Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』鈴木徹郎訳、翻訳編集:畑中麻紀

 ホムサ・トフトには、まるっきり今までとちがったママが見えて、それがいかにもママらしく、自然に思えました。ホムサはふと、ママはなぜかなしくなったのだろう、どうしたらなぐさめてあげられるのだろうと思いました。(p.258)




1.

 昨年、初めて読んだ『ムーミン谷の十一月』が面白すぎて、半年くらいずっと繰り返し読んでいた。今年に入って初めて読み返してみたけれど、やはりとてつもなく面白く、忘れていた箇所や、読み落としていた箇所などもたくさんあり、新鮮な気持ちで読めた。

 そして今回、私がとても気になったのは、『ムーミン谷の十一月』と『ムーミンパパ海へいく』が似ているということである。

 

 両作品とも、移動から始まる。そして移動先では、肝心なものが不在であり、色々と忘れがちなおじさんが登場し、少年は想像をたくましくし、終盤にはパーティーが開かれ、最後は光で終わる。

 

 似ているところを恣意的に拾い上げただけでしょう、という気がしないでもないが、しかしこの類似は偶然ではないはずだ、ここに何かしらの意図が込められているはずだ、と思わずにはいられない私である。

 

 奇妙に似ているふたつの作品。しかしふたつには決定的な違いがある。

 

 ムーミンママは立ち上がって、きっぱりとした足どりでドアのほうに向かいながらいいました。

「こうなったら、ね。わたしが自分で行って、礼儀正しいむかしふうのやりかたで、臆病でへんくつなあの人を招待してくるわ。(後略)」

ムーミンパパ海へいく』(p.301)

 

(どうもご先祖さまは、気分を害したらしいな。主賓はちゃんと呼びにいって、つれてこなくてはいけないのだ。むかしは、そうしたものだよな。みんな、礼儀知らずもいいところだ)

 とつぜん、スクルッタおじさんは立ち上がって、ドンとテーブルをたたきました。

ムーミン谷の十一月』(p.206)

 

『海へいく』では、漁師=主賓を灯台でのパーティーに招待することに成功している。ムーミンママが彼の手をつなぎ、優しく声をかけながら、怯える漁師に境界を越えさせている。

 しかし『十一月』では、ご先祖さまをパーティーに招待できていない。失敗している。

 

 成功と失敗。

 

 ふたつの作品の決定的な違いがここにあると私は考えるのだけれども、では、この失敗は、何を意味するのか。




2.

 その前に、そもそも、鏡の中にご先祖さまは本当にいたのだろうか? ご先祖さまは、認知機能に危うさを抱えている可能性が大いにありうるスクルッタおじさんが、鏡の中に見たまぼろしではなかったか?

 

「わしは今、たまらなくかなしいんだ。あいつらが、わしにどんな仕打ちをしたか、わかるかね」

 おじさんはことばを切って、相手がなにかいうのを待ちました。ご先祖さまは首をゆっくり横にふって、足ぶみしました。

「そのとおりさ」

 と、スクルッタおじさんはいいました。(p.175)

 

 スクルッタおじさんが鏡の中に映った自分をご先祖さまと勘違いして話しかけているこの場面を、鏡の中には本当にご先祖さまがいた、とあえて誤読してみる。

 つまり、ご先祖さまが「首をゆっくり横にふり、足ぶみをした」とき、スクルッタおじさんはその動作をしていなかった、というホラーな読み方である。

 誤読、と書いたけれども、少なくともそういう読み方は排除されてはいないですよね、たぶん。

 なので、鏡の中にご先祖さまは本当に存在していたと考えることも可能ではあると思うのです。鏡の中にご先祖さまは、「いる」。

(パーティーの最中にみんなでこの鏡の前にやってきた時は、鏡の中に映るのはスクルッタおじさんでしかなかったという描写がされているけれど、大抵の心霊現象というのは、人が大勢いる時には起きないものです。ましてや、ヘムレンさんみたいな人物がいる場合にはね。)

 

 三百歳だというご先祖さまは、永遠(不死)を象徴しているとも言える。

 そして、永遠とは、始まりも終わりもない状態を指すと思うのだけれども、閉じた輪のようになっているこの作品には、永遠が閉じ込められていたと私は考える。

 

 

 

3.

