Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

森達也『死刑』

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(前略)執行に携わる多くの人に会った。多くの人に話しを聞いた。これから死刑が確定する人。かつて死刑が確定していた人。弁護士に元検察官。政治家に元裁判官。刑務官の苦悩や教誨師の煩悶に触れ、廃止を願う人、存置を主張する人たちにも会って話を聞いた。犯罪被害者や遺族のこれまでの悲惨な状況も改めて実感した。

文庫版(以下同じ)p.317

 

本書を読み始める前に、私はとりあえず自問してみた。

死刑についてどれくらいのことを知っているのか。

人を殺した人は、その人数や内容によって死刑になることがある。方法は絞首刑によって。死刑という制度については、反対意見があるのは知っているけれど、人の命を奪ったのだから、死刑にされてもしょうがないのではないか。

この程度の認識であることを確認してから、私は本書を読み進めた。

 

それで、読んでいてまず思うのは、ああ私は死刑について何も知らないに等しいな、ということ。

次に思うのは、死刑という制度はこのままあった方が良いのか、それとも無くすべきなのか、ということだ。

 

2006年末に行われた、サダム・フセインの処刑映像の描写から本書は始まる。

なんとも言えない気持ちになる。

この、なんとも言えない気持ち、というのは本書を読み進めるにつれてどんどん大きく、重くなっていく。そして、読み終えた今も、このなんとも言えない気持ちは抱えたままだ。

なんか、えらいものを抱えてしまったなと思う。

けれどもこれは、死刑制度を存置している国に暮らしている以上、抱えていかなければならないものなのだと思う。

なぜなら、森達也さんも書いているけれども、

「この国の主権者は、僕やあなたも含めてのすべての国民だ。そしてすべての行政手続きは、主権者である僕たちの合意の下にある。僕やあなたが同意しているからこそ、死刑制度は存続している(後略)」からである。

死刑という制度は、本当にあった方がよいのだろうか。

 

日本において、死刑の情報はほぼ公開されていないらしい。守秘義務もあるそうで関係者は固く口を閉ざしたままだ。

まるで逆ブラックホールのようである。

そんなもの存在しないけど。私が考えた。

ブラックホールとは、なんでも引き寄せて特異点に押し潰してしまうブラックホールの逆の存在で、ある一定の距離に近づいたものははねのけるというか、それ以上は絶対に近づけない、というものである。

日本の死刑は(制度も執行も)そんな感じだと思った。

 

それでもこの記事の冒頭に引用した箇所にあるように、森達也さんは色んな人に会い、話を聞いて行く。

そうすると、少しづつだけど、「事象の地平面」的なものが、浮かび上がってくる。

ブラックホールでいうと、光すらも抜け出せない真っ黒の部分。

ブラックホール(私の頭の中にしかないけど)だと、光さえも侵入を拒む、真っ暗な部分である。

 

その真っ暗な部分のかたち、そしてその真ん中にあるものについて、本書終盤で森達也さんは「論理ではなく情緒」だと書いている。

情緒。それは応報感情とか、そういったものだ。思えば私が本書を読み始める前に考えていた「人の命を奪ったのだから、死刑にされてもしょうがない」というのも、情緒である。

 

それで、論理と情緒は「重なり合っている。本来は二分などできない」としながらも、でも「この二つをあえて分割することは大きな意味があるはず」として、論理と情緒を引き剥がし、情緒に焦点をしぼりそしてエピローグを迎え、結論が置かれる。

 

死刑という制度は、本当にあった方がよいのだろうか。

私の結論はというと、わからない、としか言えない。

もし自分が被害者遺族になったら絶対に犯人を許せないと思う。「改悛しました。反省してます。日々、罪悪感に苛まれています」と犯人から言われても、とっとと死んでくださいとしか思えないだろう。そう思う自信がある。

でもその憎い犯人とアクリル板ごしにでも会って、長きにわたって会い続けた時、死刑についての考えが揺らぐかもしれないとも思う。そう思う自信もある。

わからない。

だからこそ、国民みんなで話しあっていかなければならないものだと思った。国中をあげて煩悶して、存置か廃止かの「民意」を決めなければならない。

少なくともそれは、見てみぬふりという態度によっての「賛成」という意思表示ではあってはならないはずだ、と思いました。

 

ところで本書の最後に参考文献として並べられている本のなかにカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』があって驚いた。

少し前に『スローターハウス5』を夢中になって読みまくった私は、どの辺を参考にしたのだろうと思ったのだ。

拷問器具の「鉄の処女」については、『スローターハウス5』にも出てくる。けどそんなところのためにわざわざ参考文献として挙げたりはしないだろう。

ではどこだろう。

もしかしたらだけど、『スローターハウス5』に出てくるあの重要な文言を、『死刑』のどこかで引用しようと森達也さんは考えていたのではないだろうか。

『死刑』に登場する色んな人たちの言葉は、つらく苦しく悲しいものばかりだった。

けれど、『スローターハウス5』のあの文言が、通奏低音として常に流れていて、本書の根っこを支えているような気がしないでもない。

でもそれを引用してしまうことは、見ようによっては「あざとすぎる演出」と思われてしまうと考えて引用しなかったのか、あるいは、わざわざ引用しなくても、登場する人たちが同じことを言っている(と感じられる)から必要ないと判断したのか。

 

あるいは、本書のエピグラフは、『カラマーゾフの兄弟』ではなくて『スローターハウス5』も候補としてあったのではないかとも考えられる。そしてそう考えた時に、ではなぜ『カラマーゾフの兄弟』のあの文章の方を引用したのだろう、と思い込みに思い込みを重ねてさらに思い込んでいくと、…私の抱えている「なんとも言えない気持ち」が、また少し、重くなったような気がした。