Pithecanthropus Erectus

読んだ本などの感想を書いてます。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の夏まつり』下村隆一訳、翻訳編集:畑中麻紀

 ミーサは赤いベルベットのドレスを着て、舞台の上をしずしずと進みました。しばらくの間、両手を目の上にあててじっと立ったまま、プリマドンナになるとどんな気持ちがするものか、味わいました。それは、すばらしいものでした。(p.165-166)



 彼女の名前はミーサ。いつも悲しんでいる。悲しみを悲しむために生きている、そんな自分がとても悲しい。そしてそんな自分のことを誰も分かってくれない。そのことがなおさら悲しい。このように、悲しみのどん底で悪循環にはまっている人、私にはそう見える。

 そんなミーサの暮らすムーミン谷が、大洪水で水没してしまった。もちろん彼女は悲しみまくる。

 

「だれかが、わたしのことを考えて、わたしのためになにかしてくれたっていいでしょ? それなのに、この洪水ときたら!(p.41)

 

 さて、そんな嘆きのミーサのそばに、「まじめくさった小さな生きもの(p.39)」がやってくる。ホムサである。小さいのに、けっこう聡明で、妙に理屈っぽい、そしてとっても優しい、ミーサに対して。でもミーサはこの優しさにまったく気づいていないんですからね。

 

「ホムサは、わかっちゃいないの! なにもかもが、わたしにつらくあたるのよ、なにもかもが!(後略)」(p.40)

 

 ここでミーサは「わたしにつらくあたる」具体例を並べる。しかしそれは、「ちょっと考えすぎではないですかね」と言いたくなるような、ともすれば「思い込み」と捉えられかねない、危うい「被害」である。

 

 ホムサは、ミーサの悲しみの具体例のひとつについて、「それは誰かがあなたのことを馬鹿にしたのではなくて、これこれこういう状況で自然と起きたできごとなのでは?」との見解を述べる。きっと、ホムサの言う通りでしょうよ。けれどもミーサは、そんなホムサにもきつくあたってしまう。

 

「ぼくは、説明しただけですから」

「これは、気持ちの問題よ。説明できるようなものじゃないわ!」

「そうでしょうね」

 ホムサは、しょげかえりました。(p.41)

 

 悪循環。しかし、この出口のない地獄のような葛藤から彼女を救うのは、やはりホムサなのである。ホムサ、そして舞台。

 

 その晩おそく、ミーサは水ぎわをひとり、ぶらぶら歩きました。月がのぼり、夜空をさみしく散歩しています。

(お月さまって、わたしみたいね)

 ミーサは胸をしめつけられる思いで、考えにふけりました。

(ほんとにひとりぼっちで、こんなにまるくて……)

 すると自分がいよいよみじめで、かわいそうに思われ、ミーサは、ほろりと涙をこぼさずにはいられませんでした。(p.67)

 

 ここでミーサは月と自分を重ね合わせている。ところでこの、月が「夜空をさみしく散歩する」というイメージって、とても素敵だと思いませんか。

 それはさておき、「ほんとにひとりぼっち」自分を嘆くミーサですが、しかし、彼女は本当はひとりぼっちではなかった。心配そうに彼女を見守る存在がいたのだ。もちろんホムサである。ミーサが涙をこぼした直後、次の文章が続く。

 

「どうして、泣いてるの?」

 と、ホムサがそばによってきて、たずねました。

「わからないわ。とっても、きれいだからよ」

 ホムサは、なっとくしません。

「だって、人はかなしいときに泣くものだろ」

「ええ――お月さまが……」

 ミーサは弱々しくいって、はなをすすりました。

「お月さまと、夜と、なんともいえないかなしさが……」

「うん、うん」

 と、ホムサはいいました。(p.67-68)

 

 素晴らしい場面である。ムーミン小説全作の中でも、屈指の名場面の数々で溢れている傑作が『ムーミン谷の夏まつり』であるわけだけれど、そんな本作のなかでも白眉のひとつとなるのがこの場面だと私は思っている。

 普段は理屈っぽく語りがちなホムサが、ここではミーサの懸命な吐露にたいして「うん、うん」と頷くだけっていうのがいいじゃないですか。優しいよ。

 丸い月の下、水際に佇む二人。

 自分のことを分かってもらいたくて、泣きながら、たどたどしくも必死に言葉を紡ごうとするミーサ。彼女を静かに肯定するホムサ。

 素敵すぎるとは思いませんか。最高! と私は声を張り上げたい。そして、この劇的な場面を、こんなにも端的な言葉で描いてみせる、トーベ・ヤンソンの魔法のような文章…。

 

 ホムサの優しさに、ミーサは気がついたかな。この場面でミーサはこれまでの「誰も分かってくれない」という悲しみから脱却しようともがいているように見える。それはまるで「誰か(ホムサ)に分かってほしい」と手を差し伸べているようだ。ホムサは静かにその手を掴む。ほんと、かっこいいですよね。

 

 とつぜんミーサは置きざりにされたという気持ちにかられ、やぶれかぶれにジャンプして、木の枝にしがみついたのです。ホムサはなにもいわないで、ミーサを助けてあげました。(p.43)

 

 思えば最初の頃にこんな場面もあった。ホムサ、ほんといい人だな。さて、そんなミーサは、物語が進むにつれていつしか、月に仮託していた「ひとりぼっちのかなしみ」に別れを告げている。小説の終盤、「リハーサル」における興味深い記述がそのことを物語っていると私は思う。

 

「ホムサが、お月さんをつり上げんことにゃ、わしゃ、ほえられんわい」

 と、エンマが答えました。

 ホムサは、背景の中から頭をつき出して、こういいました。

「ミーサが、お月さまを作る約束をしていたのに、作らなかったんです」(p.165)

 

 作るのを忘れた、わけではなくて、作らなかった。これは、「お月さまはいらない」というミーサの意思の表れである、と読めなくもないと思う。つまり、「悲しみにさみしく沈むひとりぼっちの私は必要ない」ということである、たぶん。この時、悲しみの悪循環は断ち切られた。そして彼女は舞台の上に進み出る。悲しみの天才・ミーサは、悲しみを演じることでそれは素晴らしい喜びを生み出すことを知る。悲しみを知り尽くした彼女の演技は観客を夢中にさせる。その彼女をひときわ輝かせているのは、月明りではなく、小さな舞台監督・ホムサの操作する照明なのである。

 もしかして、ミムラねえさんの時にホムサがいつも照明を間違えていたのは、わざとだったのかもしれない、ふふふ。

 

