Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

木村綾子『本が繋ぐ』

「私」の祖母が、祖父の亡くなった日の夜のできごとについて、幼い「私」の手を握りながら語る場面から、この本は始まる。

 冷たくなった祖父の体に祖母が行った何やら儀式めいたふるまいによって、「祖母は、祖父が死んでしまったことよりも、自分がどうしようもなく生きていることを悟った(p.10)」という。

 ここで生と死の間に極太の境界線が引かれるわけだけれども、しかし、やはり祖母のふるまいは、孫に語り聞かせることで効力を発生する、一種の儀式だったのではないか。「私」が祖母の手を振り払った時、ふいにその瞬間が訪れる。

 

 西の窓に掛けられた伊予簾が、風に吹きあおられて大きく揺れた。その隙間に、雨の降るのを見た。まるで差し伸べるように、手繰り寄せるように、あめつちを繋いでいた。(p.10)

 

 隙間が生じたのである。このあまりにも蠱惑的な隙間の描写に私はもう完全に引き込まれて「じゃ、ちょっと、行ってきます」みたいな感じでこの本の世界に入り込んだ。そこは「あめつちが繋がれた」世界だった。

 それはどういうことかというと、個人の感想ですが、「私」の現在と、過去と、読んだ本の世界が、等しく同時に、継ぎ目なく併存しているということで、こんなことが可能なのかと私は驚き、魅了されました。普通こういうのって、継ぎ目とかが見えるものだと思うのだけれども、ない。パテ処理したみたいな跡も、ない。文章の中にごく自然に、同時に、存在している。

 この「同時感」溢れる文章で様々な本について語られているのを読み進めるうちに、私は、現在と過去に境目なんてなくて、同時に存在しているのだなということに気がつき、さらに、作品世界と自分との間にも、境目はないのだということを知らされる。

 じゃあ、それでは、生と死については。冒頭で祖母によって引かれたこの生と死の境界線を、この『本が繋ぐ』は、どのように取り扱うのだろうか。

 本書の終盤に収録されている「ていねいな暮らし、生活の知恵」と題された文章で、私は、私が勝手に設定した問いについての答えが提示されている気がしました。

 p.166の文章まるごと、何度読んでもうるっとくるのだけれども、ここで「私」は、「ひとり二役」という形で、生死の境界線を鮮やかに取っ払っているように見えました。冒頭で振り払った祖母の手は、この場面において、ふたたび繋がれたのだと私は思いました。さらにこのページでは、200キロメートルという距離さえも超越していて、時間も空間も境目なく同時に存在している感じが最高に格好よいです。

 しかし本書がそういう、うるっとくる話ばかりが収められているかとそうではなくて、ふふ、とか、にやり、といった笑みが思わずこぼれたりするような話も多いのだけれども、私がもっとも感情を揺さぶられたのは「イトケ」の話かもしれない。心をえぐられました。おそらくこの傷は一生消えないことだろう。