ムーミン谷の十一月』の構造は円環になっている。

 登場人物たちは、閉じられた輪の中を繰り返し生きている。

 この物語は、スナフキンが旅立つ場面から幕を開ける。そして最終章(21章)でスナフキンは再び、旅に出る。円環。閉じた世界なのだ。

 フィリフヨンカのえりまきもホムサの読む本も、この世界の構造を暗示してはいなかったか。

 

 ミムラねえさんはつくづくと、フィリフヨンカをながめてみました。(中略)首にまいているのは、自分のしっぽにかみついている、きつねのえりまきです。(p.80)

 

 ホムサ・トフトは、(中略)本のつづきを読みはじめました。とてもあつい、大きな本です。はじめのページもおしまいのページもちぎれています。(p.73)

 

 キツネのえりまきはウロボロス(始めと終わりの一致)だし、ホムサの読む本には始まりも終わりもない。円環。このふたりの小道具の共通点は興味深いですよね。

 そして極めつけはヘムレンさんのセリフである。

 

「ちょっと奇妙なんだよ。ぼくはときどき、今いっていることや、していること、それから今起きていることなんかが、まえにもそっくり同じようにあった気がするときがあるんだ。ねっ、ぼくのいっていること、わかるかな。すべてがそっくり同じみたいなんだよ」(p.226-227)

 

「変だな」

 ヘムレンさんはいいました。

「ほら、まただよ。いつもおんなじことばっかり起きているって気がするんだよね」(p.239)

 

 これらのセリフは、「毎日が同じことの繰り返しで、自分以外の何かになりたいけれど、自分以外の何者にもなれない」というヘムレンさんが抱えていた絶望に対して、「それも悪くはないかもな」と思えるようになるまでの変化の過程を端的に表しているはずである。

 しかしあえてこのセリフを字句通りに受け取ってみよう。つまりヘムレンさんはここで「自分はループした世界の中を何度も生きている気がする」と告白している、と読んでみるのだ。

 

 

 

4.

 繰り返される物語。始まりもなければ終わりもない。それは、生まれることもなければ死ぬこともないということであり、「毎日が日曜日」ということでもある。『ムーミンパパ海へいく』で「月曜日=死の訪れ(個人の見解です)」への不安を口にしていたママが、『ムーミン谷の十一月』に残していた手紙には何と書かれていたか。

 

『どうか、ストーブで火をたかないでくださいね。中にご先祖さまが住んでいますから。

ムーミンママ』(p.180)

 

 この空間の永遠性を象徴するご先祖さまを守るようにと、ママは言っているのだと私は思う。ご先祖さまがいるかぎり、死は訪れない。

 

 しかし、それで本当に良いのだろうか。不幸を回避しつづける状態を、幸福と呼べるのだろうか。本当の悲しみがなければ、本当の喜びもないのではないだろうか。と考えたのが、スクルッタおじさんである、たぶん。

 

「わしよりも、もっと年よりがいるなんて、うれしいことだろうか、腹の立つことだろうか」

 おじさんはその問題に、すごく興味がわきました。一つ、ご先祖さまを起こして知り合いになってやるぞ、と決心しました。(p.97)

 

 生き続ける(永遠である)ということは、幸福なのか、不幸なのか、そのことを直接ご先祖さまに聞いてみよう、というわけだ。

 また、この直前には、おじさんはミムラねえさんに対して次のようなことを語っている。

 

「休暇中には、死なないことになっているのだ」(p.96)

 

 ムーミン谷に死が訪れないことを、おじさんは十分に自覚している。

 そして、『ムーミンパパ海へいく』で未解決に終わったと私が思い込んでいる「毎日が日曜日問題=この世界に死は訪れない問題」を、スクルッタおじさんが引き受けたのだ、と私は思う。

 

 このような問題意識を持つことのできるおじさんは、この世界が閉じた輪になっていることにも自覚的だったと思われる。「まるっきりあたらしいものを見るんだ(p.66)」とは、この繰り返しから抜け出して違う景色を見たいということを言っていたともとれる。

 たくさんの眼鏡は、彼がこの世界をいわば「何周」したかのあらわれかも。

 終盤、おじさんはご先祖様に「あいつらまた、なにもかも、こんなふうにしちまったんだ。はじめからのことを知っているのは、もう、あんたとわしだけ(p.232)」と言うのだけれど、このセリフは看過できないですよね。意味深長だよね。ループしてるっぽいよね。スクルッタおじさん、ただものじゃないですよ。