 鏡について。この物語で、最初に鏡を発見するのはミーサである。ミーサの他に鏡を見ているのはフィリフヨンカだけ。ミーサは髪の毛を身に着けて、別人のような自分の姿を発見し、一方、フィリフヨンカは、自分自身の逃れられない悲しみを再確認しているように思える。

 

 フィリフヨンカであるということは、人が思うほど、楽なことじゃないんですよね。(p.122)

 

 自分が自分であることから逃れられない辛さ。ミーサには「演技」によって「そのたびにちがう自分になる(p.210)」ことができた。それは彼女に大いなる喜びを与えたわけだが、では、フィリフヨンカの場合は、どうしたら救われるのだろうか。

 ムーミントロールスノークのおじょうさん。この二人との偶然の出会いが、フィリフヨンカを変えた。二人が彼女を解放した、とも言える。

 解き放たれて、タガが外れて別人のようにはっちゃけまくるフィリフヨンカはとてつもなくキュートである。p.131の、フィリフヨンカの横顔が描かれた挿絵は額に入れて飾りたいくらいだし、p.134の、警察に捕まってしょっぴかれるフィリフヨンカの情けなさすぎる顔も素晴らしい。

 

 で、鏡を見るのはこの二人だけで他はみんな、水面を見ている。みんな、やたらと水面を見るわけです。最初から最後までね。ムーミン谷が水没する話なのだから、そりゃあ、水面を見る機会も増えるでしょうよ。とは思うんだけれども、でも、見すぎ。ここには何かある、と思うのは、私だけでしょうか。

 水面を見たときに、表面に映った自分の顔を見る人と、その奥底にあるものを見る人がいるわけです。そして面白いのは、自分の顔を見た人は、その直後に、大変な目に遭っている。偶然でしょうか。偶然かもしれない。でも、何かありそうな気がしないでもない。

 ムーミンママが水面を覗いて、あたり前のように水の奥にきらめく「なにか光ってるもの」を見つける時、私は、『たのしいムーミン一家』で、魔法の帽子によって姿を変えてしまったムーミントロールを、迷うことなく我が子だと断言したママの姿を思い浮かべる。表面ではないところをママは見ている。

 そうそう、『たのしいムーミン一家』の終盤でムーミントロールはママに対して「ぼく、そんなに表情に出ていたかな」みたいなことを言うけれど、ムーミンママは、そういう表層的なところじゃなくてもっと奥深いところで、ムーミントロールのことを見ていますよね。だからきっと、スナフキンとの「ひみつ」も、ママは知っていたと思う。

 

 『ムーミン谷の夏まつり』に話を戻します。

 

 表面と、奥底。演技と、その奥にあるもの。本作ではみんな何かを演じている。ムーミントロールスノークのおじょうさんは、「わたし、あなたにさらわれたってことにしておくわ(p.95)」だし、スナフキンは「親」という役割を演じている、フィリフヨンカも…牢屋の中で、大げさに演じているとも言える。

 ふたつを分かつ水面。なにか無理やりにでもここに意味を見出してまとめようとしたのですが、うまくいきません。

 そんな水面という境界を打ち消すかのように、みんながじゃぶじゃぶと駆け出すクライマックスの圧倒的な美しさ! 挿絵も素敵。しかしここで物語は終わりではなく、ひと波乱を経て、静かな静かなエンディングを迎える。もうね、凄いですよ。最高ですよ。ぜひ、読んでみてくださいね。

 

 一つだけ水たまりがまだ残っていて、空の色をうつしていましたが、これはちびのミイの手ごろなプールになることでしょう。(p.215)

 

 これはトーベ・ヤンソン流の、さりげない青空の描き方なのではないかと私は思っている。表面に映る青空。青空のハッピーエンドなのです。




トーベ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳、翻訳編集:畑中麻紀

 わたしはたのしくてたまらず、この時間がすぎていってしまわないかと心配する気持ちさえ起きませんでした。

「たのしんでる?」

 わたしは聞きました。

「たのしんでるさ」

 フレドリクソンは口の中でいって、とてもはずかしそうな顔をしました。(p.106)



 上記は、若かりしムーミンパパが、とある場所で、友人のフレドリクソンと会話を交わす場面である。

 あまりにも瑞々しいやりとり。

 言葉にした瞬間に損なわれてしまうような、ふたりのあいだに通う優しい何かと、ムーミンパパの見ていて心配になるほどの繊細さ、それらがさらりと表現されているとても素敵な文章だと私は思うのですが、みさなんは、どう思われましたか。

 

 前作『たのしいムーミン一家』の後半に、ムーミンパパが自伝を書いているという記述が登場する。書きながら泣きそうになっている、とも。つらい子供時代だったらしい。

 

 ムーミンパパは、ふつうの子どもとは少しちがっていて、ずばぬけた才能の持ち主だったのですが、だれからもわかってもらえませんでした。大きくなってからもやはり理解してもらえなくて、なにをするにつけても、ひどい目にあってばかりだったのです。

(『たのしいムーミン一家』p.150)

 

 『ムーミンパパの思い出』は、ムーミンパパによって書かれつつある自伝が中心となっている。

 書かれつつある、とはどういうことかというと、『ムーミンパパの思い出』では、自伝そのものだけではなくて、パパが自伝を書く過程も描かれているのだ。

 ムーミンパパは、自伝を書き進めては子供たち(ムーミントロール、スニフ、スナフキン)に朗読し、彼らの無邪気であるがゆえに時には無慈悲な反応に心が負けそうになりながらも、ムーミンママに励まされてついには自伝を完成させる。

 これらの様子が、自伝の幕間に挿入される。

 いわば自伝のメイキング映像のようであり、とても興味深い。ドキュメンタリー映画を観ているようでもある。

 

 それで、この幕間部分を読んでいて思うのは、自伝を書いている「現在」の状況が、自伝で描かれる「過去」に少なからず影響を与えているのではないか、ということだ。パパは子供たちの反応をわりと気にしながら書いているようにも見えるので。

 そして、その自伝の中の「過去」が、今度は「現在」に影響を与えている。つまり自伝を書くことでパパが変わりつつある。そのように読めないこともない気がする。

 『ムーミンパパの思い出』は、笑いと冒険の成長物語であると同時に、現在のムーミンパパが喪失感の中で立ち上がり、何かを取り戻す物語でもある、と私は思う。

 さて、それでは、ムーミンパパが失ったものとはなんだったのだろう。

 

 ムーミンパパが失ったもの。それは屋根かざりである。

 いやそんなの知ってる、この本を読んだ人ならみんな知ってるよ、パパが屋根かざりを失くしたのは。そういうのじゃなくて、失ったもの、それは青春、みたいなそういう感じのやつでしょ? 本書で言わんとしていることは。もう戻れないあの夏、みたいな、そういう情緒的な読み方が、あなたはできないんですか? 

