Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

横道誠『みんな水の中』

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だが考えてみてほしい。そもそも私たちは日常的に、多数派の定型発達者に適合するようにデザインされた社会でしか生きられないように仕向けられている。初めから環境を調整してもらうことで、定型発達者は彼らの能力を発揮できている。(中略)これらは、環境調整だ。そしてその環境調整は、多数派を念頭に置いたものなのだ。それだけの環境調整では足りない少数派がいる。

(p.125-126)

 

本書には、『「発達障害自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』という副題が付いている。

果たして、どんな世界に棲んでいるのだろう。

その世界への入り口とも言うべき表紙がとてつもなく魅力的だということもあり、私はただならぬ興味を持って本書を手にした。

 

「詩のように。」と題されているI部は、ページが絶妙な青色に染まっていて、それら青いページのなかに言葉たちが散らばっている。

それはまるで言葉が水中に漂っているようにも思える。

私はそのことばを辿りながら、どんどん水の底に降りて行くような感覚を覚える。

ときおり、底の方からぽこぽこと気泡が昇ってくるような気さえする。

「この下に、誰かいる」と私は思いつつ、底に足が着いたところで、Ⅱ部の「論文的な。」が始まる。

 

Ⅱ部「論文的な。」のページの色は白である。

ここでは、様々な文献を引用しながら、作者の横道誠さんが自分のことについて語っている。つまりこのⅡ部で、『「発達障害自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』について語られているのである。それはI部の詩を解題しているようにも思える。

私はこのⅡ部の語られている内容もそうだけれど、その文章にとても興味を惹かれる。

漠然とした感想になってしまうのだけど、なんというか、透明な水を思わせる文章。

それは山奥で湧き出る天然水的な透明さではなく、物凄いこだわりの元に精製された人工的な水。

横道さんは本書の中で何度も「自分は青が好き」だと述べているけど、私はⅡ部に無色透明感を覚える。なぜだろうと考えた時に、ああたぶんいま俺も水の中にいるからだ、と思った。

I部を経て私は水の底に降りたっていて、さながら青いセロハン越しに世界を見ているのだ。青セロハン越しのその世界では、青色を見分けることはできない。白く、あるいは透明に見えてしまうからだ。

ということはこのⅡ部は、徹底的に青い、ということになる。

 

そしてⅢ部「小説風。」になると、ページはI部と同じ青色に染まるのだけど、それは周囲の部分がぼんやりと青色に染まっているだけで、文章が印刷されている範囲のページの色は白い。これはどういうことなのだろう。

ところでなんで水は青いんだっけと思ってネットで検索してみると、水は青や緑を散乱する性質があるからだという。赤とかの他の色は吸収するけど、青や緑は吸収しないで反射するから、青く見えるのだそうだ。

水は青や緑に対して感覚過敏なのだろう。

では「小説風。」の文章部分はなぜ青くないのだろう。これもまた漠然とした感想になってしまうけどたぶん、この小説で描かれている「彼」は、けっこう独特な部分もあるけど、いい感じだよね、みたいな、強い光で「彼」に反射されることのない透明な眼差し=社会が提示されているからだ、と思った。

私もそのような透明で優しい社会に暮らしたいと思うし、自分はもういい大人なのだから、ただ願うだけではなく、色々と考えたり行動したりしなければと思いました。