 

 そういえば、私は、おじさんが9章のあの場面にいないことについて前から気になっていたのだ。あの場面とは、p.84-86の、「フィリフヨンカとヘムレンさんが言い争う場所にいるホムサ」ら三人を挟むようにして、ミムラねえさんとスナフキンが向かい合う場面である。

 私はこの場面で、ミムラねえさんとスナフキンの間で何かしらの「目くばせ」が行われたと思っている。

 

 繰り返し仮説、というものがある。というものがある、って、私がでっちあげた仮説なのだけれども、これは、ムーミン小説においてしばしば見られる「間をおいて繰り返される同じセリフ」に挟まれた部分の描写には、色々と複層的な意味が込められている、という説である。

 この「目くばせ」の場面では、ヘムレンさんの「来てくれて、とてもうれしいよ」というセリフが繰り返される。そして、その間にある描写には、スナフキンは、あいまいなしぐさをして、もごもごいう(p.85)」というものがある。

 このスナフキンの仕草は、ヘムレンさんに対してなされたものであり「わかったよ、でも、いいたすことはなんにもないよ、という意味(p.107)」なのだろうとは思う。

 しかし。

 ここでは同じセリフが繰り返されているのだ。油断してはいけない。「繰り返し仮説」によれば、このスナフキンの仕草には何か別の意味がある、と私は思う。

 で、これは、ミムラねえさんへの「了解」だったのではないだろうか、何らかの取り決めについての。そして、二人は無言のうちにどんな取り決めを交わしたのかといえば、それは間に挟まっている三人への、まあ、その、この三人を元気にしてあげようね、みたいな、そういう、その、あれですよ……。

 そしてなぜここにスクルッタおじさんはいないのか、私はずっと気になっていたのです。きっと、おじさんは「特別枠扱い」ということなのだろう。ちょっと次元が違う感じ。ただものじゃないですよ。

 で、この時、おじさんがどこにいたかというと、橋の上。境い目です。彼はしょっちゅうここにいた。何を考えていたのだろう。おじさんが気にかけていたのは、なんだろうね……。




5.

 さて、それでは、ご先祖さまを呼び出せなかったということは、どういうことか。

 

 話を整理してみる。

 おじさんは、ご先祖さまに聞いてみたいことがあった。永遠ってそんなにいいものですか、ということを。うん。

 おじさんは、ご先祖さまをパーティーに呼びたかった。うんうん。

 おじさんは、ご先祖さまをパーティーに呼び出せば、『ムーミンパパ海へいく』で起きたような奇跡が、『ムーミン谷の十一月』でも起きると思っていたのではないだろうか。……まあ、うんうん。

 

 この場合の奇跡とは、なんだろう。それはやはり、これまでのムーミン小説で見られたような、怒涛の盛り上がりの果てのハッピーエンドでしょうよ。

 フィリフヨンカが抱いていた底知れぬ寂寥感は消え去り、ヘムレンさんは違う自分になれたことを喜び、小川は美しいせせらぎであり、ムーミン一家は雪が降る前に帰ってきて、ホムサはママに抱きしめてもらい、あたらしい日々が始まる。

 

 しかし、失敗してしまった。奇跡は起きなかった。

 

 ご先祖さまを呼び出せなかった。それは、作品内から奇跡が失われてしまった、ということである。

 永遠は永遠のままで良いのか、また始めからやり直さなければならないのか。

 

 ここで、九周目(眼鏡の数は八個なので)のスクルッタおじさんは、行動に出る。

 

 21章でスナフキンが旅に出れば、この世界はふたたび閉じてしまう。その前になんとかしなければならない。なんとかすることでなんとかなるのなら、だけれど。

 そして。

 おじさんを突き動かしたのは怒りである。ご先祖さまを映す「古鏡」は砕け散ってしまった。このことによって、円環に少し、ひび割れが生じたのだろう。そしてこのひび割れは、小さなホムサ・トフトが向こう側へ通り抜けるのには十分な隙間だったようだ。

 