 と、私の中の「世間」から、愛ある助言がお届けされた気もするが、気にせず話を続けますね。

 ムーミンパパが失った屋根かざり。それは、パパが昔、友人たちとの冒険で乗っていた船の屋根かざりである。ムーミンパパが自分で作ったそうだ。

 

 そのころ、わたしは初めて、大工仕事をしてみようと思いました。この特別な才能は、持って生まれたものにちがいありません。いわばこの手に才能が宿っていたのです。

 この天才的才能で、わたしが最初にこしらえた試作品は、たいへんつつましいものでした。(p.64-65)

 

 この「たいへんつつましいもの」が、「船の操舵室の屋根のかざり(p.65)」である。この屋根かざりが、大嵐に遭った際になくなってしまうのだ。パパはこのことを「いちばんざんねん(p.127)」としつつも、この大嵐のエピソードを次のように締めくくる。

 

 嵐なんて、なんでもありません。そのあとの日の出を、いちだんと美しく見せるのが、嵐の意味かもしれません。操舵室の金の屋根かざりなんか、あたらしくすればいいんです。わたしはコーヒーを飲みながら、にこにこしていました。(p.129)

 

 冒険は人を成長させるものだ、というありふれた人生訓を上記のくだりに当てはめてみると、「おお、ムーミンパパ、嵐を乗り越えてたくましくなったなあ」と読むことができるだろう。

 しかし、「屋根かざりなんか、あたらしくすればいい」と言っておきながら、パパはこれ以降、新しい屋根かざりを作っていないのである。

 パパが繊細すぎるほど繊細な感性を持っていることに思いを馳せるとき、この場面はむしろ、悲しみを必死に押し隠そうとしているように見えなくもない。「にこにこしていました」と最後に書き加えたのは、マスクを装着したようにも見える。ビハインド・ザ・マスク。マスクの裏側で、パパはどんな顔をしていたのだろう。

 コーヒーカップを持つ手は、震えていなかっただろうか。本書の序盤で、自伝の執筆と家族から逃げ出そうとして息子から呼び止められた時、足が震えていたように。

 

 それはさておき、屋根かざりの喪失は、ムーミンパパに深い悲しみをもたらしたのだ、と読めなくもない。これはそんなに無理のある読み方ではないですよね。そして、この屋根かざりは時を超えてパパの手元に戻ってくるわけだけれども、私が思うのは、この屋根かざりは本当に存在したのだろうか、ということである。

 これはさすがに無理のある読み方ですよね。

 でも、そもそも、この自伝はどこまでが本当なのかという問題があるわけです。

 

 とはいっても、この自叙伝では、少しは大げさにいったり、ごちゃまぜになったりするところもあるでしょう。でもそれは、ただ本当に、経験した土地の様子をはっきりえがくためや、その時の情熱をいいあらわすためなのです。ほかは、まるっきり真実です。(p12)

 

 誠実なムーミンパパは、自伝の最初の方でこのように断っている。他にも、登場人物のプライバシーに配慮して一部の人の名前を変えている、なんてことも書いている。誠実である。○○さんを□□さんに変えてますと書いちゃうくらい(それは言っちゃ駄目なやつでは?)、誠実なパパである。

「あちこちにいくらか誇張したところはあるがね……(p.61)」と述べる言葉に、嘘はないと思う。「少しは大げさ」で、「いくらか誇張」しているが、それは、伝えたいことを、より伝わりやすくするために脚色しているということで、つまり、見せかけは多少は違うかもしれないけれどもその中身、本質的なところは同じということですよね。

 煙が立っている以上は必ず火が存在しているよ、そこは嘘じゃないよ、ということで、そういう前提を確認した上で、あらためてこの自伝をとらえなおした時、では、屋根かざりは本当に存在したのか? と私は思う。

 

 私はこの屋根かざりは、「誇張」だったのではないかという気がしないでもない。

 パパが大工仕事が得意で、好きなのは本当だと思う。しかし、それにしたって、上で引用した初めての大工仕事のくだりは、あまりにもゴージャスに彩られすぎている気がする。

 大工仕事が楽しすぎて、その喜びを大げさに語ったのではないだろうか。

 この時、パパが何かを作ったのは、本当なのだろうと思う。嵐に遭い、それを失ってしまったのも本当なのだろう。しかし、それがはたして金の屋根かざりだったのかどうかはわからない、と私は思う。なぜか。屋根かざりはたしかにパパの手元に戻ってきたが、その時のパパの反応には、なにやら含むところがあるからである。

 

 自伝を執筆中のムーミンパパは、浜辺にて、子供たちといっしょに「たまねぎみたいなかっこう(p.133)」をした何かを見つける。そしてこのたまねぎが、昔、嵐で失った屋根かざりであることにパパは気づく。ここの文章も凄くかっこいい。最小限の、端的な言葉で、この感動的な場面が描かれている。

 そう、ここはとても感動的な場面なんです。失くしたはずの思い出の品との劇的な「再会」を果たすわけですから。この「再会」は、ラストで再び繰り返されたともいえる。

 それはさておき、屋根かざりを見つけて、ムーミンパパはなんと言ったか。

 

「さあ、あたらしい章に取りかかるぞ。この再発見については、ひとりで考えてみよう。(後略)」

 それからムーミンパパは、片方の腕に金のたまねぎかざりを、もう一方に思い出の記のノートを持って、みさきの先へ向かって歩いていきました。(p.134)

 

 再発見についてひとりで考える、って、何を考えることがあるのだろう? これ、私の勝手な妄想ですが、この時パパは、「え、うっそ!? この金の屋根かざりって、俺が空想でこしらえたやつじゃん! なんであるの?」と思ったのでは。

 そして、「ってことは、俺がこのノートに書いている自伝の空想部分は、あったことになるってことか」と考えたのではと思ってみたい。

 両手にそれぞれノートと金のたまねぎを持つパパの姿は、自伝と空想がイコールになった瞬間を表しているとも見える。

 浜辺で屋根かざりを見つけているというのも興味深い。

 

 しかし、読者のみなさん、それよりももっとわたしたちをひきつけるのは浜辺であるということを、わすれないでくださいね。(p.103)

 

 ムーミンという種族は、浜辺が大好きなのだという。

 

