
中谷美紀、坂本龍一、売野雅勇。この三者の名前がクレジットされている楽曲群には何か共通する世界観のようなものが感じられて、私はそれに強烈に惹かれていた。最高だなあ、素敵だなあ、この横溢する魔力の源泉はなんなんだろうなあ、と思いながら、もう三十年近く愛聴している。
この本には作詞家・売野雅勇さんのキャリア初期から現在までが述べられている。副題にもある、80年代歌謡曲黄金時代について、私はあまり詳しくなくて、だから大量に出てくる固有名詞についても、知らない人の方が多いわけだけれども、しかしそんなことはまったく問題にはならない。
なぜならこの本の魅力は、ちょっと不思議な感じのたたずまいを持つ(ように私には思える)若者=著者が、初めて作詞の仕事を手がけるようになってから、苦労しつつも、魅力的な様々な人物たちとの出会いを通して、ヒット曲を手がけるようになってヒュージなサクセスをゲットする過程が描かれているところにある、と私は思うからである。だから固有名詞を知らなくても、面白いよ。知ってたら、もっと絶対に面白いでしょう。
それで、景気の良い時代の話でもあるし、さぞきらびやかなんでしょうなあ、キンラメNightなことでしょうなあ、と思いつつ読んでみると、確かに、バブリーでゴージャスでゴールデンな世界を著者は生きていたはずなのに、なんだかあまり(まったく)浮かれた感じがしない。淡々としている。ツヤ消し感、ある。熱狂する世界とのこの独特な距離感に、私は感動した。なぜなら「美しいすべては恐ろしさの前触れ」とか「ファシストの靴音、君だけに聞こえる」とか「明け方に見つけた虹はどこか不吉」といった歌詞は、間違いなくこの著者の独特な間合の取り方から生まれてきたと思ったから。
しかしそのような魅力的な歌詞が生まれた背景はそれだけではなかった。坂本龍一さん、中谷美紀さんの存在があったからこそだったのだ。
著者は「MIND CIRCUS」の作詞作業のくだりで、次のように述べている。
いままで詞を書くときには経験したことがなかった、イマジネーションを束縛するものから解放されたような感じがした(p.214)
そして、言葉の選択が間違っていなくて一定のレベルを超えてさえいれば、かなりの自由さがあるということが、解放感を感じる原因ではなかったかと思った。
ぼくが感じた自由とは、何を書いても歌になるということだった。
これが、坂本龍一なのだ。と、ぼくは確信した。(p.214)
たとえば私は「WHERE THE RIVER FLOWS」という曲に、「香水工場」や「貯水池」という言葉が出てくることに大いに感動を覚えていたのだけれども、これは、著者のいう、自由、がもたらしたものだったのだ、と思う。「STRANGE PARADISE」の「飾り窓」や「街路樹」や「桟橋」も、そうなのだろう。「未来さえも想い出の中にある」も、「天国より野蛮」の「岸辺で君を抱きしめると気が触れそうな気持ちになる」も。「汚れた脚」の「白い夏服着た笑顔たちの透明な悲しみが並ぶ写真」も。
語り出すときりがないし、こういうことをやるとジャスラックという人から殺されるという話を聞いたことがあるので、もうやめます。とにかく、自由。この楽曲群の歌詞世界の魔力の源泉には、坂本龍一さんの音楽がもたらす自由があった。中谷美紀さんも、ただ与えられた歌詞を歌うだけではなくて、かなり真剣にかつ謙虚に、著者に歌詞についての意見を述べていたことにも本書では触れられていて、ああこの名作たちはこのようにして生まれていったのか、と私は感動しました。「砂の果実」がひとつの直しもなく採用されていたことにも驚きました。
近年、「心が折れる」という言い回しをよく聞く。心って棒状なのかな、と私は思うので一度もその言い回しを使ったことはなくて、私はそういう気持ちを言いたくなった時は、「心が負ける」と言うことにしている。「MIND CIRCUS」からの受け売りですけどね、へっへっ。そして私はいまだに愛を信じている。本当だよ。