Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

手塚治虫『火の鳥4 鳳凰編』

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おれは生きるだけ生きて……

世の中の人間どもを生き返らせてみたい気もするのです

(p.355)

 

時は奈良時代

東大寺にどでかい大仏が建立されたころの話である。

茜丸という男前な彫刻師と、

我王という鼻のでかい男、の二人を中心にして物語は描かれる。

 

鳳凰編』での火の鳥は、その名の通り鳳凰という伝説上の鳥として語られる。

登場人物たちには、あんまりぐいぐい関与してこない。

いわばひとつの「天啓」のように存在している。

 

鳳凰編』で特徴的なのは、みんなあまり「永遠の命」にこだわっていないという点である。

なので、

死にたくない! 永年に生きたい! だから火の鳥の生き血を飲みたい!

という風にはならない。

彼らがこだわるのは、「また人間に生まれ変わりたい」ということだ。

そして輪廻転生という考え方が『鳳凰編』の背骨になって物語を支えている。

 

茜丸も我王も共に、「人間に生まれ変わりたい」という思いを叫ぶ場面がある。

物語の序盤で我王が叫び、終盤では茜丸が叫ぶ。

 

ここで面白いのは、我王が「来世も人間がいい」と懊悩している時、茜丸はおそらくそんなこと考えてすらおらず、逆に、茜丸が炎に包まれ「人間がいい」と叫びたてている時、茜丸はもうそんなことは考えていないだろうということだ。

二人はとても対照的に描かれているのである。

 

聖から俗へまみれていく茜丸と、

俗から聖へ変貌する我王。

物語上で二人が接するのは3回ある(たしか)。

最初の出会いでは、茜丸が我王によって腕を失い、

最後の出会いでは、我王が茜丸によって腕を失っている。

対照的である。

 

もうひとつの二人が出会う場面は、中盤あたりにある。

橋の上で二人はすれ違うのである。

そこで二人は「鳳凰」について話す。

「あっち」と「こっち」をつなぐ「橋」の上ですれ違う二人。

我王はこの象徴的な場面のあと、もがき苦しみ悲しみながらも次第に超然としていくのに対して、

茜丸はこの後もけっこういい感じでひじりな道を歩んでいるように見えたのだけど、いつの間にか堕していたので私は驚いた。

いつのまに!? って。

思えば、この橋の上が、聖俗の交差する場所だったのかもしれないなと読み返してみて思った。

 

もうひとつ、対照的だったのは、太陽の存在で、

茜丸サイドでは、太陽は地獄の象徴みたいになっていたけど、

我王はそこに天上の美を見出し、生命力をみなぎらせている。

不思議なものだ。

猿田的な登場人物って、毎回ろくな目にあってなくて、本作でも散々なんだけれど、でも、本作の終わり方は、けっこう希望にみちていると思った。

 

 

 

猿田的ないでたちの我王は、赤ん坊の頃に崖から転落している。

これは、前作『宇宙編』で、猿田が赤ん坊を崖に突き落としていることの因果なのだろう。時空を超えた遡及処罰である。

我王が色んな彫刻を彫っているのは、『未来編』で猿田博士が生物を作ろうとする姿に重なる。

ここまで『火の鳥』を読んできて、うまく言い表せないけど、私はなんだか「過去」と「未来」が同時に存在しているような感覚を覚える。

「過去」で発されたセリフは、そのまま「未来」でのセリフとしても作用している感じ。

「未来」でこぼしたミルクが「過去」の地面を湿らす、みたいな感じ。

これから先、どうなるか楽しみです。

 

そう言えば本作では、

疫病とかが流行ったりして大変だから、巨大な大仏を作るという国家的イベントで盛り上げようそして政府すげーって思わせて、仏教を利用して民衆を従わせよう! って感じで東大寺の大仏は作られたんだよー、と描かれているんだけど、

私は、今とまったく同じじゃんと思いました。

コロナに打ち勝った証としての東京五輪、みたいなね…。

歴史を学ぶことの大切さはこういうところにもあると思いました。