 わたしたちはたいてい、てきとうに変化があって、気まぐれで、思いがけなく奇抜なものが、いちばん好きなのです。つまり、少しだけ陸で、いくらか水のある海岸とか、ちょっと暗くて、ほんのり明るい夕方とか、なんとなく寒くて、うっすらあたたかい春とかがね。(p.104)

 

 境目のはっきりしていないもの、曖昧な「あいだ」、そういうものに惹かれるものらしい。この「あいだ」に、過去と現在、現実と空想の境目も含めてみる。

 そうすると、浜辺という「あいだ」の空間に、現実には存在しなかったはずの屋根かざりが出現したとしても、なんら不思議ではない。たぶん。

 そしてこの時、過去が確定した=屋根かざりは存在していたことになったのである。シュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーのたまねぎ。

 パパはこの発見にものすごく力を得ている。

 

「わたしだって、若いころは、ムーミントロールぐらいの元気はあったさ。今だって、まだおとろえちゃいないぞ」(p.134)

 

 楽しそうにこんなことを呟いている。ちなみに、空想の具現化というモチーフは、『ムーミン谷の十一月』でのホムサとちびちび虫にもあてはまりますね。

 

 それはともかく、多少、誇張した過去によって、現在の自分が元気づけられる。水を得た魚状態になったパパの筆はここからさらに奮いまくる。おそらくは驚異的な空想力による多少の誇張を加えつつ書き進められた自伝は、最後、可憐な出会いで幕を閉じ、そして、本書自体も、自伝を書き終えたパパのエピローグで終わりを迎える。

 このエピローグ、本当に本当に素晴らしい。泣きましたよ。あの三回のノックの後の展開で。

 

 そう、三回のノック。この音が鳴る直前、トーベ・ヤンソンさんはこんなことを書いている。

 

 ちょうどそのとき、本当にふしぎなことに、この物語にはぜったい必要な瞬間なのですが、だれかがドアをノックしました。短く、強く、三回のノック。(p.256)

 

 三回のノック。こんなこと書かれたら、気になっちゃいますよね。

 

 わたしは買いものぶくろから取り出されると、決まりごとのように、三回くしゃみをしました。なにがしかの意味があるのかもしれません……。(p.16)

 

 くしゃみを三回。三回に、何かしらの意味があるかもだって? どんな意味だろう?

 

「三回であててごらん」

 ヨクサルが、にたにたしながらいいました。(p.220)

 

「そうじゃ、そうじゃ、そうじゃよ。(後略)」

 王さまは、いらいらして答えました。(p.227)

 

 この、同じ言葉を三回くりかえすってのも、意味があるのだろうか。

 

「しいっ、しいっ、しぃっ。ところで、もうそろそろ、わたしがあらわれるんじゃない?」

 こういってムーミンママは、顔を赤らめました。(p.242)

 

 おばけはきまって三回うめくし、ね。やっぱり、なにがしかの意味があるんでしょうよ…。

 ママの赤い顔と言えば、自伝パートはママとの出会いで幕を閉じるわけですが、この時、ママの顔が赤くなる。

 

 するとその子は、いいようもない目つきでわたしを見上げて、まっ赤になったではありませんか。(p.251)

 

 この赤が、海のオーケストラ号の赤と、王さまのところで乗ったまっ赤なボートと同じ意味を持っていることは言うまでもない。パパの冒険=刺激を与えてくれる存在が、ママになったというわけだ。素晴らしい出会い。

 

 最後に、本書に頻出する「回転するもの」について、飛躍しまくりで考えてみたい。

 ふたつの歯車が組み合わさって海のオーケストラ号は前進するわけだけど、この二つの歯車は、そのまま、ムーミンパパとフレドリクソンを象徴しているとみていいですよね。ね。

 そして水車とメリーゴーラウンド。これもある種の歯車と見たときに、この二つもまた、何かを前進させているとみることができますよね。たぶんね。それを、かっこつけて、運命、ということにして。

 運命の歯車。

 なんだかありふれた表現になってしまったけれども。

 さあ、この運命の歯車、止まってしまいます。

 

 滝の水は止まり、あかりは消えて、メリーゴーラウンドは大きな茶色の布をかぶせられて眠っていました。(p.180)

 

 前進をやめた運命はどうなるのかというと、フレドリクソンとの間に妙な距離ができて、パパは自分の憂鬱と向き合うことになり、おばけを生み出す。

 そしてそのおばけとも上手いこと付き合っていけるようになった時、フレドリクソンたちとの最後の大冒険がはじまる。

 

 でも、水車もメリーゴーラウンドもたぶん止まったまま、というかもう登場しない。停滞した日々。うわーもううんざりだー、となったところでママと出会う。

 

 パパの手元には、王さまからその空想力を褒められてプレゼントされた「手回しオルガン用のきれいなかざりがついたハンドル(p.159)」があるはずである。

 そのハンドルこそ、パパが自分の力で運命の歯車を回転させるために必要なアイテムではなかったのだろうか? このハンドル、どこにいったの?

 スニフからハンドルはどこと尋ねられたとき、どうしてパパは、言葉を濁したのか? 「ひみつのプレゼント(p.167)」とはやっぱりハンドルのことなのだろうか? では、だとしたら、なぜ「ひみつ」なのか?

 

 パパはこの作品内のどこかで「ひみつのハンドル」を使用したのではないか。そして、作品内に散りばめられた歯車たちが動き出し、夜の緞帳が開かれて、あらゆる意味での「夜明け前」を作品の最後にもたらすことになったのではないだろうか。

 

 自伝内で何度も強調されていた夜明けと、何度も華麗に書き直されていったムーミンパパの悲しい出自。

 それらを書きながらパパは、おそらく自分自身を癒しており、そして、自伝を完成させた時、「本当にふしぎなこと」が起こり、夜明け前の冒険が始まる。

 かっこいい。トーベ・ヤンソン、かっこいい。こんなに胸に迫るエンディング、ないですよ。と思うのだけれど、まだこの後に『ムーミン谷の夏まつり』が控えているというね…。おそろしい。トーベ・ヤンソン、おそろしい。

島田雅彦『自由人の祈り』

表向き美しい世の中を

本当に美しくするために

おまえは歌え。

(「自由人の祈り」より)

 

 本書に収録されている「またあした」という全文ひらがなの詩が私は大好きで、もう二十年以上の長きにわたって私を支えてくれている。

 もうほとんど背骨みたいなものである。

 ひねくれて純真で愚かで馬鹿で傷つきやすかった若かりし日の私の心を、この詩は慰撫し、そして活力を与えてくれた。

 でもひとつ分からないところがあって、それはこの詩の「ぼく」が、最後、「きみ」になって終わるところ。なんでいきなり「きみ」? という疑問はずっと持っていた。

 それで少し前になるけれども、当時小三だった息子の寝かしつけに何かいい本ないかなーと探していた時、この詩集を見つけ、こりゃあいい「またあした」を読んで聞かせようと思い、読んだ。