 鏡が割れる=ご先祖さまが消える=永遠ではなくなる=死が訪れる。おそるべき論理の飛躍だという自覚はあるが、でもまあ首の皮一枚くらいで繋がっている気がしないでもない。

 超高齢で容体も芳しくなかったスクルッタおじさんは今、死の淵に立っている。ご先祖さまは無言のうちに消えてしまった。永遠って、そんなにいいものなのだろうか、聞けずじまいになってしまった。おじさんは今、何を思うのか。

 

 やっと、どうしたらいいかわかったのです。じつにかんたんなことでした! 冬なんて飛びこして、うんと大またで一歩、四月の中にふみこめばいいんです。(p.234)

 

 そうしておじさんは永い眠りに入る。おそらくもう二度と目を覚ますことはないだろう(個人の見解です)。

 

 その夜、空はすみきっていました。(p.235)

 

 この夜に、ホムサがある行動を取る。ムーミン小説全作品の中で、もっとも優しくて、もっとも美しい場面だと思う。年老いたおじさんを思うこの小さな子こそが、奇跡が失われたムーミン谷における希望なのだ。

「ガラス玉のなかは、からっぽ(p.236)」で、夜空には「数えきれないほどの星が輝いていて(p.236)」、洋服だんすの中からは「かすかに、なにかのスパイスのかおり(p.236)」がしている。これまでとは違う、静かな夜。

 あたらしい物語が始まろうとしている。日曜日はもう終わったのだ。

 

そしてヘムレンさんは「ほら、まただよ。いつもおんなじことばっかり起きているって気がするんだよね」という経験をするわけだが、このあと、おそるべき「初体験」を迎える。

 

「あのね、きみに打ちあけなきゃならないことがあるんだ。海に出たのは、今回が生まれてはじめてだったんだ」(p.248)

 

 この場面が、私は本当に本当に大好きで、大好きすぎて、この前後の文章は引用できない。ぜひ、読んでみてくださいね。

 弱みを打ちあけることができる人は、ちっとも弱くなんかないんですよ、ヘムレンさん。そして、その打ちあけられた弱みを、優しく受け入れることの強さ。涙が出てくるよ。

 ともあれ、ヘムレンさんはここにきて「生まれてはじめて」の経験をしたのだ。円環は完全に壊れた。

 

 

 

6.

 そして物語は21章を迎える。スナフキンは旅立つ。

 この時、南西風が吹き始めたことに注目したい。『ムーミンパパ海へいく』では、終盤からエンディングにかけて、南西風が吹き続けている。その南西風が、『ムーミン谷の十一月』でも吹き始めたのだ。これはもう「うまく繋がった」合図のようなものである。

 

 目に見えないところで、ひそやかに、奇跡は起きていたのだ。フィリフヨンカ、ヘムレンさん、ミムラねえさん、スナフキン、スクルッタおじさん、ホムサら六人が、やかましくてめちゃくちゃな共同生活をしくじりつつ送りながら、自分自身を受け入れ、不器用に相手を認めた結果が、南西風なのだと私は思う。素晴らしいじゃないですか。

 

 ここからいよいよ谷に残ったホムサ・トフトの「まるっきりあたらしい」物語がはじまる。

 

 ムーミン谷はもうすっかり、まぼろしの中の景色になっていました。ムーミンやしきも、庭も、川も、影絵を見ているようです。ホムサは、どこまでがほんとうで、どこからが自分の空想だかわからなくなってきました。(p.255)

 

 ホムサ、がんばれ! 恐怖を覚えたホムサが駆け出した先、そこは。

 

 そこはあたらしい世界でした。(p.256)

 

 ついに、あたらしい世界があらわれたのだ。

 この「あたらしい世界」でホムサは「大きな安心につつまれる(p.256)」

 そして、頭の中に「まるっきり今までとちがったママが見えて(p.258)」くるのである。

 この物語が求めていたのはこの「まるっきり今までとちがったママ」だったのだろう。ホムサはここになんとか辿り着くことができた。

 これでもう、大丈夫。

 ハッピーエンドの扉は開かれた。

 

 南西風が象徴的に吹き渡る。トゥーティッキが歌っているようにも思える。手回しオルガンのハンドルを回しながらね。

 彼女の声を聞きながら、ホムサは歩く。

 山の上で腰を下ろす。ただ前だけを向いて。

 そうしたら、ほら。光が見える。