Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミンパパ海へいく』小野寺百合子訳、翻訳編集:畑中麻紀

「わたしはいつだって海が好きだったよ。うちはみんな、海が好きだろ。だからこそ、ここに来たんじゃないかね」(p.269)

 

 

 

 ムーミン一家が、灯台のある島で暮らし始める。『ムーミンパパ海へ行く』とはそういう物語なのだけれど、でも、なぜ彼らは、住み慣れたムーミン谷を離れなければならないのだろうか。

 

 かんじんなのは、みんながまるきりあたらしい生活を始めることなんです。ムーミンパパがみんなの必要なものはなにもかもととのえてやり、みんなを食べさせたり、守ったりすべきだというのです。今までは、みんなのくらしがあまりにも、うまくいきすぎたのにちがいありません。(p.34-35)

 

 パパのこの考え方は健全とは言えない気がする。いやもちろんムーミンパパは、けっこう頑固で、依怙地な側面も多いにある。しかし本作において、パパのそれらの特徴は「愛すべきキャラクター」の範疇を超えている、悪い意味で。

 パパは焦り、失調している。何があったのだろう。どうしてそこまで必死に「いにしえの父親像」を演じたがっているのだろう。パパは我を失っている。

 

「まあ、パパは、自分のことをちゃんとわかってるわよ」

 ママはいいました。

「そうは思わないけど。パパはちっともわかっちゃいない。そうでしょ?」

 ちびのミイがあっさりいうと、ムーミンママもみとめなくてはなりませんでした。

「ほんとうはね」(p.15)

 

 ムーミンパパに、あるいはパパとママの間に、何が起きたのだろう。または、何が起きなかったのだろう。

 

 ムーミントロールは地図の上の、はるか海のむこうにある一点を見つめて思いました。

(パパはあそこに住みたいんだ。パパがめざしてる場所は、あそこなんだ。パパとママは真剣に考えてるんだ。これは本気のかけなんだ)(p.27)

 

 二人の息子であるムーミントロールは、両親の下した「移住」という決断を、「本気のかけ」だと言っている。か、賭け? 本気の賭け? 穏やかではない響きである。

 この家族は、もしかして相当に追い詰められていたのだろうか。それこそ「うまくいきすぎる日常」から逃げ出さなければならないほどに。

 

 ムーミンママに不安がよぎりました。

(おかしいわ。くらしがうまくいきすぎるからといって、かなしんだり、まして腹を立てるなんて、おかしいわ。(後略))(p.35)

 

 ですよね、私もそう思います、いや良かったー、話の通じる人がいて! このままムーミン谷にいたほうがいいと思いますよ!

 

((前略)だけど、そうなんだからしかたないわね。かんじんなことはただ一つ、視点を変えてやり直すことね)(p.35)

 

 いや仕方なくないんじゃないですか? 仕方ないのかな? ほんとに、ムーミン谷を出ちゃうんですか。考え直してみませんか。

 ……思えばママも様子がおかしかったですよ。パパだけじゃなくてね。

 

 ママは、すみっこの洗面台のそばのたなにある、ムーミンパパの灯台の模型のところへ来て、うわのそらでほこりをはらいだしました。

「ママ」

 ムーミントロールが呼びました。(p.25)

 

 意味ありげなこの場面で、ムーミントロールの呼びかけにママは気づかない。この後、息子が見ているとも知らずに、ママは少し謎めいた行動を取り、意味深長な言葉をつぶやく。

 

「なにいってるの」(p.25)

 

 おそらくはだいぶ訝しげに響いたであろう息子の問いかけに動じることもなく、ママは同じ言葉を繰り返す。やっぱりママも変だ。

 

 こうなると、頼みの綱はムーミントロールである。元気いっぱいの彼は、なんだか病んでる二人みたいにはならないだろう。

 ね、ムーミントロールも、ほんとはここにいたいんじゃないの? パパとママに気を遣わなくていいと思いますよ、二人を説得してあげて!

 

「ミイ! これはおもしろくなるぞ」(p.27)

 

 ……かくして彼らを乗せた冒険号は、夜の航海へと旅立った。

 

 まだ序盤の出航シーンまででもだいぶ危ういこの家族の物語は、「島」に着いてからさらなる危機に陥る。危機の連続とも言える。

 パパ、ママ、ムーミントロール

 どこか不気味なこの島で、三人は自分と向き合う(ミイは、なんか次元が違う)。家族ではなくて、自分と向き合うのだ。

 

 今はみんなが、自分を見つめて立っているのですから。(p.66)

 

 上記の引用個所における「自分」とは、文脈から言えばムーミントロールのことを指すのだけれども、しかしこの文章の前後には、ムーミンママの同じセリフが配されているのであり、「同じセリフが二度、繰り返されるとき、そのあいだにある描写には、何かがある」という私がでっちあげた「繰り返し仮説」に沿って読んでみれば、「自分」という言葉はムーミントロールだけではなく、文字通り「自分自身」のことをも指していると読めなくもない。

 