 それなりに生きづらさを抱えつつ、上手くいったり行かなかったりの日々を送る息子に、この詩が少しでも響いてくれたらうれしいなーと思いつつ涙ぐみながら読みすすめ、そして「ぼく」が「きみ」になる場面に差し掛かった時、「あ!」と思った。

 この詩は、かつての「ぼく」から今の「きみ」捧げられているのか、と思ったのだ。そういえばこの詩は元々、島田雅彦さんが高校生の合唱曲向けに書いたものだったはずだ。

 大人から子供へ。

 気がつくのにずいぶん時間が経ってしまったが、でも、このタイミングで気がついて良かったと思う。今の私と息子のために書かれた詩だ、とさえ思えたので。優しい詩。

 今のところ、島田雅彦さんの詩集はこの一冊だけのはず。もっと読みたいな。

 

トーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』山室静訳、翻訳編集:畑中麻紀

「ねえ、スナフキン。ぼくがパパにもママにも話せないひみつを持ったのは、これが初めてなんだ」

 ムーミントロールは、真剣な顔でいいました。

 それからスナフキンがぼうしを抱えて、ふたりは川ぞいを歩きだしました。(p.60)

 

 前作(『ムーミン谷の彗星』)があれだけ面白かったのだから、今作もきっと面白いに違いない、でも、前作の面白さを超えることは難しいだろうな、だって『彗星』はあれだけ面白かったのだもの。そんな浅はかな予断を軽やかに蹴とばしてくれる傑作が『たのしいムーミン一家』である。

 冒険あり、笑いあり、友情あり、バカンスあり、ターザンごっこあり、恋愛あり、笑いあり、涙あり、ニョロニョロあり、モランあり、笑いあり、悲しみあり、大パーティあり、笑いあり、笑いあり、笑いあり…。ムーミントロールたちが魔法の帽子を見つけることに端を発するこの物語は、とにかく内容が盛りだくさん。

 しかし、盛りだくさんとは言っても、制限時間内食べ放題のお店において、ラストオーダー十五分前あたりからひたすら向き合うことになる「もっと食べたいけれど、もう食べられない」という切なさを覚えたりするようなことはない。最後までおいしく完食できる。そのことを私はとても不思議に思う。だって、これだけ密度の濃い作品なのに、「いやーもうお腹いっぱい」とならないのだから。なぜなのだろう。それはやはりトーベ・ヤンソンさんの語り=文章、に理由があるのではと私は思う。

 

 飾り気のない、端的な言葉で綴られる文章だから、いくら読んでも胸やけを起こさないのだ、とは言えないだろうか。豪華絢爛な比喩満載で満漢全席のような文章は、それはそれでいいんだけれども、読んでいて疲れるし、砂糖でべったりとコーティングされた文章なんかも最初のうちはいいかも知れないけれどすぐに飽きるだろうし、病気になる、虫歯とか糖尿病とか。

 それに比べてトーベさんの文章は、そもそも味付けがされていない気がする。語りの妙味だけで勝負している、と私には思える。それがとても格好いい。ムーミン小説にはある種の格好良さがある。前作同様、『たのしいムーミン一家』でもその文章は冴えわたっている。それどころか、もっと凄いことになっている、とすら言えるかもしれない。

 

 どういうことかというと、描写に空白が生じているのである。つまり、何かが描かれてしかるべきところに、その文章が置かれていない。それも感動的な場面に限って。

 描写の空白。それは引き算の描写というよりは、足し算だと私は思っている。手を抜いているのではなくて、より丁寧に手が加えられている。空白を足している。そして空白で描写している。何を? 言葉では表現できない何かを。

 例えば、物語の序盤で、ムーミントロールスナフキンが、夜中に家を抜け出した場面。ムーミントロールが、この記事の冒頭で引用したセリフを言う。けっこう情熱的な発言だと思うのだけれども、ここにスナフキンのリアクションは描かれていない。空白である。え、なんもないの? と思う。

 ここは、映画でいったら、やや興奮気味でいい顔してるムーミントロールのアップでセリフがあって、その次は切り返しでスナフキンの表情でしょう? それで、セリフは無いまでも、スナフキンの表情から、なにかしら「いいもの」を読み取りたいじゃないですか観客としたら。

 でもそこは描かずに、ムーミントロールの顔アップの次のカットでは、引きの画で、歩いている二人の後ろ姿になっているような感じ。

 あれ? 見落とした? となるが、そうではなく、ここに、描かれてしかるべき何かと引き換えに空白が挿入されたのだ、と思ってみたい。

 そして私はこの空白に、否応なしに想像を働かせてしまうのだ、それがとても楽しい。

 この場面の後、二人が洞窟を訪れ、そこで夜明けを迎え、ムーミントロールがまたもや思わせぶりな発言をする。しかしここでもスナフキンの反応は描かれない。

 空白。

 二つの意味ありげな空白によって、この「夜の散歩」は私の中に強烈な余韻を残す。

 

 このような空白がもたらす効果について考えるとき、私は、物語の終盤に登場するスピーカーとオルゴールのことを連想してしまう。

 スピーカーって、中はわりと空洞で、なんかふわふわする綿とかが入っていたりするけれど(私のものだけかもしれないが)、これは良い音が鳴るように設計された空間と綿、なわけですよね。

 で、『たのしいムーミン一家』をひとつのスピーカーになぞらえてみたとき、この描写の空白っていうのは、キャラクターたちの感情や表情や、美しい風景やとある現象が、「良い音」で読者に響くためにきわめて有効に働いている、と私は思う。いわば、音響エンジニアとしてのトーベ・ヤンソンである。(ちなみに本作の一番巨大な空白は、序章と1章の間にある「冬」だと思う。)

 そしてオルゴールをムーミン谷になぞらえてみる。オルゴールの円筒(というらしい)がムーミン谷。そこに植えられているピンが、個性的なキャラクターたち。そして円筒が回転することでピンが櫛歯(コーム)を弾き奏でられる音色を物語、として見たとき。

 

 するとムーミンパパが、オルゴールを庭へ持ち出して、大きなスピーカーにつなぎました。(p.212)

 

 この作品の世界的な大ヒットについて考えたとき、オルゴールの音色は、大きなスピーカーによって、ムーミン谷どころか世界中の読者の胸に鳴り響いた、と言えなくもないだろう。ええ、だいぶ恣意的な解釈だという自覚は、持っています。

