松浦理英子『風鈴』
いまは大人になった「わたし(アオイ)」が物語る、子供の頃の話。
それは忘れられないひと夏のまばゆい体験、と思いきや、である。
終盤、物語は急速に陰りを見せ、瞬く間に真っ暗闇の穴に落ちて、穴の底から地上を見上げるところで幕となる。
主要な登場人物はアオイ、アオイの幼馴染でひとつ年下のワタル、中学生のミヤビの三人。
物語は大きくわけてみっつのパートからなる。
1・小学校低学年の頃、アオイが廃井戸に落ちた話
2・小学校五年生の夏、ミヤビと過ごした数週間の話
3・小学校五年生の秋、集落で起きた事件の話
1・小学校低学年の頃、アオイが廃井戸に落ちた話
アオイは幼馴染のワタルと遊んでいる時に、廃井戸に落ちてしまう。
父が垂らしたロープを体に巻きつけて、アオイは無事に引き上げられる。
この時、もしボルダリングを知っていたら、井戸の中から登って行けたかなと思う。
2・小学校五年生の夏、ミヤビと過ごした数週間の話
ボルダリングをアオイとワタルに教えたのは、ミヤビと言う中学生の少女である。
東京に住んでいるミヤビはこの夏、父の仕事に合わせて、アオイの住む集落に滞在していた。
アオイとワタルは、いつもミヤビと遊ぶようになる。ミヤビはボルダリングが得意で、二人に教えたりして、三人は色々と楽しい時間を過ごす。
しかしある時から、ミヤビは三人と遊ぶ日の他に、アオイだけと遊ぶ日、ワタルだけと遊ぶ日、というのを交互に織り交ぜるようになる。
ミヤビと遊んでもらえない日がつらすぎてしょうがないアオイは、ミヤビのことは気にしないことにして、両親の工房で(木工細工の仕事をしていた)夏休みの宿題の工作を作ることにする。作るのは木の風鈴である。やがてそこにワタルもやって来て、ワタルもまた木の風鈴作りを始める。
さらにそこにミヤビもやって来る。ミヤビもまた、風鈴を作り始める、夢中で。風鈴が完成した翌日、ミヤビは東京へ帰って行く。
3・小学校五年生の秋、集落で起きた事件の話
集落でむごたらしい事件が起きる。
アオイは大人になった今でも、子供の頃に感じていた、大人が怖いという思いを忘れることができない。子供が犠牲になる残酷な事件をニュースなどで知ったとき、アオイはいつも廃井戸の底に引き戻される。
この小説は、次のようなアオイの語りから始まる。
「これは、わたしがまだ世の中のことをほとんど知らなくて、自分に降りかかるもの押し迫って来るものを上手に受け流す術さえ知らなくて、日々のあらゆる出来事を身一つで真正面から受け止め、ささいなことにもいちいち心を揺さぶられ息を乱したり立ち尽くしたりしていた子供の頃の話になる」
ここに、そよかぜに揺れる風鈴のイメージを重ねることができると思う。タイトルの「風鈴」とは、作中でアオイたちが作る風鈴だけではなく、「子供の頃のわたし」あるいは繊細で敏感な「子供そのもの」のことを表している、とも言えると思う。
あと冒頭と終盤で、子供がロープに吊るされる場面が出てくる。風鈴のように。終盤ではアオイ自身も言っている、これは風鈴にそっくりだ、と。
風鈴的に揺さぶられがちなアオイ、そしてワタルに比べて、ボルダリングの得意なミヤビは対照的だった。
彼女は初登場時、崖にしっかりと張り付いているのだ。そよ風なんかじゃびくともしない感じ。
ミヤビは赤いTシャツを着て崖に張り付いていた。「灰褐色の岩肌にミヤビの赤いTシャツが鮮やかだった」とアオイは語っている。
そして、その様子を目撃したアオイとワタルの前でワライカワセミの鳴き声(クワークワックワックワックワックワックワックワックワッ!みたいな凄い甲高いもの)を真似して「崖から飛びのくように身を離し、ワタルとわたしの前にポンと下り立った」のだから、けっこうすごい登場の仕方だと思いませんか。松浦理英子さんの傑作長編『犬身』で、登場人物の一人がスリラーダンスを踊っているところを主人公に目撃されなんか気まずくなるくだりがあったと思うんだけど、そこを思い出させるユーモラスな場面である。
三人はすぐに打ち解けて仲良くなる。しかしアオイはミヤビのことを「すでに大人の感覚を備えた小さな大人」と見ていて、自分とは違うよなあみたいなことを思ったりしている。崖をすいすい登るように、ミヤビには世の中も上手く渡っていけるような感じがある。
しかし、ミヤビは、すでに無邪気な子供ではないかもしれないが、けして大人なわけではないのだった。
