡みたいな7ページで、構成って呼んでいいのか何と呼ぶのかわからないけれども、見事としか言いようがない。この7ページを繰り返し読んでいるうちに、私は原作小説が読みたくてしょうがなくなっていた。

 それで自分の誕生日に文庫のBOXセットを買った。つまり「旧版」ということになる。購入直後に「新版」の存在を知ったが(というか『ムーミン公式ファンブック 2020』でも「新版」のことが紹介されてはいたけど読み落としていた)、まあ旧版でもいいかと思っていた。この時は。

 それで『ムーミン谷の彗星』から読み始めて、面白すぎて愕然とした。正直なところ読む前は、油断していた。ここまで面白いとは思わなかった。まあなんかほのぼのした、ほんわかーなお話なんだろうなー、って思っていた。

 けっこう違った。

 いや確かにムーミン谷にはそういう側面もある。美しい場所だし、居心地も良さそうだ。わりとほんわかーもしている。でも、この小説の面白さはそれだけではないと思った。

 うろ覚えで引用するけれど「ぼくはなれないんだよ…ならしてもらえないんだよ…善良な人間には!」(ドストエフスキー地下室の手記江川卓訳)という考え方というか価値観というか世界観が、私の中にはずっとあった。

 諦めの境地のどん底に突っ立って、逆切れ気味に開き直るというこの考え方に、私の半生は支えられてきたといってもよい。自分自身のどうしようもなさを、どうしようもないものとして受け入れることが、生存戦略として有効なのは間違いない。さみしいけれどね。

 でも、例えばムーミン谷で私が「ぼくはなれないんだよ…ならしてもらえないんだよ…善良な人間には!」と叫んだらどうなるか。

 きっと誰かが「でもさ、とにかく腹を立てることはできたわね。」と涼しげに言ってくる。そして虚を衝かれた私が呆然としているところに、風が吹き抜ける。気がつくと自分の中の切迫した何かが消えている。

 私にとってムーミンの小説とは、こういう感じで、そしてこの感じを、私はとっても格好いいと思うし、独特で面白いと思う。

 夏目漱石が「写生文」という文章で、「写生文家のかいたものには何となくゆとりがある。逼っておらん。屈托気が少ない。したがって読んで暢び暢びした気がする。」ということを書いているけど、ムーミン小説にも当てはまるような気がする。

 そう、ムーミンの小説って、どことなくゆとりがあって、読んでのびのびした気持ちになる! 窒息しそうな時代を生きる私たちにとって、こんな素敵な作品はないのではないでしょうか? と私は思う。

 

 読むなら「新版」をお勧めします。公式サイトでは新版について「翻訳を現代に合うように読みやすく改訂した」と紹介しているけど、これはかなり「抑えた」表現だと思う。

 新版を読んだ私の率直な感想は、「ムーミン谷の本当の姿が読者に開放された」というものです。なので、「旧版」も良いのですが、旧版を読んだ人にも新版をお勧めします。

 一見すると旧版と同じように見えても、新版はもはや別物なんです。

 新版は、旧版の雰囲気を残しつつも、文章の隅々まで、徹底的に吟味され、磨き抜かれている。この神業的な仕事をされた畑中麻紀さんのnoteに、ムーミン小説の翻訳のお話が色々と綴られていて、それを読むにつけ、畑中さんという翻訳家がいてくれて良かった! と感激するわけです。畑中さんがいなければ、今の形での新版を目にすることはなかったわけだから。

 畑中さんのnoteでは、旧版から表現を改める過程が、明るい感じで描かれているけれど、この、「表現を改める」という行為が、ムーミン小説においてはかなり厳しいものだったように思われる。これまでは誤訳さえも訂正できないみたいだったから。なぜそう思ったのかというと、先日、図書館で『ムーミン童話の百科事典』(1996年、講談社)という本を見つけたからです。

 この本で「誤訳」の指摘がされている。旧版の『ムーミン谷の十一月』には「つぼ」が出てくるのだけれども、「このつぼは『池』の誤訳である。(p.142)」と、はっきりと書いてある。

 小説と同じ講談社から出ている本で、誤訳の指摘がされているのだから、直せば良いような気もするんだけれど、1996年以降も『ムーミン谷の十一月』は「つぼ」のまま版を重ねまくっている。なぜだろう。きっと、事情があるんでしょう。でも、誤訳を誤訳のままあえて残しておく事情って、なんだろうね……。少なくとも、読者のほうは向いていないですよね。

 新版の『ムーミン谷の十一月』では、もちろんちゃんと、池になっている。これがどれだけ大変なことだったのか! もちろん改められたのは池だけではなく、もう全部なんです、全部。全部! しがらみの柵の向こう側にあったムーミン谷が、開放されたんです! 「ぼく」と「ぼくら」の「ら」の一文字に至るまで、徹底的にブラッシュアップされた新版が存在することを、私は世界中に誇っている。そして、色んな制約から解き放たれた、畑中さん訳のトーベ・ヤンソンの作品が読める日が来ることを、切に願っている。

ムーミン公式ファンブック 2020』に載っている『ムーミン谷の十一月』の背表紙部分の色がオレンジになっている! 秋っぽい。実際は青緑色で発売されている。青も緑も私の大好きな色なので、世界文学の最高傑作と私が思う『ムーミン谷の十一月』に、青緑が使われているのは嬉しい。