 ところで音響エンジニアとしてのトーベさんの技術のショーケースとなっているのが『ムーミン谷の仲間たち』で、音響技術を極限にまでつきつめたものが『ムーミン谷の十一月』なのではないかと、今のところ私は思っている。

 

 さて、思い込みをさらに強くすると、『たのしいムーミン一家』における描写の空白は、トフスランとビフスランによって奪われた跡だと読めなくもない。それらは二人の旅行かばんのなかに隠されたのである。

 トフスランとビフスランは、悪気はないようだけれどもけっこう手癖が良くなくて、気に入ったものは勝手に持って行っちゃうようなところがある。

 で、二人の持つ旅行かばんの中には「世界一美しいもの(p.181)」が入っているという。それは巨大なルビーのことなんだけれど、しかし、私が注目したいのは、ムーミン谷のみんながそのルビーを見たときに、「だれもが心の中にしまってある、いちばんくっきりと美しくすばらしい思い出が、このルビーの炎の中にうつっているような気がし(p.216)」ていることである。

 ルビーの中に思い出が入っている。

 私は、トフスランとビフスランが、「あーここ美しい場面だなー、持ってっちゃおう」なんて思いながら、二人してそそくさと「描写」を旅行かばんの中にしまう様子を思い浮かべたりしてみた。思い込みも度が過ぎる気がしないでもないけれども。

 それはともかく、つまり、『たのしいムーミン一家』における空白とは、美しい思い出の跡地でもあり、そしてその思い出はルビーの中で永遠に燃え続けている。

 

 そして、ムーミントロールが姿を変えても、ママは自分の息子だと見抜いたように、本物だろうが偽物(スノードーム、木の女王、スノークのおじょうさんが焼けた前髪の変わりに頭に付けた海ユリ)だろうが関係なくて、もっと目に見えないところ、言葉で表していないところ、でも確実に存在する本質的な何かが大事なんだよ、というメロディが、この『たのしいムーミン一家』から響いてくるということです。

 

 あとやはり、「旧版」も良いのですが、「新版」で読まれることもお勧めします。例えばですね、この記事でも引用した、

「ねえ、スナフキン。ぼくがパパにもママにも話せないひみつを持ったのは、これが初めてなんだ」

 というセリフ。これが旧版だと、

「ねえ、スナフキン。ぼくらがパパにもママにも話せないひみつをもったのは、これがはじめてだねえ」

 となります。同じようで微妙に違いますよね。

「ぼく」と「ぼくら」の違い。

 このたった一文字の「ら」があることで、「初めてなんだ」が「はじめてだねえ」となり、やがてバタフライエフェクトなみに作品全体に大きな影響を及ぼしている、と私は思います。結果、見えてくる景色や意味が全然違ってくる気がする。なので「新版」もお勧めです。

トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の彗星』下村隆一訳、翻訳編集:畑中麻紀

 岩山全体がぐらぐらゆれて、あたり一面がふるえ、彗星が恐怖のさけび声をあげました。それとも、悲鳴をあげたのは地球のほうだったのでしょうか。(p.208)

 

 ムーミン小説の第一作目(『小さなトロールと大きな洪水』はとりあえず置いておいて)の『ムーミン谷の彗星』では、冒頭から、ムーミン谷の美しくおだやかな風景が描かれている。ムーミン谷、よさげなところだなあ。自然がきらきらしていて、まばゆいなあ。そんな牧歌的な思いを抱いて読み進めた矢先に、ムーミン谷の様相は一変してしまう。

 

 すべてが、灰色なのです。空や川ばかりではありません。木々も、地面も、家も。あたり一面が灰色で、この世のものと思えないほど、気味わるいようすをしていました。(p.30)

 

 なぜこんなことになってしまったのかというと、地球が滅びてしまうからだという。宇宙は真っ暗闇の恐ろしいところで、それに比べたら地球は吹けば飛ぶようなパンくず程度のものなのだ…と、自称・哲学者のじゃこうねずみから教えを受けたムーミントロールとスニフは怯え切ってしまう。そして二人はめっきり厭世的になってしまう。一日中、階段に座ってぼーっとしてたりする二人のことを案ずるムーミンママとムーミンパパ。

 

「あの子たちに、なにかさせないといけませんわ。ふたりとも、遊ぼうともしないもの。じゃこうねずみにいわれて、この地球がほろびることしか考えられないんだわ」

 ムーミンママは、心配そうです。

「子どもたちを、しばらくよそへ行かせようと思うんだ。じゃこうねずみが、天文台のことを話していたしな」

 と、パパがいいました。(p.36)

 

 たしかに、地球が滅びることも心配だけど、子どもたちが家に閉じこもってばかりなのも、気がかりではあるよね。だから、この時のムーミンママとパパの気持ちも分からないではない。天文台は、「少し川をくだったところ(p.36)」にあるというし。

 ということでちょっと旅しておいで、と言われたムーミントロールとスニフは、当然、その要求を拒否する。

 でもママに説得されて、決意に燃えた二人は旅に出るのだった。

 

 天文台は「少し川をくだったところ」にあるはずだったのだが、そんなことはなく、二人の旅は命がけの壮絶なものになる。途中、スナフキンと出会い、なんだかんだ危ない目をくぐりぬけて天文台に辿り着き、四日後に彗星が地球に衝突することを知り、家に帰る途中でスノークスノークのおじょうさんと出会いつつ、これまた危険な目に遭いながらなんとか帰宅し、そして、彗星が衝突する瞬間を迎える…。

 

 私は初めてこの小説を読んだとき、接近する彗星の熱気で干上がって変わり果てた海の底を、みんなが竹馬で渡っていくシーンにとてつもない衝撃を受けた。なんだこれは、と思った。

 

 ひとりずつ竹馬をにぎりしめながら、赤い夕もやの中を下っていきました――。海草に足をとられたり、すべったり、湯気でおたがいの顔もよく見えません。(p.149)

 

 すごすぎる、と思った。もちろん、こういう場面にでくわしたときの私の常として、感情をうまく言い表すことができないわけだけれども、とにかく独創的で、そして圧倒的に「こわくて、美しい(p.150)」と思った。この場面と出会った瞬間から私は完全にムーミン小説の虜になり、傑作中の傑作である『ムーミン谷の十一月』まで夢中で読んだ。

 

 今回、『ムーミン谷の彗星』を読み返してみても、やはりこの竹馬のシーンにはとにかく興奮したし、クライマックスの展開には、胸を締め付けられた。劇的すぎると思った。読み終えた後は、気持ちが高ぶってなかなか寝付けないくらいだった。