ミヤビが泊まってる民宿の庭で、宵涼みをしている大人たちとミヤビの様子を、アオイが目撃したことがあった。
そこでアオイは「ミヤビの足元には蚊取り線香の赤い火がぽつんとあった」ことを目撃している。
初登場時、鮮やかに映えていた「赤いTシャツ」と比べて、なんだか「ぽつんとした赤い火」が心細く思える。あるいは、物凄く繊細で傷つきやすいミヤビを表しているようにも思える。
この宵涼みの場面でのミヤビと父、そしておそらくミヤビがひそかに好意を寄せていると見て間違いないトウノさんとのやりとりは、短いけれども超重要である。
なぜかというと、それは終盤に登場する「陰性の雰囲気」がある青年との対比として描かれているであろう場面であるということと、あと、なんというかうまく説明できないんだけど、ミヤビの挫折みたいなもの、自分がまだ子供であることのかなしみ、みたいなものが描かれている気がするからである。
この「宵涼み」以降、ミヤビは「奇妙な行動」をとるようになる。
すなわち、ミヤビは、アオイとワタルの三人で遊ぶ日のほかに、片方とだけ遊ぶ日を設けるようになったのだ。
放置された一方は、ミヤビと遊べなくてとてもつらい思いをすることになる。
なぜこんなことをしたのか、理由は分からない。
アオイは「退屈しのぎの奇策だったのだろう」みたいな解釈を述べているけど、いまひとつしっくりこない。
この奇妙な行動の直前に、上記の宵涼みの場面が描かれていることから、やはり原因はそこにあるのだろうとは思う。
アオイはワタルも同じように「誘ってもらえない日がつらい」と思っているだろうから、ワタルに相談しようともするのだが、妙に恥ずかしさを感じてできなかった。そして「まあワタルは異性だし、同性の友達ほど打ち解けているわけでもないし、家が近所だから仲良くしなきゃと思って仲良くしてるけど…」みたいなことを語る。
もしかしたらミヤビは、異性を気にせずに仲良くしていた「子供」の二人に少し意地悪をしたかったのかもしれない。
アオイはもうミヤビのことは気にしないようにして、両親の工房で木の風鈴を作り始める。
そこにワタルも加わる。
この時ミヤビは何をしていたかというと、どうもアオイやワタルを探していたらしい。
ミヤビがアオイの家に誘いに来ると、事情を知っているアオイの母親が「あら、アオイその辺にいなかった?」ととぼけてミヤビを体よく追い返していた。そしてこの時アオイは「わたしは工房の窓からミヤビが困惑したようにふらふらと我が家の玄関を離れるのを淡白な気持ちで眺め」ている。
この一文もまた、超重要だと思う。なぜならミヤビが「ふらふら」しているのだ。
それはワライカワセミの真似をしていた頃のミヤビからは想像もつかないような姿であり、そしておそらくアオイに見られていることに気づいていない油断した後ろ姿であり、無防備に内面が露呈している気がする。そしてそれが「ふらふら」に見える、つまり風鈴的である、と言うことができると思う。
数日後、ミヤビが工房にいるアオイとワタルを見つける。
ミヤビは、「わたしたちとの心の距離を測るようにいくぶん控えめな」微笑みを浮かべながら、木の風鈴作りに加わることになる。
ミヤビもまた風鈴作りに熱中した。
そして風鈴が完成する頃には、「ミヤビの顔つきからは毒気も洒落っ気も抜け随分素朴な表情を見せるように」なっていた。
ミヤビが作った風鈴は、木の板で作った崖に、クライマー模したヒト形が六個ぶらさがっていて、それらがぶつかって音を立てるというものだった。そしてヒト形を指して、
「この三つはアオイとワタルとわたしだよ」と言い、「あとの三つは?」と尋ねると少し考えて「わからない。子供かな。いつか生まれて来るアオイとワタルとわたしの子供」と答えてちょっと照れた。
とあるんだけど、ここがミヤビパートのクライマックスだと思う。
ミヤビが照れている。ここがとても熱い場面だと思うんです。
照れるということは、おそらく表情は少し笑っていて、なおかつ、ほんのり頬を赤らめているはずだと思う。
つまりこの場面では、
・「ワライカワセミの攻撃的な笑い声」から「照れ笑い」へ、という変化と、
・「鮮やかな赤いTシャツ」から「蚊取り線香のぽつんとした赤い火」を経ての「ささやかな赤面」へ、
という、二つの変化が劇的に描かれている気がする。
ミヤビちゃん、良かったね、と何が良いのか分からないけどそんな気持ちになってしまうおじさんの私がいる。
風鈴が完成した翌日、ミヤビは東京へ帰る。