ムーミンパパ海へ行く』は、家族のメンバーが、家族ではなく自分を見つめる物語なのだ。その過程で、家族は一度、解体し、さなぎのような不定形な状態を経て、まったく違う形の家族に生まれ変わる。あかりの点かない灯台がそびえ、夜になると何かが蠢く、このあやしい島で。

 鍵を握るのは、漁師と海。

 

 なんとなく似ている気がする『ソラリスの陽のもとに』的な解釈をすれば、この海は、パパ(あるいは家族)の中の「あんまり向き合いたくない部分」を擬人化して漁師を送り込んだということになる。

 つまり、海=漁師=パパ(あるいは家族)ということだ。

 これはそんなに突飛な読みではないですよね、と私は思う。なぜなら、ろうそくは三本だったからである。

 

「きみはどこか変だぜ」

 と、ムーミンパパはつぶやきました。

「きみはぜんぜん人間らしくないな。人間というよりは、植物とか、影みたいなもので、そもそも生まれてきたものではないみたいだね」

「おれは生まれてきたんだよ。明日はおれの誕生日なんだ」

 漁師はすかさずいいました。(p.276-277)

 

 ムーミン一家はこの漁師の誕生日パーティーを開くわけだが、この時のケーキにささったろうそくの数が三本なのである。

 

「ろうそくが三本しか残っていないんです」

 と、ママはもうしわけなさそうにいいました。

「失礼ですけど、おいくつにおなりですの?」

「おぼえていないなあ」

 と、漁師はつぶやきました。(p.304)

 

 年齢不詳で、なんでも忘れてしまう「おじさん」と、私は『ムーミン谷の十一月』でも出会っている。あの「おじさん」も、作中でのパーティーで、祝ってもらいたがっていた。しかし、「礼儀正しいむかしふうのやりかた(p.301)」にやたらこだわるあの「おじさん」について考えるのは、今はよそう。今は、漁師と三本のろうそくについて考える時でしょうよ。

 

 この三本のろうそくが燃え尽きるまでの間に、とある劇的なことが起きる。何が起きたかは、ネタばれになるので伏せておきます。

 で、その瞬間というのは、「!」付きで描写されていて、で、「それ」以外はいっさい描写されていないわけだけれども、この時、「もどってきた」人物が、もう一人いますよね。いますよね!

 つまりこの瞬間、ここに「三人」が存在した、と読めなくもないわけで、となると、ろうそくが三本、そして先に「二本のろうそくは燃え尽きて(p.310)」しまうというのも、色々と考えちゃいますよね。私はここにある種の回復を見た。

 ここまででも本当に素晴らしいのに、ここからさらに素敵なエンディングが訪れる。

 静かに暴れる海を見ながら、パパはなにを思っていたのだろう。ママと出会った時のことを思い出していたかもしれない。彼女と出会ったのも、このように荒れる海でだった。そして、パパが振り返った時、パパはどんな顔をしていたのだろうか。想像するだけで目が潤う。良かった。本当に良かった。

 

 ところでこの作品には、未解決問題が残されていると私は思う。「毎日が日曜日問題」である。

 終盤、ムーミンママは、島での暮らしについて、「毎日が日曜日みたいで、(中略)これではたしていいのかどうか、わたし、気になりだしたの(p.291)」と言う。

 

「(前略)ピクニックはいつかはおえなければならないでしょ。あるときふいに、また月曜日みたいに感じるのじゃないかって、わたしはそれがこわいのよ。そうしたらわたし、今の生活が現実だとは思えなくなりそうで……」(p.292)

 

 これに対して、パパは、「なに、もちろんこれが現実さ。いつでも日曜日だったら、すばらしいじゃないか。そういう気持ちこそ、われわれが見失っていたものなんだ(p.292)」と驚いている。おそらく、ここでのパパの答えは、ママの不安を払拭できていない。

 ミイは「いったい、なんの話をしているのさ(p.292)」と突っ込んでいるが、この時ママが言いたかったことは、どんなことなのだろうか。

ムーミンパパ海へ行く』は、成熟を拒否しない物語であるとも言える。

 ムーミントロールはいわゆる「難しい年頃」に突入していて、パパに悪態をついたりもする。「かなぐつ」を池に沈めて思うのは、うみうまのことだ。『ムーミン谷の夏まつり』では同じようなことをして、ママを思っていたのにね。二村ヒトシさんが唱える「うみうま=グラビアアイドル説」の鮮やかさ。

 ムーミントロール=子供が成熟に向かうと同時に、家族のあり方もまた変化していく、ということなのだろうけれども、成熟の果てに訪れるのは、死である。ママはここで、死への怯えを口にしたのではないだろうか。それに対してパパは、「ここに死は訪れない」ということを言ったようにも思える。しかし、本当にそうだろうか。成熟を受け入れるということは、死をも受け入れなければならないのではないだろうか。

 未解決として残ったこの問題は、最終作の『ムーミン谷の十一月』へと引き継がれたと私は考えている。『十一月』は、生と死の間に境界線を引く物語だと読めるような気がしているからである。優しく、厳粛に、境界線を引く人物こそが、あの「おじさん」なのだと、今の私は考える。