 そして、ふと思ったのだ。彗星とは、なんだったのだろう? と。

 

 彗星とは、いったいなんだったのだろうか。

 

 この作品が書かれた時代背景や、彗星が地球に衝突する日付の意味ありげな感じから、彗星とは、日本に落とされたふたつの原子爆弾のことを暗喩しているのではと、つい思いがちである。私も、きっとそうなのかもしれないな、と思った。しかし、彗星=原爆と捉えたとき、私はどうしても引っかかりを覚える箇所がある。ムーミントロールの次のセリフである。

 

「(前略)彗星って、ひとりぼっちでほんとにさびしいだろうなあ……」(p.164)

 

 このように、彗星に対して、ある種の共感というか同情の念のようなものをムーミントロールは抱いているわけだけれども、では、原子爆弾に対してもムーミントロールは同じように思えるのだろうか。

 なんてことを思いながら、トーベさんの評伝(ボエル・ヴェスティン著『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』畑中麻紀+森下圭子訳)を読んでいたら、『ムーミン谷の彗星』は1945年の7月の終わりには完成していたらしいと書かれてあり、となると、少なくとも日本に落とされた原子爆弾の暗喩ではないと思われる。

 では、彗星が地球に衝突するあの意味ありげな日付は? これについても、意外な理由が評伝には書かれている。詳しくは評伝を読んでいただくとして、ここでは、広島と長崎に落とされた原爆を意識した日付ではない、ということを述べるにとどめておこう。

 

 では、彗星とは何か。

 

 彗星とは、スニフのことではないだろうか。

 またそうやって奇をてらったこと言って注目を集めようとしてるのか、姑息な真似は慎みたまえ、という自責の声が胸の内にかすかに響いた気がしたが、聞こえなかったことにして話を続けてみようと思う。

 

 この物語は、スニフの物語であり、彗星は、たまたま地球に直撃しなかったのではなく、ムーミンママによってぎりぎりのところで衝突が回避された、と読むことができはしないだろうか。こじつけここに極まれり、と思われるかもしれないけれども。

 

 さて、ではなぜ私は彗星=スニフと思ったのか。

 まずはこの小説の冒頭に注目してみたい。最初の文章で、ムーミンパパが川へ橋を作ったと描写されている。この橋は、読者をムーミン谷へといざなう通路とみなすこともできるだろう。

 つまりこの橋とは、「むかーしむかし、あるところに…」であり、「はじまりはじまりー」でもあるわけだ。

 それにしても私が感動するのは、この橋の置き方の素っ気のなさである。この橋の場面を、もっときらびやかに演出することもできたはずなのだ、「さあさあいらっしゃい、はらはらどきどきする楽しいお話が待ってますよーおいでー」みたいな感じに。でもトーベさんはそんなことはしない。それは読者に媚びることになると考えたのかもしれないし、そういう態度はムーミン谷っぽくないと考えたのかもしれない。余計な飾り立てはせずに、あくまでさらりと、簡潔に、言葉を配置していく感じ。このような「文章」が、ムーミン小説の最大の魅力のひとつであると思う。かっこいいし、何度、読み返しても飽きない。ページの居心地がいい。

 

 ともあれ、小説の冒頭、最初の文章で、読者とムーミン谷をつなぐ橋ができた。

 

 そして看過してはならないと思うのが、同じ文章の中で、スニフが「すばらしい発見(p.5)」をしていることである。それは「今まで知らなかった、あたらしい道(p.5)」だという。そこへ私たちをいざなうわけですね、アリスのウサギのように。

 

 このあとも、スニフはいろんなものを発見する、時として「くぐり抜ける」というイメージをともないながら。しかしこれらの「くぐり抜け」は、スニフ単独でなされたものではないとも言える。ムーミントロールと一緒であり、途中からはスナフキンも加わっている。

 しかし、スニフひとりだけが「くぐり抜け」たものが、ひとつだけある。望遠鏡である

 。スニフだけが望遠鏡の中を覗き(くぐり抜け)、彗星を目にしている。この作品内に彗星が姿を表した瞬間である。スニフが彗星を発見した。これを私は、スニフが望遠鏡を覗かなければ、彗星は存在しなかった、と読み替える暴挙に出るわけです。ね。

 ね。じゃねえよ、と思わないでもないですが、さらにここから飛躍させて、スニフが悔しい思いをしたり悲しみを覚えたりしたときに、それと連動して彗星が巨大化(接近)していくと考えてみる。小さなスニフの、大いなる悲しみとしての彗星。

 

 たわごとの極致みたいな発想だけれども、でも、私なりに筋は通っているんです。この作品を通してスニフはずっと、ほぼまともに相手にされていないし、ぼやいているし、悲しんでいるし、悔しい思いをしている。でも、読者は、というか私は、「スニフってそういうキャラだよね」と思い、きちんとスニフに向き合ってこなかった。それはムーミントロールが彗星をあまり怖がらなくなったことについて「ただ、彗星になれてしまっただけ(p.164)」と言うことと似ている。スニフがぞんざいに扱われていることについて、私は慣れてしまっていた。しかしスニフはずっと苦しかったのだ。彗星の巨大化がそのことを証明している。というわけです。ね。…詭弁にすらなってないかもしれないけれども。

 

 ムーミン谷に戻ってきてからのスニフは、さらに酷な扱いを受ける。子ネコのミルクは腐っているし、ケーキには「かわいいスニフへ」と書かれていないし(しかもそのケーキを運ばされている)、誰も話をまともに聞いてくれないし…。

 p.188の挿絵で、スニフがミルクをこぼしたようすが描かれている。これをどう見るかは、人それぞれだろうけど、私には、スニフが自分に注目してもらいたくてわざとこぼしたように見えた。しかし、誰も見向きもしない。悲しすぎる。

 

 最終的には、関係のない笑い声が、自分を馬鹿にして笑っていると勘違いしてしまうくらい、スニフは追い詰められる。そうして、シェルターとしてみんなで隠れていたどうくつを飛び出す。森の奥深くへ行き、「なにもかも、どうにでもなれ。(p.202)」と思う。そして、怖くてふるえだす。彗星が衝突するまで、あとほんの少し。

 

 そして、ムーミントロールがスニフを探しに行くわけですが、ここからの描写は圧巻ですよ。ほんとすごい。どうしてこんな簡潔な言葉づかいで、心を揺さぶることができるのだろう。私には聞こえなかったが、ムーミントロールには聞きとることができた、スニフの「たすけて」を。

 