「ありがとう」と言ってアオイとワタルを軽く抱擁し、ボルダリングで使う滑り止めのチョークの袋を二人に渡した。その袋はまるでお守りのようにも思える。これでうまく崖=世の中を登っていってねというミヤビの気持ちが込められているようにも思える。
アオイはミヤビのことを、つらい思いもさせられたけど「わたしが生まれて初めて魅せられた人間だった」と述べている。
ところでワライカワセミは、昆虫やネズミやヘビを餌として捕食するとWikipediaに書いてある。
アオイは、自分は虫やヘビが大嫌いで怖くて仕方がない子供だったと冒頭で述べていて、ミヤビ=ワライカワセミだと考えると、アオイが苦手なものを捕まえて食べてしまうミヤビ、という図式が成り立って、そういう点からもアオイにとってミヤビは憧れ的な存在だったのかもしれない。作中でミヤビが虫やヘビに言及するくだりは無いけれど。
あとワライカワセミが笑う(鳴く)のは、縄張りを誇示するためらしい。となるとミヤビが崖にしがみついて鳴き声を真似していたあの場面というのは…。
集落からミヤビが去り、秋が訪れ、事件が起きる。
事件の詳細は描かれていないので分からない。ただ事件のむごたらしい結果だけが、アオイの眼前にぶら下がっていたことが描かれるのみである。
何があってこうなってしまったのか、想像するしかないのだけど、アオイが廃井戸に落ちた冒頭部分の語りを、そのままコピーペーストするように、この終盤部分に張り付けることができるような気がする。
たとえば、アオイは廃井戸に落ちる瞬間、鳶職のカツヤさんが以前に話していた「落ちた時は落ちるままでいちゃだめなんだ。何も眼に入らなくても諦めないで、とにかく手を伸ばしてどこかにつかまろうとしないと。そうすれば何かつかめて助かることがある」という台詞を思い出しているんだけど、彼もまた同じようなことを思い出していたかもしれない、と言ったように。
井戸の周りでアオイをからかっていた大人たちの台詞はそのまま、犯人の台詞に置き換えてもそんなに違和感はなかったりもする。
そう想像してみると、怖かっただろうな、と思う。アオイは「怖くない、怖くない」と自分に言い聞かせたりもしていた。もしかしたら彼も、と思うと、つらい。
子供が残酷な目に遭うニュースで語られるのは、近所の声とか児童相談所の声とか市の担当者の声とか、そういうものばかりで、当たり前なんだけれど子供自身の声が語られることは無い。死者は声を奪われてしまっているから。
だからやはり私たちは想像するしかないし、しなければならないと思う。どれだけ怖くて、つらくて、苦しかったか。そして助かりたかったし生きていたかっただろうということを。
この小説の最後でアオイは、恐ろしげな大人たちを怯えながら見上げていた廃井戸の底に引き戻され、「暗い井戸の底から見上げる恐ろしい地上の世界が、あんなに明るい光に満ちているのはなぜだろうと不思議に感じる。」と語っている。
そういえば井戸に落ちた時にアオイは、「助けて」という気持ちを抱いていない。それよりも「大人たちが怖い」ということばかり考えている。恐怖の方が強すぎて、助かりたい、という気持ちが掻き消されてしまっているのかもしれない。暗がりから抜け出して明るいところに行きたい、と思えないほどの恐怖。子供にそんなつらい思いをさせたら駄目だ。
過剰に愛でたり過剰に怒ったりする大人が怖かった、みたいなことをアオイは語っている。
やっぱり過剰な光は濃い影を作るものだし、周りの小さな光を消し去ったりもしてしまう。星が夜にしか見えないように。
そう考えた時、この小説の「宵涼み」の場面での照明の配置がじつに「ちょうど良い」感じになっているのも印象的である。あの場面のトウノさんも実にちょうど良い感じだった。あの場面で、ミヤビはたしかに、ちょうど良い照明のしたで、ちょうど良い大人たちに守られていた。だから蚊取り線香の「ぽつんとした赤い火」もアオイの目にしっかりと見えたわけだ。
私たち大人は、ちょうど良い感じの照明を子供たちにあてるようにして、見守るべきなのだ、と思いました。
私はこの小説を電子書籍とオーディオブックで読みました。
会社への行き帰り、車を運転しながらオーディオブックを繰り返し聴いて、
家に帰って寝る前に電子書籍で繰り返し読んだ。
たぶんそれぞれ20回以上は聴いて/読んでいると思います。
オーディオブックって初めてだったんだけど中澤明日香さんの朗読も素晴らしかったです。おすすめです。