 さて、ムーミントロールとスニフはどうくつに戻ってきた。しかし彗星はいままさに衝突しようとしている。あーこれもう駄目でしょー、と思ったその時。

 ママが大慌てでスニフにエメラルドをプレゼントするのである。

 前半で出てきたガーネット、そして彗星の「赤」ではなく、「緑」の宝石というところがね、大事ですよね。

 

「(前略)わあ、すごい。ぼく、なんてしあわせなんだ」

しかし、ちょうどその瞬間、あの彗星が地球めがけて落ちてきたのです。まっ赤に燃える火のかたまりが――。(p.207)

 

 そうして、この記事の冒頭で引用した文章へと続く。

 この場面を、スニフの孤独と悲しみに、ムーミン谷が呼応した瞬間だと読んでみたい。それは共鳴であり、優しさに裏打ちされた壮絶な抱擁である。

 

 さて、こうして読んでみると、ママがスニフにエメラルドをプレゼントしたから、地球は助かった、と読めますよね? ぎりぎりのところで彗星の孤独は癒されたというわけです。ね。

 このあとのエンディングもね、凄いですから。読んでみてくださいね。

 

 ところで、本作におけるスニフと彗星の図式(小さな存在がその小ささ故に悔しい思いをして、それに連動するように、最初は目に見えなかった異形の存在がしだいに巨大化していく)は、『ムーミン谷の十一月』におけるホムサとちびちび虫の関係でふたたび登場している、と言えなくもないと思う。スニフの場合は、ムーミントロールムーミンママが助けてくれたわけだけれど、ホムサの時は二人は不在だから、自分でなんとかするしかなかったのであって、ホムサ、がんばったね、えらいね…と思う私である。

 

 あと、『ムーミン谷の十一月』に関連付けて言うと、彗星が通り過ぎて、真っ暗などうくつにあかりがともった時、子ネコが毛づくろいしてるというのは、『十一月』のあの場面でミムラねえさんが語ったあのセリフとリンクしているように思えて、ということは…。ここから先は、いずれ改めて書く予定の『ムーミン谷の十一月』の感想文にて考えてみようと思います。(2023年7月25日22時45分追記:このことについて書くのを忘れていました…。私の微妙な記憶違いもあった。思わせぶりなことを書いてすいません。)

村上春樹『村上朝日堂 はいほー!』

 その昔、私が犬と暮らしていたころ。

 犬との散歩コースにある電柱に、看板が取り付けられていて、そこには、「お父さんお母さんに 言えないことは悪いこと」という標語が書かれていた。

 それを見るたびに私は嫌な気持ちになっていた。ごく控えめに言って、くそむかつく、と思っていたわけだけれども、それがどういう風にむかつくのかをうまく言い表せずもやもやを抱えたまま、毎日、夕方になると犬と一緒にその看板の前を通り過ぎては、くさくさしていた。

 本当に精神衛生によくない看板だった。

 いびつな規範・ゆがんだ道徳を不気味な笑顔で押し付けてくる、この嫌な感じをなんと説明したら良いのだろう。なんてことを考えながら、気づいたら、四十歳になっていた。

 

 ところで、私も妻も山羊座のA型であり、あまりにも不憫な山羊座A型の憤りを代弁してくれていることで話題の「わり食う山羊座」(村上春樹さんも山羊座のA型だそうだ)というエッセーが読みたくて、それが収録されている『村上朝日堂 はいほー!』を読んだ。どのエッセーも面白かった。なんだか毎回、笑わされていたような気がする。

 それで、あはは、と笑いつつ、寝るのも忘れて読み進めていると、「狭い日本・明るい家庭」と題された文章と出会った。

 感激した。

 この文章が、私の長年のもやもやを吹き飛ばしてくれたからである。どういうことかというと。

 

「狭い日本・明るい家庭」というエッセーは、村上春樹さんが町で見かけた「親と子が何でも話せる楽しい家庭」という標語が書かれた看板についての違和感を語るところから始まる。

 おや、と私は身構えた。「お父さんお母さんに 言えないことは悪いこと」と似た標語だからである。ふたつが言わんとすることはほぼ同じと見てよいだろう。

 村上春樹さんはこの不気味な標語をどうしようというのか、どきどきして先を読むと…なんかもう、ばっさばっさと斬りまくるわけです。容赦ない。これが実に痛快で、私が抱え込んでいた怨念は、笑いとともに成仏した。

 エッセーでは、この標語のみにとどまらず、次々と他の有名標語が登場しては、斬り倒されてゆく。面白すぎて声をだして笑ってしまった。楽しい本でした。

 

太田静子『斜陽日記』

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「でも、今日の夕方は、とても、うつくしい夕焼だったわ。夕焼は、明日いいお天気になるという証拠でしょう? きっと、お天気になりますわ。(後略)」

 

「相模曾我日記」と題して太田静子さんが付けていた日記帳は、彼女自身の手によって太宰治に渡され、太宰はこの日記をヒップホップ的な意味でサンプリングしつつ、傑作『斜陽』を書いた。『斜陽』出版後、太宰が死んだのちに、この日記は『斜陽日記』として世に出た。

 

 読んで、とても面白かった。なんというか、太宰がいかに太田静子さんの文章を再現しつつ『斜陽』を書いたか、その再現力の高さに恐怖を覚えたりもした。そして、これは『斜陽』のクレジットに太田静子さんの名を加えるべきだとも思ったりした。ジョン・レノンが後年、「イマジン」の共作者にオノ・ヨーコの名を加えたように。

 

『斜陽』の文章が魅力的なのは、それは、太田静子さんの文章が魅力的だからである。かず子が魅力的なのは、それは太田静子さんが魅力的だからである。つまり、『斜陽日記』の魅力は、『斜陽』で完ぺきに再現されているということだ。

 

 ところで、太宰はなぜ、「相模曾我日記」に、「斜陽」というタイトルを与えて小説化したのだろうか。

 

「相模曾我日記」の印象的な場面のひとつに、この記事の冒頭で引用した夕焼の場面がある。とても美しく素敵なこの場面を、意外なことに太宰は『斜陽』で再現していない。

 え? なんでこのシーンをカットしちゃったの? と私は驚いたものだが、しかし、よく考えてみると、この美しい夕焼の場面は、タイトルの「斜陽」という言葉に配置されたのではないかと思うのだ。

 

 つまり、「斜陽」というタイトルが意味するところは、没落とかそういうものではなく、「明日いいお天気になるという証拠」だったのではないだろうか。そう考えると、『斜陽』のエンディングの感じともうまく合致するような気がする。

 太田治子さんの解説も含め、『斜陽』の存在を度外視してても必読の一冊であると思う。